中和剤の一幕
フォロンが杖先を中和剤の試作品に浸し、たらいに張った水に向ける。魔力を込めた杖先の輝きが水の上に線を描き、少しの間きらきら光った後に消えていく。
「フォロン、どう?」
「悪くはないけど。しっくりこない」
「うん」
ふるふると首を振るフォロンの手前から試作品の中和剤を下げて、次のものを差し出す。テーブルからノートを引き寄せ、先ほどの試作品の項にバツを付ける。
フォロンは次の中和剤に杖を付けて、また同じように魔法の乗りを試していく。
「よく飽きないよね」
わたしの部屋で研究机に向かって延々と中和剤の研究を進めていると、ルドミーラが呑気な口調で言う。
声の方を見てみると、応接セットのソファーで寝転がりながら顔だけこちらに向けています。
「錬金術って、そういうものだから」
この子はだらけすぎですね。まあ、最近は研究室の方に随分と拘束されていたようで、今日はたまの休みという感じみたいですけれど。少し前の過酷な労働を強いられていた姿を目にしているので、ゆっくりさせたくはあります。
今日は平日。ですが、三年生ともなれば通常の授業の拘束時間はそこまで長くありません。
わたしはお昼から放課後。ルドミーラとフォロンは昼下がりくらいには授業が終わり、わたしの部屋に集合となりました。
実際は、フォロンとの待ち合わせを約束しているのを横で聞いていたルドミーラが「私もユイリの部屋行く!」と宣言したから一人増えた感じですが。
この集まりの目的は、来週末に迫った魔法発表会でのクラブの出し物、水上の線路に敷く魔法陣の中和剤の作成です。
週末に山で集めた素材とヴィクトール先輩の持ち出しを使い、数日で大体の構成は組み上がりました。ヴィクトール先輩に大量生産をお願いし、完成品が昨日わたしの部屋と会場近くの倉庫に納品済み。
あとは細かく中和剤の組成を変えながらフォロンの反応を見ていく最終段階です。わたしとフォロンとは同じ寮ですので、細かな調整作業をするのは錬金の環境のある自室が便利です。
魔力を大量に使用する先の部分はヴィクトール先輩もちで、ここから先はわたしの担当です。
クラブ連の今回の魔法発表会での目玉になる魔法のパレード。
会場付近の湖上にフォロンが魔法陣で道を作り、その導線に沿って魔法を組み込んだ山車を運行させる計画です。山車の方は他の部員の皆さんが担当しているので、わたしは魔法陣の準備に集中させてもらっています。
とはいえ、同じクラブで活動しているので別チームの話も伝え聞いています。
当初は山車は合成樹脂で作るつもりだったそうですが、案を生徒会に上げたところ出し物はいいが環境に配慮した素材で行えとお達しがあり、最終的にお麩に魔法を組み込んで動かすことになったそうです。最終的に沈めてしまえば魚の餌になる、という考え方のようですね。お麩に魔法というのは、聞いたことないですが……まあ、環境にやさしい感じはします。
でもお麩に魔法って、うまく組み込めるのでしょうか? 謎です。
ともあれ、そうしてフォロンが湖上に敷く魔法陣のための中和剤を作っていく。もちろん中和剤なしでも魔法陣は描けますが、あった方がいいです。強度というよりは、安定感が増す効果があります。
わたしはフォロンの反応を見ながら、少しずつしっくりくる組成に中和剤を近づけていく。完成品と基礎中和剤の割合を変えたり、ベースにしている素材を若干足したり。
うん、こう言ってしまうと何なんですが、まあ地味な作業です。
ラジオでも聞きながらやってもいいんですけれど、さすがに集中力が削がれてしまいそうです。ならばレコードでも聞くかと思いましたが、残念わたしは再生機を持っていません。あれ、高級品ですからねえ。
ともかくそんなわけで、窓を開け放して外のざわめきをかすかに聞きながら、延々と調整作業を進める。
むむむと唸るわたし。淡々と付き合うフォロン。漫画を読みながら時々くすくすと笑っているルドミーラ。若干一名用なしがいるような気もしますが、相手にする時間はないので作業を優先させます。
この中和剤を完成させないと、フォロンが湖上に魔法陣を敷く作業が延びていってしまいます。ひいては、クラブ連のメインイベントのリハーサルやら何やらがあおりを受けていくことになるのです。
