落とし穴
僕の名前は清空茜音。自分で言うのもアレだが、女の子にはモテモテ、容姿端麗、学業優秀のスーパー高校生だ。僕が一声あげれば、女の子達は「耳が孕む」と言ってくれるし、僕の一挙手一投足に、女の子達は身を震わせる。
僕の人生、何もかもが絶好調。前途有望で、悩みなんて何ひとつない、健やかな学園生活を僕は送っている。だがそんな僕にも厄介な、苦手なイベントがある。いや僕だからこそ厄介だと言うべきか。そのイベントの名前、それは「バレンタイン・デー」だ。
まぁ、こんなイケメンの僕だから、貰えるチョコは数限りない。チョコの数。僕が気にしているのはそんなことじゃない。僕が気にしているのは、そう。愛しい僕のファンである女の子達が、格闘も厭わぬ「僕争奪戦」を繰り広げることだ。女の子は毎年僕にチョコを渡そうと、我先になる余り、それこそ血染めの争いをしてしまうんだ。
実際、去年の「バレンタイン・デー」には三人の女の子が大怪我をして、病院に運ばれたくらいだ。そのせいで僕は校長先生に呼び出され、窘められたほどだ。だから、つまりは僕にとっては「バレンタイン・デー」は億劫意外の何物でもないってことさ。
だがそんな「バレンタイン・デー」が今年も明日に控えている。憂鬱だ。僕はとりあえずは身だしなみを整えて、明日を待つ。憂鬱で陰気な想いは拭えないが、ファンの期待に応えないわけには行かないだろう? もし今年も「僕争奪戦」のせいで怪我人が出たとしたら、それは僕のせいじゃなく「彼女達の自己責任」だ。そうでも思わないとやってられない。
翌日。「バレンタイン・デー」を迎えた僕は、学校に向かう。学校の門扉前では、早くも女の子の一団が僕を待ち構えている。女の子達は肩をぶつけ合って、挑発しあって、今にも「抗争」が勃発しそうだった。僕は少しだけ俯くと、覚悟を決めて門扉を潜る。
すると一斉に女の子達がチョコを僕の口に突っ込んでくる。
「茜音さん! 私のチョコ!」
「私のチョコ! チョコ! 手作りなんです!」
「食べてください! 私のチョコ! あたっ! あたっ! 私、ぱる子と言いまっ!」
厄介だ。本当に何て厄介な日なんだ。それに今年は去年までの「バレンタイン・デー」とは一味、いやふた味も違う。それは、女の子達が互いにいがみ合うだけでなく、僕を何か獲物の一つとでも捉えているかのように、狙ってくることだった。これは堪らない。
僕は一言「ちょ、ちょっと待って! みんな」と言い残して門扉から逃れる。「茜音さーん!」。そう僕に呼び掛ける嬌声をあとにして、僕は教室に向かう。だがやはり女の子達の襲撃は収まらない。ロケットランチャーを構えた生徒会副会長、海風蓮が僕に向かって砲撃してくる。
チュボーン! 「ちょ、ちょっと待った! 愛情表現というには激し過ぎないか!?」。僕が狼狽えていると、その僕の手を握る細い指先があった。それは風紀委員長、泉希来里だった。
彼女は僕の手を引っ張ると、体育館裏へと連れて行く。彼女は呆れた様子で呟く。
「全く、みんな本当に見境がないんだから」
僕はこの「バレンタイン・デー」において、唯一冷静な様子の希来里を見るにつけ安心して声を掛ける。
「ね、ねぇ。希来里さん。今年の『バレンタイン・デー』は一体どうなってるの? 何だかみんな殺気立ってて、それが僕にも向けられているようにも感じるんだけど」
希来里は困ったように腕を組む。
「『殺気立ってる』。実際そうなのよ。茜音さん。今年は、今年の『バレンタイン・デー』はどんな手段を使ってでも、茜音さんを「落とした」女性、物にした女性が茜音さんを独占出来るのよ」
「『独占』? そりゃ一体どういう意味だ?」
希来里のよく分からない説明に、思わず僕は訊きなおす。
「『独占』。読んで字の如くよ。独り占め。茜音さんを落とした人は、未来永劫、茜音さんを独り占めに出来るってわけ。昨日、生徒会で決まったのよ。全く。可愛さ余って憎さ百倍って奴ね」
その当人無視の荒唐無稽な取り決めに、僕は唖然とするしかない。
「生徒会でって。そりゃ一体何なんだ」
