リーベルカ
イリヤ=エミール帝国。
イヴォケードの西、ヴェネト王国を挟んだ場所に位置する振興の軍事国家。
首都である魔道都市リュミエールは国立の魔道学園を擁し、イヴォケードに次ぐ名門として世に売り出している。平面的な都市構造であるイヴォケードとは違い、複雑に組み合った高層建築群は世界随一。
振興の都市のため最新の都市計画によって建造されており、周辺地域の魔力を吸い上げて都市内は世界有数の魔力濃度を持っている。魔法学園イヴォケードが周囲に不毛の草原地帯を抱えると同様、魔道都市リュミエールは都市の西側に大きな砂漠地帯を抱えており、都市には空気も印象もどこか乾いたようなものがあった。
その帝国の中枢、赤い城と呼ばれる宮廷の執務室でこの国の第六皇女、リーベルカは手紙を開いて表情をほころばせていた。
赤い焼き煉瓦と漆喰に塗られた絵画装飾で彩られた執務室の中にいるのはリーベルカの他、傍仕えであり軍師見習いでもある少年、シンのみ。
皇女にとっては弟分とでもいうような存在であり、身内みたいなものだ。部屋の中にはどこか弛緩した空気が漂っていた。
「姫様、その手紙は?」
取り寄せた軍議の議事録を読んでいたシンだったが、顔を上げて尋ねる。
「この前イヴォケードで会った子からの手紙。後でシンにも読ませてあげる」
「ユイリ・アマリアスさんですか」
「そう」
言いながら、読み終えた手紙をまた初めから読み直すリーベルカ。魔法学園で出会った少女から手紙が届くのはまだ数回といったところだが、その度にこんな反応をしている。
リーベルカにとって、帝国の皇女ということを抜きにした友人関係というのは初めてで、どこか浮足立った様子だった。相手が彼女の身分を知らないだけではあるのだが。
文通相手の身の上を調べてみたところ、単に田舎町の名家の娘というくらいで後ろ暗い所はなさそうだった。関係は止まることなく継続している。
出会いにそこまで深い接点があったわけでもないが、あの少女のことが気に入ったのだろうとシンは軽く考えている。
リーベルカには時折、無理をしてでもこれはと思った人間と縁を結びたがる癖があった。
シン自身もそうだ。
彼はもともと士官学校の生徒だったが、座学にめっぽう強く、だが逆に体は弱く周囲に馴染めずにいた。
帝国は壮健な丈夫でなければ戦場に立つ資格はない、というやや時代錯誤な固定観念が強く、彼の才覚は完全に埋もれていたのだ。だがある時視察に訪れた皇女と出会い、シンは学校を退学して傍仕えとして働くようになった。
とはいえ、今のところそうやって結んだ縁がリーベルカにとって追い風になっているわけでもないが。シンの存在など、時には愛妾扱いをされて攻撃材料になってしまうこともある。根も葉もない話だから、リーベルカは笑って受け流しているが。
「あの子、なかなか面白いことになっているみたいよ。変わった知り合いを集めやすいのかしら」
「はあ」
シンの気のない返事を聞き流しながら、リーベルカは二度読んだ手紙をまた読み返す。
魔法学園の空気を感じるために潜入した先で出会った少女。リーベルカは彼女と、そして一緒にいた少年、ユウ・フタバのふたりに強く興味を惹かれていた。
彼女は幼い頃から時折、そのようにして惹きつけられるような気分にさせられる人間に出会うことがあった。これまでは、父である皇帝に感じるものが最も強いものだった。だが、先日初めて、それを超えるような衝撃的な予感を感じさせる相手に出会った。
ユウ・フタバ。
その時は名も知らなかった少年だ。そして、その連れの少女にもかなり大きな何かを感じた。
繋がりを保っていたいと思わせるのは珍しいことだった。その時はなんとかうまく、初対面ながら互いの連絡先を交換できたのは幸運だった。
あまり大っぴらに言うのも気恥ずかしい文言だが、おそらく自分には運命力とでもいうようなものを感じ取る能力が備わっているのだろう、とリーベルカは思っている。いつ、どのように作用するかはわからないが、自分の運命を大きく曲げるような相手を直感的に感じ取る能力があるのだ。