今のところ若干遅れている感じですので、少なくとも今日中には完成させたい。希望を言うならば会場の中和剤の在庫にも最終調整を反映させておきたいですが、中和剤を完成させたら別の予定も詰まっているので、さすがにそれは明日に回すことになるでしょう。
押しています。まあ、一分一秒を争うというタイプの話ではありませんので、時々雑談をしながらという作業にはなります。
そうしていると、不意にぽーん、と内線が鳴る。
ドアの傍に寄って受話器を取るとそれは寮の事務所からで、わたしに来客を告げました。
「チサさんが来たみたいだから、いってくるね」
「うん」
わたしの言葉に杖を持ったまま待っていたフォロンはからんと机の上に投げ出して、リラックスした態勢になる。しばらく作業していたので、フォロンも疲れていたのでしょう。魔力の消費はさほどでもないですが、気を張る作業ではありましたから。
チサさんは学校が終わったらわたしの部屋に遊びに来る予定になっていました。わたしの部屋に呼ぶのは今日が初めてです。
彼女は今回の魔法発表会について当日に魔力の供給補助の役割を負っていて、多少は練習やらなにやらありますが、今のところ時間があります。今日の放課後は暇らしいので、せっかくならばと遊びに来るよう誘ったのでした。
わたしは自室を出る。
もう新入生も放課になる時間といいうことは、夕方も近い時間帯です。お昼に寮に帰ってきた時と比べて、寮内は人も増えて活気も満ちてきています。
「やほー、ユイリ。今度の週末、うちのクラブもパレードに参加することになったから、よろしくね」
途中、寮生の先輩に声をかけられる。
「シラノ先輩。そうなんですか。よろしくお願いします」
そう、あれからわたしたちの周辺環境は変わっていました。
今回の湖にパレードを走らせるイベントには、続々と各クラブが参加表明をし始めています。山車を作って走らせる、という催しはこれまでほとんどありませんでした。その新しい試みに刺激されてか、あっという間に規模が膨れ上がっています。わたしたち第三魔術研究会がこの魔法のパレードの中核を担い、その大本となる魔法陣による運航通路の作成と魔力の補給はかなり重要な案件です。
必然、人間関係の輪がぐっと広がってきています。
「準備はどう?」
「はい。なんとか進んでいます。来週の半ばくらいから、実際に魔法陣を敷く作業に入れそうです」
「そっか、頑張ってね。あたしたちも第三の努力に報いれるようにするから」
「ありがとうございます」
わたしも第三魔術研究会のちゃんとした一員だと認識されているのは、なんだかうれし恥ずかしという気もします。
少しだけ立ち止まって軽く言葉を交わして、また歩き出す。その前に、わたしはふと思ったことを聞いてみる。
「そういえば先輩。わたし、先輩の入っているクラブは知らないんですが、なんていうところなんですか?」
「達磨ヶ辻ナイト・フィッシング・クラブよ」
「……? まあその、夜風に風邪をひかないように気を付けてくださいね?」
よくわかりませんが、夜釣りをするクラブなのでしょうか。首をひねりながら歩いていると、前の方から女生徒がやってくる。
「あ、ユイリさん。ちょうどよかった。この間貸してもらった本なんだけど、今日くらいに読み終わりそうだからあとで返しに行くよ~」
「ミーティアさん。早いですね、読むの」
ちなみに彼女に貸したのは『ドラゴンかぶり』という純情なのについ手が出てしまう暴力的な性格の貴族のお嬢様と執事見習いの少年のラブコメ恋愛小説です。
「もうたまらんの~」
ツインテールをふりふり揺らして悶える同級生に苦笑する。勧めた時は軽すぎる内容かなとも思ったのですが、気に入ってもらえたならばよかったです。
「また今度、お泊り会しようね」
「はい。それじゃ、また」
手を振り合って別れる。
それからもちょくちょくと顔見知りと行き会ったりして、なんだかわたしも随分この寮に慣れてきた感じがするなあ、などとしみじみした思いになってしまいます。
寮の玄関脇にある事務所に赴くと、隅の応接スペースの丸椅子に並んで腰かけていたチサさんとユウさんの姿が目に入る。
わたしが来たのを見て、チサさんはほっとしたように立ち上がります。ユウさんとの関係は悪いわけではないのでしょうが、まぁ良くもなく、ふたり並んで待っているのは気詰まりだったのでしょう。でも、放っておかないあたりは実はユウさんの優しさなんですが、まだそこまで気は回っていないようです。あの人気安く話を振ってくれるようなタイプでもないですからね。
