新生活
新学期が始まりました。
大騒動の入学シーズンは終わり、学園は徐々に普段の生活に戻っていきます。もちろん各クラブ間の新入生の取り合いなどはいまだ激しいのでしょうが。
三年生に進級したわたしは錬金術の研究室に所属しました。
二年生までは主に基礎的・普遍的な授業が中心ですが、三年生からは本格的な研究室に入っての研究が中心になります。それに補助的に別分野の研究参加、その他授業という感じです。
わたしが入った(というか、入れた)のは特に有名でもないクラスですが、分相応といったところでしょう。わたしが入学以来研究しているのは中和剤の質の向上という重箱の隅をつつくような傍流的な研究ですが、このクラスではみんなそんな地味なことをやっています。
そんなクラスに入っているので有名クラスの生徒よりは時間に余裕もあり(上級クラスは忙しいのが常です)、今年からはユウさんのお世話係の仕事で懐に余裕もできました。
これまでは中和剤を製作し、それを魔法具店へ卸して生活費を稼いでいたのですが、今はそんなことをせずとも暮らしていける有閑階級です。
ふぅ、のんびり。
……などと言えれば幸せですが、そんなことはないのが、真実でした。
結界破りのあの日。
ユウ・フタバの名前は学園中に広まり、彼は『結界破り』の異名をとるようになりました。そのおまけでわたしの名前も多少は人の記憶に残ったようです。人の威を借っているので、なんだか情けないような気がしますが。
ともかく、おかげで結構行く先々で声をかけられたりします。特に入学式の直後の数日などは何度も何度も声をかけられて困りました。寮内でもからかわれることが多く、その度にわたしはもう、赤面するしかありません。
有名人だからとクラブへの勧誘もありますが、それも断っています。一応いまだ、第三魔術研究会では臨時部員的な立場にとどまっていて、時々フォロンに誘われて一緒に部室に行ったりしてします。
声をかけられるというと、勧誘やからかいの他にはユウさんへの決闘の申し込みの橋渡しや求愛(ユウさんあての手作りクッキーなどを渡されます。困ってしまう。あとはファンクラブを作りますという子もいました。さすがユウさん、話題性抜群であると共に結構カッコいいので、こういう層も付いてくるようです)などもある。
ユウさんへの取り次ぎ役といいますか、なんだかわたし、秘書みたいです。まぁ実際、用件は取り次がないことの方が多いですし、それとは少し違うかもしれません。
平穏とまでは言えないですね。でも今の生活に段々と慣れてきました。身辺がばたばたしているのは、自分の入学直後も同様でしたし、おかげで多少が肝が据わっているのかもしれません。
そしてユウさんはというと…。
相変わらず問題児として、あちこちで決闘騒ぎを起こしているようです。
あぁ……。
お腹が痛い……。
ただ、今ではユウさんの名が知れたおかげで、決闘騒ぎとかを起こしてもある程度はお目こぼしをしてもらっているという感じはします。この学園は、トラブルメーカーはある種人気者として扱う傾向にあります。
守備隊と足並みをそろえて学内の治安維持を行っている自治委員。そこでのユウさんの評判は悪くないようです。自治委員は感覚としては一般の学園生に近しいものがありますから。
反面、守備隊の方からは険悪な視線で見られることが多いようです。
原因は明らか。
セレスティン王女入学の日に学園生の前でウサコさんを倒して、結界も解除してしまったこと。結果的にウサコさんが掲げた結界破りの完全撲滅という目標は、結界を解除されて全生徒が大通りの進入禁止領域に入って騒く、というこれ以上にないくらいに惨めな敗北を遂げてしまいました。もっとも、そんな混乱の中でもウサコさんはきっちり王女様の傍に仕えて護衛の任を果たしたと伝え聞いていますが。
ともかく、結果。
第三守備隊長ウサコ・メイラーはその任を解かれ、異動。現在は一隊士として活動しているということです。
実際は異動については元々決まっていたことで、ウサコさん的には望んでいた人事だったようです。そのことは、結界破りの後日にウサコさんが手紙で教えてくれていて、守備隊の広報も懲戒人事ではないことを説明していますが、その話は学内に浸透していると言いがたいのが事実。
もともと学園生・守備隊の中でも人気の高かったという彼女を落ちぶれさせた張本人ということで、ユウさんを敵対視する方は沢山いるようです。守備隊が主ですが、ウサコさんはすごく綺麗な人なので、信奉者の男子生徒などの恨みも買っています。
そこから、決闘騒ぎの話にも繋がってくるのですが。
「そのあたり、どうなんですか」