いい予感の場合もあれば、悪い予感の場合もある。悪い予感はひたすら避けて、いい予感の時はそれをつかむ努力をしてきた。
彼女が継承権が低いにもかかわらず人気のある皇女、そして将軍として生き残ってこれたのはこの感覚があったからこそだろう。
皇女直属の親衛隊は激しい戦場に赴くことは稀だが、ないわけではない。そんな時にこの感覚はずいぶんと役に立った。
好ましい予感を感じさせる二人組に出会ったことは、自分の人生の転機だったのかもしれない。
「……あるいは、私があの二人に引き寄せられている、ということかしら?」
ひとりごちる。そんな側面もあるような気がした。
彼らの周囲には目を引く才能が集まっている。特に直接干渉魔法の使用者は異様に多い。
直接干渉、と呼ばれる系統外の魔法は使い手が極端に少ない。基本的には数万人の魔法使いにひとり、という程度の確率だ。イヴォケードでも二十人程度、イリヤ=エミール帝国では三人しか使い手はいない。
そんな人間が一つのクラブに三人も集まるなんて、さすがに異常事態だろう。
帝国側からも入学を打診していた殲滅魔術師と呼ばれている少女も魔法学園に進学し、彼らに交わる一人になったようだった。
その巡りあわせについて考えてみると、ぞくぞくするような高揚感が込み上げてきた。
まるで英雄物語の始まりのように、才能ある若者たちが集っていく感じ。それは離れた場所から眺めている彼女だからこそ、気付くことのできる感覚だった。魔法学園の中にいると、そんな感覚はいつしか麻痺していくものだった。
「姫様、あまりあの人たちに入れ込まない方がいいですよ。我々とは立場が違います」
魔法学園で出会った顔を思い浮かべていると、シンに窘めるような口調で注意される。
「わかっているわ。敵国だものね」
そう言って嘆息するリーベルカの口元は、苦笑気味に歪んでいた。
敵国とと言うものの、イリヤ=エミール帝国はイヴォケード魔法学園に宣戦布告をしているわけではない。
現状、不干渉という立場にある。帝国が現在戦争中のヴェネト王国は魔法学園の友好国であったり、対抗するような立場をとることも多く関係は冷え込んでいるが。
そんな魔法学園に皇女と参謀が他の伴連れもなく訪れていたのは、皇帝の指示があってのことだった。
魔法学園の結界の強さと弱点をその目で見て来い、と言われたのだ。
この春先、北にある小国の連合との睨み合いを終えた軍を帝都に帰し、彼らに一時休暇を与えて体があいている時期だった。
年齢は五十を過ぎてまだまだ壮健な父親に呼ばれ、後宮にある茶室でふたり杯を交わした。皇帝は大柄な者の多い帝国の中にあっても目立つ美丈夫で、いつ見ても体から熱を発しているように見える男だった。常に眉間にしわが寄り、今にも人を殺さんばかりに剣呑な視線は、慣れていない者を震え上がらせる迫力があった。何を考えているのか人に悟らせないようにふるまっているのか、命令するにあたってもほとんど情報をよこさない。自分の頭と、ごく限られた首脳陣の中で考えは完結しており、手足として動くものに物事の背景を説明することはない。
この時に話した内容も、親子の会話というよりは北の戦線の報告が主だった。おざなりに体調を尋ねられたような気はしたが、あまり良く覚えてはいなかった。
その中でそっと下された魔法学園への攻め手の調査命令。
皇帝がいずれイヴォケードに攻め込もうと考えているのは明白だった。つまり、帝国の上層部もそれを見越しているのだろう。
だが、リーベルカからすれば無用な戦いに思える。
イヴォケードは数こそ少ないものの世界最強の軍隊を持っており、友好国も多い。敵に回すとなると、今以上に世界情勢から孤立することになる。イリヤ=エミール帝国は精強な軍隊を持っているが、世界を相手に戦うなどどう考えても無理だ。
というより、立ち回りによっては魔法学園ただ一国が相手でも負ける可能性が十分ある。
何度も考えた勝ち目の薄い戦いを思い、リーベルカは苦笑を浮かべた。
この話は彼女の側近の中ではシンだけに話していることで、この場では気を置かずに話題にできる。
「なんでイヴォケードを攻めないといけないのかしら。むしろ、味方につける努力をすべきだと思うのだけど」