「お待たせしました。ユウさんも一緒に待っていてくれたんですね、ありがとうございます」
「ああ」
「お、お邪魔します」
「いらっしゃいませ」
もう寮の中に入る許可は取っているようですので、事務所の人に挨拶をして部屋を出る。
ユウさんはさっさと男子寮の方に行ってしまい、わたしたちはそれを見送ります。
「ここも大きな寮ですね。それに、雰囲気もなんだか違います。ホテルみたい」
「高級寮と言われるようなところですからね。わたしもこの春にここに住み始めた頃は驚きました」
すぐさま自室に行ってもいいのですが、それも味気ないので軽く中を案内してあげる。入口傍にある食堂や談話室、医務室に図書室や中庭など。
わたしの住む銀の聖杯亭は畏教の系譜を汲む八大寮と呼ばれる大規模な寮のひとつです。貴族の学生の住まいが立ち並ぶ区画やコンセプトに沿って作られたロマンス寮やさざなみ地区、美術館と寮が合体したアトリエ屋敷など有名な寮は数ありますが、知名度がある寮の中では最大規模の寮でしょう。内装は簡素ですが高級です。セキュリティも厳しく、生徒は天才児が集い、サービスも充実しています。普通にルームサービスとかありますからね。居心地のいいところではありますが、天才児がつどう寮の悲しいところ、変な人の割合も割と高いです。
チサさんは物珍し気に寮の中を見ていて楽しそうですが、それでも周りからのさりげない視線は感じるようで、少しだけ居心地は悪そうでした。
ざっと案内したところで切り上げて、女子寮の方に向かいます。
「その腕輪が入寮証なんですよね? 初めて見ました」
「あ、はい。そうみたいです」
チサさんは右手を掲げる。そこには銀色の腕輪が付けられています。かすかに緑色に発光する魔法陣が刻まれているそれは、ぱっと見ですとおしゃれなものにも見えます。
ですが、これは付けた人が寮内のどこにいるかを監視するための道具です。寮に入る時点でも寮生からの事前申請と本人確認が必要ですが、入ってからもこうして監視され続けることになります。おまけに中に留まる時間は制限があり、お泊りなどはできません。結構面倒ですので、外部の人を呼ぶことはあんまりありません。
「結構大振りなんですね」
「受付の人が言っていたんですけど、場所を検知するだけじゃなくって、色々便利機能があるみたいですよ? 時計にもなるみたいですし、ほら、ここを押すと懐中電灯にもなります」
チサさんが魔法陣の一部に触れると、そこがぴかーっと光りだす。
「……その機能、いるんでしょうか?」
「さ、さあ……。すごく自慢げに説明されましたけど……」
チサさんは困ったように笑った。
今の時代場所の検知だけでしたらボタン大の大きさがあれば十分機能するでしょう。
身に着けて外せないようにするために腕輪の形になって、それならばと色々な機能が後からつけられたような感じでしょうか。
「でも、居場所を探られているって、なんだか嫌な感じもしますね」
「そうかもしれません。私の場合は今だけですので、あんまり気にしていませんけれど。寮によっては寮生以外は中に入れないところもあるみたいですし、遊びに来れるだけありがたいです」
最近はプレゼントやなにやらに発信機が付けられていて、気付かず居場所を把握されるというような迷惑行為が横行しているとも言われ、人気者の女子生徒はナイーブになっているものですが、チサさんは別にそれに対する含みはないようです。まあ別に、わたしも特に誰かに何かもらうということもないのであんまり含みはないですが。そもそももらったものを知らずに身に着ける、というパターンはあまりありません。
居場所を探知するタイプの魔法って、ほとんど魔力を食わないし気付きづらいんですよね。とりあえず、わたしはあんまり魔力への感度が高くないので、よくわかりません。
「もしかしたらチサさんもこの寮に引っ越してくるかもしれませんから、そうしたら自由に中を歩けますし、お泊りもできますね」
「そうなったら嬉しいです」
チサさんの入寮希望は、既に女子寮監のリーズウッド先輩に提出しています。