朝。いつものように寮の食堂で待ち合わせて朝食をとりながらユウさんの生活について聞いてみます。
お互い授業のある身ですので一緒にいる時間は長くないですが、その分できるだけごはん時はちゃんと話をするようにしています。
前は朝にユウさんの部屋へ起こしに行っていたのですが、今ではそれはしていません。寮監のリーズウッド先輩に、女子生徒が足しげく男子の部屋に通っているのは妙な噂になっているからやめた方がいい。いくら男子寮に入る許可証を下げているとはいっても、と言われてやめました。赤面しながらやめました。たしかに、そうかもしれませんね。
わたしの問いにユウさんは顔を上げて少し考え込むような仕草をします。
「別に、問題はない」
「本当ですか? 昨日とか、決闘挑まれたりとかはなかったんですか?」
「あったぞ。だが……この間言っただろう? 俺の子分になりたいと言ってきた奴らがいたって」
「ああ、そういえば」
ユウさんの実力が明らかになるにつれ、彼の追従者も現れてきているようです。天才児ばかりでわりと生徒たちは特長的な人が多く、あまり徒党を組むことはないですが、それでも稀有な才能の持ち主の周辺にはその人を中心にした一派が形成されることがあります。
わたしとしては、ユウさんにはいまだに対等な友人、というような存在がいないのがすごく気になります。話を聞いている感じですと、クラスの中でもわりと浮いているような印象がありますから。
まあ、それも致し方ないかもしれないですけれど。なにせ特異な才能を持つ有名人ですし、ユウさん自身にも友達を作ろうという意識がないですからね。
「その子分さんがどうしたんですか?」
「挑まれた決闘の相手をするのが面倒だったから、そいつらに相手をさせた」
「……」
「全員蹴散らしたら相手をしてやると言ってな」
「せっかくの仲間をなに使い捨てにしてるんですかっ!?」
「仲間じゃないぞ」
「ああもう……」
この人だめですねぇ。
ぜんぜん、うまくやってないようです。
まあ、今の注目も一過性のもので、時間が過ぎればそこまで色眼鏡で見られることもなくなるでしょうが。でもやはり、今の時期が一番友達作りやすい時期だと思うんですけど。
とはいえ、学年も校舎も違うし性別も違うわたしができることはそう多くはありません。ユウさんはよく寮の中庭で鍛錬をしていて、一緒に修行をしている人たちとはすでに顔見知りです。当初は彼らにユウさんのことをお願いしていたのですが、今ではユウさんは通っている校舎の武道場にいることの方が多いようで、寮生との繋がりもうすくなってしまっているようです。
わたしの方もまだ入ったばかりでこの寮内になかなか伝手はありません。この間部屋が近い女子生徒でお泊り会をしたりしましたが、さすがにその輪にユウさんを加えるわけにもいきませんし。
「そういえば、ユウさんの校舎にはもう一人有名人がいますよね」
「知らないが」
「チサ・ツヴァイク。殲滅魔術師と呼ばれている保有魔力がすごく多い女の子ですよ」
「知らないぞ」
「その子はどうしているんでしょうか。最初から名前ばかりが有名でも、うまくやってるんでしょうか」
「だから知らない。話を聞け馬鹿か」
わたしはチサさんのことを思い出してみる。
言葉を交わしたこともない新入生。ですけど、一度、姿を見かけたことはあります。
あれは結界破りのあった日、ユウさんの通う校舎を見学に行った際に不安そうに立ち尽くしている彼女の姿を目にして、不思議と印象に残りました。
多分、それは以前のわたしに少し似ているからかもしれません。先に名前ばかりが有名になってしまって、不安になっている感じ。ある意味、彼女は二年前のわたしの姿でもあるのです。まあわたしの方は有名でも実はだめな子というのが早々に露呈してすぐに忘れ去られていったのですが。
「それじゃ、それはいいです」
わからないことを考えていても埒があきません。
「でも、友達作るために頑張らなきゃだめですよ? 今の時期はみんな友達ほしいと思ってるんですから、声をかけていかないと」
わたしは涼しい顔で朝食を食べているユウさんにそんな注意をしますが、彼はさして感銘を受けた様子もなく適当に頷いてみせます。
ううん、どうにかしてあげたいところですが、まさかユウさんの校舎まで出向いて友達になってくれるように周囲に頭を下げるわけにもいきません。
とりあえずは、第三魔術研究会の皆さんはそれなりにユウさんを歓迎してくれている様子ではありますので、まあいいんですけど。とはいえまだ全員と顔を合わせたわけでもないですが。
「おはよ、ユイリ、ユウ」
そこに、フォロンがやってきます。