「僕もそう思います。が、皇帝陛下には他にお考えがあるのでしょう。でなければ、あそこを攻める利点はありません」
幾度となく繰り返した会話を、再びする二人。どちらも、魔法学園を攻めることには意義を見いだせていないのだ。
皇帝から命令されたから実を結ぶための努力はしているが。
「あそこを攻めるとなると、まずは内側から崩さないとどうしようもないわね」
「はい。外から攻め寄せるのは自殺行為でしょうね。学園の西側は大平原。この地の魔力は学園の敷地内に吸い上げられていて不毛の地です。行軍も難しいですね。進めはしますが、狙い撃ちにされるでしょう。東側はイヴォケード連峰。こちらは潤沢な魔力に満ちた土地ですが、拠点にできる場所はイヴォケードから離れすぎています。攻めるなら空からですが、その前に全滅させられるでしょうね。それに、東側に回り込むにはいくつ国を越えるかと考えると、現実的ではないでしょう」
不毛の地と、大山脈。自然に加えて魔法学園の周囲にある城壁も非常に強固なものだ。感心するほどに。
「絶対無理ね。もし私が侵攻軍を指揮することになって、失敗したら打ち首だとか言われたとしたら、言われた晩に出奔するわ」
「僕もです」
「そうすると、内側から切り崩すしかない。セオリー通りに行くなら、転移魔方陣を制圧するとかかしら」
「あそこの転移魔方陣はすべて守備隊の詰所のすぐ近くにあります。攻め込むこと自体はできたとしても、ある程度、持ちこたえられる戦力がないと無理ですね」
帝国の最精鋭を使い潰せば攻め込む端緒が掴めるかもしれない、という程度。さすがに貴重な戦力をそんな賭けに使う気にはなれない。
「なら、内と外の両方から攻めるのはどう?」
外側から攻め寄せるそぶりを見せて注意を逸らし、内側から食い破る。
「それでも、まだ不十分でしょう。まずは結界をどうにかしないと難しいですね。とはいえ、あんな強力な結界を破るなんて、普通に考えて……」
言いかけて、シンの挙動が止まった。
魔法学園を守る結界。それを打破する使い手が、今年の新入生に入ることを思い出していた。そしてそれはリーベルカも同じ。脳裏に浮かぶのはこの春の結界破りの情景。
二人は顔を見合わせる。
「ユウ・フタバ」
「はい。彼を味方につけることができれば、もしかしたら」
結界を破り、内と外から攻め込む。
結界を完全に破ることができれば大平原に魔力が戻る。魔力のある土地ならば、大兵力を踏破させる難度は下がる。航空隊も十分飛ばすことができるだろう。
魔法学園攻略の糸口が、ふたりの頭の中で組みあがっていく。
「あの学園の結界全体を打ち消すほどの力があるか。打ち消された結界が修復されるまでどのくらいの時間がかかるか。私たちの味方にあの子を引き込むには何が必要か。調べてみる必要がありそうね」
「はい。調査を始めます」
「よろしくね。私はどうしようかしら」
リーベルカはひとりごちる。現状、麾下の軍を動かす必要はなく、身動きは取りやすい。
「……もう一度、イヴォケードに行ってみようかしら」
ユウ・フタバに接触するにあたり、ユイリ・アマリアスというこれ以上なくちょうどいい知り合いがいる。
「お供します」
当然ながら、シンはそう言う。が、リーベルカは首を横に振った。
「あなたは情報収集をお願い。私は、適当に人を見繕って行くわ」
とりあえずそう言っておく、という様子だった。
リーベルカの存在は型破りな皇女として有名だが、顔はあまり知られていない。軍を指揮しているものの、未だ象徴としての意味合いが強く、多くの兵に顔を晒すことはない。人相画くらいは出回っているが、彼女の顔を知っているのはここ帝都の赤い城の中と、軍内である程度の身分のある者、あとは周辺国の一部貴族や王族くらいだろう。
不安定な身の上のため、注意深く写真に写るのは避けてきたのだ。隠し撮りくらいはどこかでされているのだろうが、広く出回っているものはない。実際、先日イヴォケードに潜入していた時も、彼女が帝国第六皇女だと気付く者はいなかった。容貌の美しさに、目立ってはいたが。