この寮にも若干の空きはまだあり、じきに追加の入寮者を取る予定はあるそうです。基本的にはくじ引きですが、寮生の推薦があった場合は考慮されることもあります。寮に対して貢献できそうな生徒の場合は入りやすいということですね。その辺りは秋にある有名寮で対抗の寮杯を見据えてということになるのでしょう。
チサさんの入寮にはわたしとユウさんとルドミーラとフォロンの推薦を付けましたが、ここは有名な所ですので希望者は殺到しているようで、色よい返事がもらえているとは言い切れません。
チサさんが圧倒的な魔力を持っている子だということはわかってもらえています。ですがやはりネックになっているのは安定してその力を使えていないこと。できれば、今度の魔法発表会でのパレードの運営において彼女の魔力の有用性をアピールできればいいのですが。
そういう意味では、今回の魔法発表会は単なるお遊びとも言えないくらいに重要なものではあります。
やがて自室に着き、中に入る。
中にはルドミーラとフォロンを残してきているので、自分の部屋ですがなんとなくノックをしています。
「はーいっ。ってあれ、ユイリ?」
ドアを開けるルドミーラはわたしの心中も知らず不思議そうな顔をしている。なんでわざわざノックしたの、という表情です。
「お待たせ」
「ううん、いいよ。その子がチサちゃん?」
ルドミーラはにっこり笑い、わたしの陰で縮こまっているチサさんににっこりと笑いかける。上背は大して変わらない(というかルドミーラの方が若干低い)ふたりですが、こうして相対しているとやっぱりお姉さんな感じはしますね。
「は、はい。チサ・ツヴァイクです……」
おずおずと頭を下げるチサさん。寮内を案内するうちに打ち解けた表情になっていましたが、また緊張した様子になっています。
ですが、ルドミーラも相手が人見知りする子だということは十分認識しているようで、安心させるようににこにこと笑ってくれています。よく気が付く子ですので、こういう場面は安心して見ていられます。ユウさんとは仲が悪いですが。
「どうぞ、入って?」
「わたしの部屋だからね?」
雄々しい感じに肩越しに親指たてて室内を示すルドミーラにツッコミを入れておく。
室内に入ると、チサさんは物珍し気に中をきょろきょろと見る。錬金術師の部屋は物が多いので、割と新鮮に映るかもしれません。わたしの部屋はあまり高価な素材はなく、基本的には山から採ってきた植物がメインです。
壁の多くを占める棚には試験管やフラスコ、シャーレがびっしりと並び、中和剤などの薬剤や真空に密閉している素材類が入れられています。一角には鉱石や干し草が雑多に置かれているところもあり、本がぎっしり詰まった棚もある。大きな錬金釜、小さな錬金釜、純水や基礎中和剤の入ったいくつかのウォーターサーバー、研究机の上は大量のノートと工具類。
においも独特です。植物のにおい、薬剤のにおいが入り混じっている感じ。わたしはこの匂いは落ち着きますが、万人受けするほどでもないでしょう。一応消臭ポッドは部屋の片隅に置いていますが、あまり奏功しているとは言えません。
棚と机は雑然としていますが、入口の傍にある応接スペースや簡易台所のあたりはむしろあまり物がありません。もっと雑貨を飾った方がいいのかもしれませんが、ちょっとお金がもったいない気がしてまだそこまで手を出していません。
「広いですね」
ひとしきり中を見回したチサさんが呟く。
「それになんだか、プロって感じです」
「錬金術師の部屋って、こんなものですよ」
「ユイリの部屋は、草ばっかり」
応接セットでだらけていたフォロンがそんなことを言う。
まあたしかに、人によってはもっと多種多様な素材や機材を持っているものでしょう。わたしの場合は自然の素材で作る中和剤が主な研究ですので、かなり素朴な内装です。
「あっちの奥も部屋があるんですか?」
「あぁ、そっちは寝室ですよ。ふた部屋あるんです」
中を見せてあげる。寝室はそう広くはありません。
ベッドとその脇のテーブル。中に入れるクローゼット。寝床と衣類を詰め込んで、それだけという部屋です。棚などを置こうと思えば置けるくらいの広さはあるのですが、引っ越しも大変になるので諦めて、結局寝る時と着替える時にしか足を踏み入れることのない空間になっています。正直けっこう、簡素な感じはしますね。
「あ……」