すると希来里のためらいも無視して、遠方から戦車に乗った女学生の一団がチョコを持って、僕と希来里を襲撃してくる。僕の手を引いて、逃走する希来里。
「こっちよ! こっちに安全な場所があるわ!」
僕と希来里は戦車をまいて、逃げ出す。体育館を抜けて、校舎裏にある一本桜の樹のもとへ僕達はやってきた。走って逃げている間、僕と希来里の二人はずっと手を握ったままだった。その感触は、僕が忘れかけていた「何か」を、仄かな、淡い恋心とでもいうべきものを呼び覚ますに充分だった。
息を切らして、僕と希来里は、桜の樹の下で手を握り合う。希来里は優しい笑顔を僕に向ける。
「何とか、みんなを『まいた』みたいね」
「うん。よかった。ところで希来里さん」
呼吸を整えて僕は希来里に訊く。
「君は僕に好意を持っていないのかい? 僕への、チョコは?」
その言葉に希来里はうっすらと、優しい笑みを浮かべる。
「自惚れないで。茜音さん。女の子全員が全員、あなたが好きってわけじゃないのよ」
そう言って希来里の指先が、僕の唇にそっと触れる。僕は気が付いたら、思わず身を乗り出していた。
「僕、こんな気持ち、久し振りだ。君みたいな女の子に久し振りに会えた。その、何ていうか」
「何ていうか?」
少し恥じらった様子で希来里は訊きなおす。僕は想いをぶちまける。
「ぼ、僕と付き合ってくれないか?」
「あら、まぁ」。そう呆れ顔で応えた希来里だが、満更でもないようだ。僕の頬に優しく触れてくれる。何て艶があるんだ。彼女の言葉は僕を惹きつける。
「その言葉に『嘘』はなくって?」
「ああ、ないよ! 本当だ。僕は君が、好きなんだ!」
「好き」。その言葉を聞いた希来里は満面の笑みを浮かべると、僕を艶やかな指先で差し招く。
「じゃあ、こっちへ、いらっしゃって」
そう誘い出す希来里の指先に招かれるまま、足を踏み出す僕。すると次の瞬間。ズドンッ! と物凄い音を立てて、僕の足元は崩れ落ちた。
な、何だ!? 一体何が起こったんだ!? 当惑する僕に希来里が不敵な笑みを浮かべて、「落とし穴」の頭上から僕に語り掛ける。
「茜音さん? 言ったでしょう? 今年の『バレンタイン・デー』は、あなたを『落とした』人が、あなたを未来永劫、独占出来るって」
な、何てことだ。男を「落とす」に「落とし穴」。上手い具合に言葉が被ってるが、今はそんなことに感心してる場合じゃない。何とかここから抜け出さなければ。だがしかし! 僕がどうあがこうと五メートルはあろうかという「落とし穴」からは僕一人の力では抜け出せそうにない。
するとどこからか、希来里に話し掛ける女子の一団の声が聴こえる。良かった。助け舟だ。僕は必死に、懸命になって皆に呼び掛ける。
「みんな! 僕を助けてくれ! その希来里って女の子はとんでもない奴だ! 早く僕をここから助け出してくれ!」
僕の予想では、女子の一団が一斉に僕を「落とし穴」から救い出してくれるはずだった。だがどうも様子がおかしい。女子の一団は、したり顔で希来里に話しかけている。
「希来里。よくやったわね。ここで、この『落とし穴』で、あなたは一生、茜音さんを飼いならすことが出来るのね」
飼いならす? 何だそれは? 当惑する僕をよそに、希来里達の話は続く。
「希来里。時々私達にも、彼の様子を『観察』しに来させてね」
「観察」? 全くもって僕には何が何だか分からない。希来里は陽気な口調で応えている。
「勿論よ。それにしても、呆気なかったわね。同時に、とても嬉しいわ。茜音君は一生私のもの。この『落とし穴』で独り占め出来るわ」
何てこった。何て悪女だ。悪魔のような女じゃないか。この希来里という女は。そう僕が思って「落とし穴」から頭上を見上げていると、最後に希来里が僕に囁きかける。
「安心しなさい。水と餌くらいは毎日運んであげるから。桜の花が芽吹く頃にはあなたは、私の『虜』よ」
水と餌。それに「虜」。何なんだ。それは。そこまで思って僕は抵抗するのを諦めた。これが彼女達、「清空茜音のファン」が望んだことでもあったのだから。そう思うと僕はふっとこうため息交じりにこう零すしかなかった。「全く。何て『バレンタイン・デー』だ」と。