それにシンは市井から抜擢された存在なので、周囲から疎まれている。先日彼を連れてイヴォケードを訪れた際は逢引き旅行などと陰で揶揄されていたらしいのだ。
当人同士にはまったくそんなつもりはないが、周囲の噂話を鑑みるに、また彼を随行させるのは難しいだろう。
「僕が残るのは、いいんですけど。姫様、絶対に誰か付けてくださいね。外に行く時の姫様の格好は、どう見てもお忍びで街に出た貴族っていう感じですから、一人でいるとかえって目立つんですよね。下男下女を連れていた方が自然です」
実はイヴォケードは多くの放蕩貴族や気楽な貴族の学生も多いため、一人でもそこまで目立たないのだが。
「心配性ねえ……」
リーベルカは苦笑した。出会ったばかりの頃のシンは彼女に対して恐縮しきりな様子だったが、あっという間に保護者面をするようになっている。見ていて微笑ましいので、彼女としても悪い気はしないが。
だが、実際誰を連れていくかは問題だった。親しくしている人間は相応の地位にあるからこそ、今回のようなお忍び旅行には向いていない。
何年も前に皇帝の継承権を放棄してから、傍仕え自体も最低限まで減らしている。地位は華々しいが、彼女の実際の生活レベルは下級貴族と同じくらいのものだ。
「なんとかするから、大丈夫」
「それならいいんですが」
全く信じた様子でもない部下を呆れた様子で一瞥すると、立ち上がり、部屋の扉に向かって歩き出す。
「姫様?」
「散歩」
簡潔に言葉を交わして、リーベルカは執務室を出た。
慣れない人間であれば戸惑うであろう足が沈むような豪奢な絨毯を躊躇なく踏みしめ、見慣れた天井画をぼんやりと眺めながら歩く。
執務室のある辺りは限られた身分の人間しか足を踏み入れることはなく、時折メイドとすれ違う程度。気安く笑いかけて手を上げる彼女に向けて、メイドは熱のこもった視線で見送った。リーベルカは幼少期、自分の身分も知らずに学校に放り込まれていた時期もあり、態度はかなり平民目線だ。気さくな性格の美貌の皇女にあこがれる者は多い。
ほとんど人の姿を見かけることもない場所だが、多くの人が詰めている宮廷、どこからかざわめきや音楽や歌声、訓練の掛け声などが聞こえてきて、それがどこか耳心地いい。
彼女にとっては日常にして穏やかな、赤い城の空気。その空気に浸りながら歩いていると、先の方から華やかな話し声が聞こえてくる。
きゃいきゃいとかしましくおしゃべりをしながら歩いてくる、派手な身なりの少女たちだった。
見ると、何人もの学友を引き連れて歩いてくるのは妹、カリメロ・フリメーダ・ムント・ティル・イリヤ=エミールだった。
第七皇女であり、リーベルカにとっては唯一の母親を同じくする妹でもある。他の兄弟は全て腹違いだ。わりと人数がいる皇族兄弟の中でも華やかな顔立ちをしていて、世間的には人気・知名度も高い妹だ。
カリメロは特に文武やカリスマに優れているわけでもなく、派手好きで派閥作りに余念はなく、姉とはずいぶんと違った性格をしている。だがそれでもなお、リーベルカはどこかこの気位の高い(というかやや高慢な)妹のことが嫌いではなかった。
「あら、お姉様、ごきげんよう」
「久し振りね、カリメロ」
ふわりと深紅のドレスの裾を揺らして微笑む妹。長い髪の先は軽くくるりと巻いてあり、まだまだ少女でありながら不思議と色香を感じさせる笑顔だった。
足を止めて会話を始める姉妹を見て、付き従っていた友人たちは一歩下がる。
「ええ。お姉様がお城にいるなんて珍しですわね。お外でのお遊びは終わりましたか?」
カリメロの言葉にイヴォケードへ潜入していたことを指しているのかと思ったが、彼女はそれを知らないだろう。
単に軍務に精を出す姉をあてこすっているだけ。皇族でありながら継承権を放棄して軍務についていることは揶揄されることも多く、相手によっては腹も立つこともあるが、カリメロ相手だとそういう気分はわかない。
血を分けた姉妹だからと勝手に無類の信頼を抱いているのかもしれない。背伸びしている妹がじゃれついているだけに感じた。
「ええ、やっと一息つけるから戻ってきたの。会うのは二か月ぶりくらいかしら」