チサさんがベッドわきに飾られている写真を見やる。ふるさとの家族が映った写真です。
まだ父が生きていた頃の、家族全員揃っていた時代のもの。ふるさとピッテントには年に一度家族で写真館に赴き、写真を撮る風習がありました。わたしの家族もその風習に倣い、毎年写真を撮っていました。父が存命の間は。
チサさんはそれについて何かコメントしようかと口を開きかけましたが、結局やめて、「寝室も広いですね」と当たり障りなく言う。
わたしの身の上もかつては記事にされていたこともあります。魔物に家族を襲われて、それをきっかけにこの学園に入学したこと。なんとなく彼女の反応で、そのことは知っているのだろうなと感じる。
わたしもチサさんの過去は雑誌の記事で読んだことがあります。ですがお互い、自分の過去のことを話したことはありません。
そのあたりはまだ、お互い踏み込めない距離があるのかもしれません。といっても、そんな暗い話普段一緒にいるだけではなかなかするものではありませんが。ルドミーラにも軽く話したことが昔一度あるかな、というくらいのものです。きっかけがなければ、わざわざ不幸話など聞かせる理由はありません。
居間へと戻る。
「それじゃ、チサちゃんも来たし遊ぼっか!」
「こらこら」
脳天気なことを言うルドミーラにツッコミを入れる。
「ルドミーラは今日この後予定あるんでしょ?」
たしか、パーティとかって言っていました。
この時期は各国の有力者が学園に集います。貴族のルドミーラは、そんな人たちの集まりに参加せざるを得ないのだそうです。髪や衣装の準備のために、一度大使館に顔を出さなければいけないそうです。美容院で準備するわけではないみたい。
なんだか大変そうです。
……とはいえ、実はそれも対岸の火事というわけでもありませんが。クラブ生も魔法発表会の夜は正装して参加しなくてはいけません。夜はプロデュース研究会主催のパーティがあります。なので、わたしもドレスを見繕っておかなくてはいけません。
当然買うわけがないので、レンタルですが。フォロンとの中和剤の折衝が終わったら今日この後レンタル屋さんに行ってものを選んでおかなければなりません。
この学園は貴族様からの払い下げのドレス類が多く、まあまあ安く借りられるという話ではありますが、ドレスはドレス、それなりの値段はするでしょう。
綺麗な服は憧れますが、実際着なければならないとなるとちょっとおっくうな気持ちもありますね。
ルドミーラはちらりと壁にかかっている時計を見やる。
「もうちょっとは大丈夫だよ。せっかくチサちゃん来たのにすぐ実験? もったいないよ~」
「うーん……」
「あ、あの、私のことはあんまり気にしなくていいですよ、悪いですよ」
ルドミーラの言うことも一理あります。
わたしは頷き、応接セットのソファーに座る。
「それじゃ、ルドミーラが出かけるまで、お話をしましょうか」
そうして、しばらく雑談をしました。
チサさんが知りたいであろうこの寮のことや、授業のこと、クラブのこと、魔法発表会のこと。
わたしとルドミーラが主に喋って、チサさんは相槌をうって、時々フォロンが口を挟む。
フォロンはあまり下級生と触れ合うことはないようで、チサさんに対してはちょっとお姉さんぶった喋る方になるのが、なんだかおかしい。ユウさんに対しては結構不干渉という感じですから、新鮮です。
気が付いたら随分と話し込んでしまって、ルドミーラがどたばたと部屋を出て行ってからしばし。
わたしとフォロンは中和剤の調整作業を再開します。声もかけられないくらいに精密作業というわけでもありませんので、チサさんとはぽつぽつと会話をしながら。魔法科の生徒は錬金術に関してさらっとしかやらないので、珍しそうな眼差しです。
「チサさんは中和剤の作成はやったことありますか?」
「まだです。後期になってからみたいで」
「ものに魔力を込めれば、ある意味全部錬金術だし、中和剤も同じようなもの」
フォロンが雑に説明する。
ですが、まあ、一理ありますね。魔力を作用させて素材化させる技術が錬金術です。単なる水に魔力を込めれば、それは中和剤と言うこともできます。魔力の濃い土地の地下水などは、加工しなくても中和剤として使用することもできます。広義で言えば。