「三か月ですわ。イシュタルお兄様のご婚約の時にご挨拶しております」
「もうそんな前になるのね。カリメロも、少し見ない間に背が伸びたかしら」
「……もう背が伸びるような年ではありませんわ」
「そう? まだ伸びるでしょう」
子供扱いされたことが気に障ったのか、カリメロはじとっと睨むようにリーベルカを見やる。
「みなさんはカリメロのお友達?」
苦笑しながら、話題を逸らして妹の後ろに控えていた少女たちに声をかける。パーティか何かで見かけたことはあるが、言葉は交わしたことがない。
妹と一緒にいるということは、それなりの階級の貴族の子女だろう。みな器量が良いいところなど、妹好みな感じがする。
「はいっ!」
「カリメロ様とは、仲良くさせていただいておりますっ」
「リーベルカ様にお会いできて、光栄ですわ」
待ちかねていたように、控えていた少女たちがわっと周りに集まってきた。
貴族の子女の間でも、彼女の人気は高い。むしろ、皇族の中にあって異端な生き方をしているが故、本人の知らないところで多くの信奉者もいた。この少女たちも、そういった子たちだろう。
「ちょっ、ちょっとあなたたちっ、なにしているのっ!」
最初あれっという顔をしていたカリメロだったが、さすがに取り巻きが姉に懐いているのを見て慌てて制止する。
少女たちはさすがにまずいと感じたからか、そそくさと彼女の元に戻る。少し名残惜しそうな様子に、リーベルカは苦笑する。
イリヤ=エミール帝国はあまり貴族と平民の区別をあまりつけていない。義務教育には身分は関係ないし、新興のこの国ではそもそも貴族社会自体がかなり狭い。カリメロはその中にあっても、上流階級の人間を選んで付き合っているようだが。
「行くわよ。アニス、ベニハギ、キミイーネ」
カリメロは苛立たしげな口調で取り巻きに声をかけ、さっさと歩いて行ってしまう。三人の少女たちは名残惜しそうに挨拶をして、その後に続いた。
ぱたぱたと手を振ってやると、少女たちは手を振り返した。それをカリメロに見咎められて、またわあわあと騒いでいる様子が遠目にも分かった。
リーベルカはどこかほのぼのとした気持ちでそれを見送った。
可愛げのない可愛い妹。自分に対する口調や態度はよろしくないが、実際のところ特に嫌われていないのはわかる。
他の異母兄弟たちは、ほとんどの者がリーベルカのことを蔑み嫉妬しあるいは憎み、公的な場でもいないものとして扱うことさえ多い。そんな兄や姉の対応に引きずられてしまっているというのもあるかもしれない。
元々妹の存在は聞いていたが、実際に出会ったのは七、八年前くらいになるだろうか。あの頃はリーベルカに懐いていたものだったが、これも反抗期というものなのだろうか。
リーベルカはそんなことを考えながら歩いていると、再び道の先に向かってくる一団に気付く。
その先頭には、城内でも会いたくない筆頭格の男の姿があった。
ひょろりと枯れ木のような長身、くぼんだ目元がどことなく骸骨めいた相貌の異母兄。
スクエラ・ディデス・アイオロス・ティル・イリヤ=エミール。この国の第二皇子である。
リーベルカと同じく、一軍を率いる将でもある。もっとも、本人に武芸の才はないが。同じ将軍という立場ゆえか、妹に対して敵意を隠そうともしない。
ぞろぞろと後ろに従者を従えて近付く兄とひとり歩く妹が行き会う。
身分が下のリーベルカは脇によける。言葉を交わす関係でもないので、目礼をして通り過ぎるのを待つ。
「おまえ、先日までイヴォケードに行っていたようだな」
前置きもなく、スクエラが声をかけた。
リーベルカは恭しく頭を下げて答える。
「はい。それがなにか」
「父上がお前にどの程度期待をしているかは知らないが、あの国を落とすのは俺がやる。早々に手を引け」
「……それはお兄様に命令されることではありません。私も、陛下より拝命をしておりますので」
上からの物言いを突っぱねると、スクエラの顔が歪んだ。妾の子とリーベルカのことを下に見ている彼からすれば、口答えされるだけで癪に障る相手である。なにせ、皇位継承権がないにも関わらず兄弟の中では最も人気の高い娘である。
内心何を考えているのか、スクエラの青白い表情が今は蒼白と言っていいくらいに変色していた。取り巻きも危険を感じてか、ちらりと彼の顔色をうかがい、口々にリーベルカに無礼だと罵声を浴びせる。
「兄上へと向かって何たる言い草だ!」
「序列というものをわきまえよ!」
「へっぽこ!」
「脳筋皇女!」
「……」
リーベルカは黙って罵声を受け止めたが、なぜだろう、最後の言葉だけはやけに腹が立った。
ともかく、じっと耐え忍ぶ様子に少しは溜飲が下がったのか、スクエラは少し表情が穏やかになる。
「おまえには頼りになる部下もいまい。ああ、なんとかといった小姓がいたか? あの小僧と大人しく帝都に引きこもっていればいい。やわな女手で無理をすることもあるまい」
リーベルカは侮蔑交じりの言葉に礼をして応え、早々と立ち去ろうとするが、ふと思い立ち兄皇子へと向き直る。
「先ほどイヴォケードを落とす、ということをおっしゃっていましたが、皇帝陛下があの国への攻撃を明言されたのですか?」
「いや、父上ははっきりとは言われていない。だが俺にあの国の防衛機構を切り崩す手段を研究せよとお言葉があったのだ。ご意志は明確だろう」
「皇帝陛下が……?」
皇帝はリーベルカのみならず、スクエラにも同様の勅命を下しているようだった。
彼女はそれを知らなかった。だが、兄は知っている。ということは、やはり父親の中での順序はこの兄に劣っているのだろうか。別に皇位などには興味はないが、そこの部分は気に障る。
表情を取り繕うことが苦手なリーベルカが悔しがっていることは察せられたのか、スクエラはせせら笑いを浮かべる。
「お前は所詮、俺の後詰みたいなものということだ。せいぜい、無理はするな。この帝都で花でも愛でて過ごせばいい」
ねちねちと嫌味を言い募る。その表情は、妬ましく思っている妹を貶めることができて楽しそうだった。
リーベルカは相手を張り倒してやりたい気持ちをぐっとこらえて、困った表情での愛想笑いを浮かべる。人気はどうあれ、この宮廷での立場は相手が上なのだ。勝ち目はない。事を構えるわけにはいかない。
一通りけなし終わり、満足した様子で一団は意気揚々と去っていった。
解放されたリーベルカは息をつく。彼女の皇族での微妙な立場ゆえに、ある程度は慣れたやり取りではある。だが、それで何も思わないかといえばそんなはずはなかった。
物や人に当たることもできず、くさくさした気持ちを抱えて歩く。
空中庭園を散歩しようと思っていたが、とてもそんな気分ではなくなってしまった。
胸中に溜まったどろっとした思考を吐き出すように今一度重い息をつくと、その足を自室へと向けた。
彼女の自室は、赤い城の皇族の居住区とは少し離れた場所にある。
元々は宮城の奥にある皇族居住区に住んでいたが、皇位の継承権を放棄した際に自ら転居を申し出た。本来はその必要もなかったのだが、彼女としては気詰まりな異母兄弟と顔を合わせない場所に生活の拠点がほしかったのだ。
そうして、今は城の脇に建っている塔の一つを私室として使っている。元々は宝物庫として建てられたものらしいが、経済的には若干火の車状態にあるこの帝国である、ほとんど空っぽの状態で放置されていた。
城からの渡り廊下を進み、自室に戻る。
中に入ると、一人のメイドがベッドメイクを行っているところだった。普段、この時間に部屋にいることはないので、そんな姿はなんとなく新鮮に映る。
黒髪の小柄な少女。見たことがないし、どこかおっかなびっくりな様子での作業なので、おそらく新人だろう。いつの間にか、この部屋の担当メイドは変わっていたらしい。もちろん、担当は数人いるのでそのうちの一人が変わっただけである。
「ひっ!? 姫様!?」
リーベルカの気配を感じて、びくーんっ! と背筋を逸らして彼女に向き直り、ぺこぺこと礼をする。
「すっ、すみません! まだ、お部屋のお掃除、終わってません! こんな昼間に戻ってくるなんて、思ってなくてっ」
別に威圧的な顔をしているつもりもないのに、やけに恐縮していた。いや、先ほどのやり取りがまだ表情に残っているのか?