実際は複数の素材を組み合わせたり魔力の強さ、素材の状態、熱などの影響を加味して加工することを錬金術といいます。
中和剤もいくつかの素材を組み合わせながら魔力を込めて溶かし合わせて作ります。
今回は湖に垂らすことになるので水銀などの毒物や有害な化合物は避けています。元々自然の素材を使うのがわたしの流派ですので、わたし向きと言えます。
魔法発表会でのパレードは水上に魔法陣を描くことになります。直接水上に魔法陣も描けますが、物理的にも魔法的にも揺らぎが大きいので、水よりも比重の軽い中和剤を作って垂らして、その上に魔法陣を描いた方が効率的です。
というわけで、油を使用しています。一般的な油は環境に悪いので、今回は西瓜鱒油を使用しています。香味のあるさわやかな匂いは、初夏の季節感もあっていいですね。
「私、錬金術もわからないですし、魔法陣の描き方もよくわかっていませんし、魔法はあんまりうまく使えませんし、だからおふたりみたいにプロみたいなの、尊敬します」
そんなに言われてしまうと、ちょっと照れます。
ですが、この学園にいると感覚を忘れそうになりますが、わたしは今のままでも一般的な錬金術師のレベルは超えているでしょう、たぶん。世界水準で見れば中の上くらいじゃないでしょうか。才能的には頭打ちの予感がしますので、将来的には上の下あたりの実力に落ち着きそうな感じがします。
「チサさんも、きっと自分に向いたものが見つかりますよ」
「だといいですけど」
わたしの言葉に、曖昧に頷く。
「ユイリ、さっさとやろう」
「うん。早く終わらせて、出かけましょう」
チサさんを脇で待たせているとなると、あまりのんびりしていられません。わたしたちは作業を再開する。
視線を横から感じながら、でも、作業を始めるといつしかそれも気にならなくなりました。
中和剤に浸した杖を水盆に当てる。今日数えきれないくらいに繰り返している作業をしているフォロンの手が止まりました。
一度水面に描いた魔法陣の軌跡を眺めて、杖先を眼前に掲げる。目を細めて魔法陣に触ってみて、また杖先を中和剤に浸ける。
思い切りが良く、ダメなものは一言に切り捨てるフォロンでしたが、この反応は初めてでした。
「どう?」
「これにしよう。いい感じ」
「わかりました」
わたしはレシピをノートの端に清書して、そしてやっと気が抜けます。胡麻が決め手になりました。胡麻ありがとう。胡麻は食べ物としても優秀ですが、素材としても万能です。困ったら胡麻。もしくは食塩というのがわたしの流儀です。
胡麻に感謝をささげる。
「……終わったー」
そのままぐでっと机に突っ伏す。
「うん。疲れた」
「そうだねえ。でもフォロン、あんまり変わらないけど?」
いつものように、涼しい表情です。
「研究室はもっときついから」
なるほど。
なんだかわたしには想像もできない(したくない)話ですねえ。中和剤をぱっぱと作り替えていくだけで結構魔力を消費してしまいましたが、このくらいは普通の学園生であれば余裕でしょう。
気力の差もあるのかもしれませんが、魔力の差も厳然たるものがあります。今さらそれをどうこうは言いませんが。
空を見ると、もう夕暮れです。急いで貸衣装を選びに行かなければならないでしょう。一服している余裕はありません。
「チサさん、お待たせしました」
ずっと放置してしまっていたチサさんの方を向き直る。
見ると、チサさんはソファーに座り、ひじ掛けにもたれるようにして眠りこけていました。
「すう……」
わたしたちの作業を待っている間、宿題をこなしていたようです。彼女の手前のテーブルには魔法理論の教科書が広げられていて、レポートを作っていた途中で飽きたようです。
無心に眠っているその様子はあどけなくって、わたしはついついその寝顔を見守ってしまう。不安そうな顔をしていることの多い子ですが、眠っている時は自然な穏やかな表情ですね。
「起きろ起きろ。えいえい」
ですが、そんな情緒を解さないフォロンは無情にチサさんのおでこに連続チョップをしています。
「え、わ、すみませんっ、終わりましたか!?」
慌てたように身を起こし、きょろきょろとあたりを見回すチサさんは小動物的でかわいい。
「終わったよ? チサが寝ている間にがんばったから」
「す、すみませんっ」
「フォロン、いじめないの」
フォロンはのんきに伸びをしていて、聞いちゃいませんね。