リーベルカは意識して笑顔を浮かべた。
「構わないわ。少し休もうと思って寄っただけ。私には構わず、あなたは自分の仕事をすればいいわ」
「ひっ!? は、はい」
おっかなびっくり、そろそろと仕事に戻る。
自分の笑顔はそんなに怖い感じなのだろうか? リーベルカはそんなことを思うが、目の前で恐縮しきっているメイドに対してそれを聞くことはできなかった。
椅子に腰かけて、ぼんやりと窓から外を眺める。ここからだと、よく手入れされた中庭が見える。今は春、風は優しく景色は穏やかだった。
「ど、どうぞ」
ささっと近づいてきたメイドが、冷蔵庫から果実水を出してくる。特に喉は渇いていなかったが、リーベルカはお義理程度に頷いて、軽く口をつける。
そのまま考え事をしようとして、すぐ傍に直立不動で控えているメイドを一瞥する。別に待っている必要もないのだが。
仕事に戻れと声をかけようとして、なんとなく、開きかけた口を閉じる。
メイドに少し、感じるものがあった。
ほりは浅めで顔立ちは丸顔。この辺りではあまり見かけない血が入っているようだった。イリヤ=エミール帝国の人種は西方から流入した民族が主流で、ややほりが深く、顎が細い。皇女の傍仕えというと基本的には貴族の娘であり、未だそれなりに純血主義が残っているこの宮殿で、少女の存在はやや異質だ。
その辺りの人種的な部分はともかく、魔力の感じもやや違う。第六感が刺激されるような感じ。最近この感覚が多いな、などと思いながら口を開いた。
「あなた、名前は?」
「えっ?」
少女は目を丸くする。
それも当然。メイド長などの上位の使用人ならともかく、普通、一般メイドの名前を聞くことはない。
「白蓮寺蛍と申します」
「……」
「……ホタル・ビャクレンジでしたっ」
慌てて言い直す。
姓、名の順の名前のようだ。この辺りでは珍しい。それに言葉遣いはあまり洗練されておらず、貴族階級というわけでもなさそうだった。所作は美しいが。
どういう経緯でこの部屋付きのメイドになったのか。謎だ。
「ホタル、出身は?」
「カルダ州、イズミヤという町となります。父が役場の顔役の一人でして、この度、登城することとなりました。田舎者ですが、誠心誠意努めさせていただきます」
先ほどまであわあわしていたが、流暢に自己紹介をする。
リーベルカはふうん、と息をついてホタルを見る。するとまた、慌て始めた。なんだかおかしい。さっきのセリフは、あらかじめ用意しておいたものなのだろう。
「な、なにか、問題ありましたか? わたくし、やっちゃいましたか?」
「別に何でもないわ」
「死刑ですか?」
リーベルカは噴き出した。少々思い込みの激しい娘のようだ。
「私にそんな権限ないから。部屋を掃除してくれて、飲み物も準備してくれて感謝してる。感謝してるから、仕事に戻りなさい。少し考え事をするから」
「ひっ! はいっ!」
意外に俊敏な動きで飛びのいて、こちらをちらちらと見やりながらベッドのシーツを取り換え始める。正直落ち着かないが、じきにお互い慣れるだろう。
先ほどの気の抜けたやり取りのおかげで、異母兄にいじめられたむかつきはかなり収まった。
そういう意味では、前の担当の淡々としたメイドよりはこの少女の方が好ましい感じがする。
イヴォケードに関して、再び思いを巡らせる。
堅牢にして精鋭の守るあの都市国家を攻めるには相応の兵力が必要だ。大兵力を進めるには、まずは魔力のない土地、大平原をいかに進むかという問題が持ち上がる。