「さ。それじゃ、出かけましょうか。早めに夜会の服を決められれば、クラブに顔でも出しましょうか」
「そう? 顔出したら、手伝わされる」
むしろわたしに手伝えるレベルの仕事が残っていればいいのですが。
とはいえ、せっかくですので何かできることがあればしてあげたいものです。何もなくても、お茶をいれるくらいのことはできます。
わたしとフォロンとチサさんで連れだって部屋を出ます。
寮を出る前に、ふたりにはちょっと待ってもらい談話室の隅にある魔法掲示板を確認します。談話室を通る時は魔法掲示板を確認するのが習慣になっていますね。
これは文章を入力して任意の相手に手紙を送ることのできる道具です。学園生でも中級以上くらいのランクになるとアドレスがもらえて、どこの魔法掲示板からでもアクセスができるのですごく便利です。ここの魔法掲示板は寮生ならば無料で使えるので、重宝しています。わたしの場合は、三年生になってからユウさんのお世話の関係で学園の執務室とやり取りを交わすことが多くなりました。クラブの皆さんとたわいのないやり取りを交わすこともありますし、今や必需品です。部屋にもほしいくらいですが、高価なものなのでさすがにこの寮でも全室完備というわけにはいきません。
魔力を認証して自分あてのメッセージを呼び出します。今日は授業を終えて帰ってきた時に一度確認しているので何もないかとは思っていましたが、一件新しいメッセージが入っていました。
日常的に事務的なやり取りを交わしている執務室からです。
わたしはユウさんの生活習慣についての週報を手紙で報告しています。たまに直接干渉魔法の能力が伸びているかなど質問状がくることもあります。基本は紙でやり取りして、送りましたなどという付帯する報告を魔法掲示板でやっている感じ。普段のやり取りはお互いほとんど定型文という感じですが、この時の文面はそれでは終わりませんでした。
文章の最後に、わたしへの警告の文章が差し込まれていました。
『現在の当校の情勢下では何らかの武力行使の懸念もあるため、貴職におかれましても身辺の安全を図り、以下の通り自衛を徹底してください。
・寮や校舎の外での個別行動を避ける。
・信頼のできない人間と会う際は必ず公共の場を選ぶ。
……』
その後にはつらつらと記載事項が続いています。
わたしはぽかんとその文面を見やります。
……何らかの武力行使?
いきなりの話に、目が文面を滑って行ってしまう感じがします。そんな危険な情勢に、今この学校は陥っているのでしょうか。
まあ魔法発表会が近づいて学外の人間が多く訪問しているのは事実。ユウさんの周りもクラスメートや怪しい人や、落ち着いているとも言えないのも事実です。
なんともどうにも、学内の事情はきな臭い方向に向かっているようです。今回のところは、日常生活のパターンを変える必要まではないみたいですが。元々、それなりに注意して生活をしているつもりではあります。
こんな手紙を読まされて、冷水を浴びたような気分になります。日常的にそこまで自分が危険なことをしている感覚などはないのですが、第三者からこうもシリアスな言い方で忠告をされるとさすがに怖くなります。ですが、その怖さはあまり実体がない。
ユウさんは校長候補生です。役職の感じも謎で、素性も実際あんまり知りません。わたしの今の立場は、危険なものだったりするのでしょうか。考えてもよくわかりません。
なんか参ったなあ、という気分で待っていたフォロンとチサさんの元へと戻る。
「ユイリ、どうしたの?」
「はい、何か悪いニュースでもありましたか?」
ふたりが気遣わしげに尋ねてくれる。
「んー……、なんていいますか。あの、身辺の安全を図るためには、具体的にはどうすればいいんだと思いますか?」
あまり深く考えず、先ほどの文面の意図について尋ねてみると、フォロンは呆れたように肩をすくめてみせた。
「程度がわからないけれど、知らない人に付いて行っちゃわないようにするとかじゃない?」
「……なんか子供扱いしてない?」
どうでもよさそうに言うフォロンを見て、なんとなくくさくさしていた気分は落ち着きました。
うん、しばらくはいつもよりちょっと注意して生活することにしましょう。わたしは心の内で、そっと静かにそう決めた。