そして学園を守る結界。これも非常に強力だ。その強さは、常軌を逸しているというレベルに達しているほどだ。
この結界を破壊すれば大平原の魔力も戻り、大兵力も展開しやすくはなる。切り崩すには結界からとなるが、それも当然難問だ。
ここの部分で話は頓挫し、いつもはまた別の方式がないかと考えてしまっていた。
だが、あの学園には今や結界破りと呼ばれている新入生がいる。ユウ・フタバ。彼の能力をできれば再確認したいし、うまく味方に引き込むか強要するかして必要な時期に守護結界を破壊してもらい、侵攻の足掛かりにする。
道のりが果てしないような気がかなりひしひしとするが、今はこの方法を考えてみるのがいいだろう。幸いにして、当人とは面識もある。
連れを用意するというシンとの約束を破ってひとりで行ってもいいのだが、さすがにそれは無理だろう。リーベルカは自分があまり世間を知らないことはわかっているつもりだ。
伴連れがいた方がいい。それをどうするか悩んでいるが……。
自分の信頼できる人間。それは前提となる条件だった。
ぱっと思いつくのは妹のカリメロだったが、絶対無理だとすぐに考え直す。指揮下の女性部隊長あたりを思い浮かべるが、ピンとこない。彼女らと信頼関係はあるものの、リーベルカというよりは彼女の片腕として働く親衛隊軍師のマクガイル将軍に忠誠を誓っている、という傾向が強い。今回のような軍とは離れた単独任務に引っ張り出すのは、難しいだろう。
しかし家族でもなく軍でもない、となるとあとはもうまともに信頼している人間がいない。
正直、邪魔にならなければ誰でもいいという気分になってきた……。
考えるのが面倒になって若干破れかぶれな思考に陥っていると、不意に目の前のテーブルにことりと何かが置かれた。
見てみると、それは一輪挿しの花だった。
「外に咲いていたお花です。お花を見ていると、心が和みますよ」
はにかんで笑うホタル。この部屋の清掃係の一人となった新人メイド。
リーベルカは花を見て、ホタルを見て、そして小さく頷いた。
「あなたにするわ」
「はい?」
「ホタル、あなたのメイドの職は解きます」
「えっ……」
リーベルカの言葉に、ぷるぷると震えだす。
「わたくし、やっぱり死刑ですか……?」
「まだそれを疑ってたの? 違うわ、あなたをこの部屋のメイドとしてではなくて、私の傍仕えにします」
「えっ……」
「昇進おめでとう。お祝いついでに、早速、私と一緒に出掛けてもらうわ」
「わたくしが、姫様とですか……? あの、どこにでしょうか……?」
不安そうなメイドに、不敵に笑う皇女。
「魔法学園、イヴォケード」
「えっ……」
リーベルカの言葉に、ホタルはぷるぷると震えだす。
「ええーーーーっ!!?」
そして、穏やかな空気を切り裂くように、哀れそうな悲鳴が響き渡った。
……そして連れを確保したリーベルカの行動は早い。あっという間に皇帝へ外出の許可を取って、未だ混乱しているホタルを連れて転移魔方陣で旅立ってしまった。
後ほど、会ったばかりの娘を連れて旅立っていった主人の所業を聞かされて、残されたシンは無鉄砲な行動に頭を抱えて転げまわったが、その頃には既に、リーベルカは別の国へと高跳びしていた。
口うるさい副官に文句を言われて怒られて、そして止められるのがわかっていたが故の、あまりにも素早い逃亡だった。
リーベルカ・オリガ・スーラ・ティル・イリヤ=エミール。
やたらとフットワークの軽い皇女だった。