「あ、おはよう」
わたしは挨拶を返す。フォロンも最近は、朝ご飯の時間をちょっとずらして一緒に食べるようになりました。彼女は騒がしいのは好きではないので、これまではもっと早くてもっと人が少ない時間帯を選んでいたのですが、わたしたちに合わせてくれているようです。
一応、まだ混んでいる時間帯よりはちょっと早いですから。
学園生は平均して、夜は飲み歩く人も多いので必然的に朝は弱くなっている印象があります。起床時間でいえば世間一般の学生や勤め人よりも遅いでしょうね。
遅くから起きだして朝食はかきこむように食べるか、もしくはそもそも食べないか、という人が多い。
最近はルドミーラがそんな感じになってきています。研究室に拘束されることが多くて大変だと、よくこぼしています。たまに夕飯は一緒に食べますけど。
フォロンは注文を取りにきた給仕さんに朝定食を頼むと、そのまま目を閉じて動かなくなります。
「寝てるぞ、こいつ」
「時々、眠そうな日がありますよね」
「……昨日、夜、遅かったから」
目を閉じたままそんなことを言う。まだ、起きているようでした。
「頼んだの来たら起こすからね」
「うん」
わたしの言葉に、眠そうに頷く。
この子も天才児ですので、相応の忙しい身の上のようです。
「ユウさんは、第三以外にどこかクラブに入るつもりはないんですか?」
第三、というのは第三魔術研究会のことです。
ここも成り行きで入っている、という感じで時々顔を出している程度ですが。部室に顔を出すと、大体いつも部長のルカ先輩と奥さんのアイシャ先輩、副部長のクローディア先輩はいることが多いです。彼らも忙しいはずなんですが、おそらくあの部室が拠点なんでしょう。大体は他に一人か二人くらい他の部員の方がいるというくらいで、まだ全員がそろった場面はないですね。月末に全員参加の定例会をやろうか、などという話も出ていますがまだ固まってはいないようです。
そんな状況ですので、他の学園生がしているように、クラブの掛け持ちをユウさんもできるのですが……。
「興味ない」
一言で言い切りました。
「でも、誘われたりはしてるんでしょう」
「ああ、それはあるな」
今のところ、彼の心を動かすほどのお誘いはないようです。ユウさんは授業が終わったら校舎付属の武道場に通っているようで、そこの集団に属しているという認識かもしれません。逆に言えば、鍛錬するいい環境があるならば興味を示すかもしれないですけど。
「それを言うなら、おまえもそうだろ」
「まあ、そうですねえ……」
たしかにわたしにも先日の騒ぎの余波でいろいろお誘いはあります。どちらかというと、趣味系のクラブからのお誘いが多いでしょうか。
「でも、ユウさんのお世話がありますから、そっちにかまけている余裕はないですね」
そこまで琴線に触れるお誘いがあったわけでもないので、結局、そんな結論に落ち着いています。
「全然役になってないけどな」
「えっ!? そうですか?」
けっこう頑張っているつもりなんですが。一緒にいる時に勧誘が来たら防波堤になってあげたり、寮内で知り合いができるように取り次いだりと、それなりに意識しています。
「いや、少しは役に立っているかもな」
わたしの反応に、ユウさんはそっぽを向いて言い直す。もしかしたら、今のは軽口のつもりだったのかもしれません。
「はぁ。あ、フォロン、ごはん来ましたよごはん」
とりあえずユウさんの言葉は聞き流して、隣のフォロンを起こします。
「ごはん来たごはん……」
はっ、と目を覚ましたフォロンはもそもそと目の前に用意された定食を食べ始める。
そんな様子をわたしは微笑ましく見守りました。最初あった頃はすわ天才児、という感じで身構えていましたが、こうして接していると普通の子です。ともすれば、自身の才能に振り回されてしまいかねないくらいに幼いのです。
わたしには誇れるほどの才はありませんが、その分を弁えているだけ、彼らを支えていくには適しているのかもしれません。
視線を感じてはっと顔を上げると、ユウさんが生暖かい目をしてわたしたちの様子を眺めていました。
「どうかしましたか?」
「最近、そいつにおまえの馬鹿が移った気がする」
「えええ、そうですか?」
「ああ。なんというか、緊張感がなくなってきた」
あ、それくらいなら馬鹿が移ったっていう話じゃないじゃないですか。
「最初会った時は結界破りの時期で慌ただしかったですし、初対面でしたし、あの時が特殊なんですよ」
わたしはそう説明しますが、ユウさんは曖昧に頷くくらいでした。
「ユウも最近、ユイリに似てきたよ」
ご飯を食べていたフォロンが顔を上げて、ぽつりと言う。
「は? 馬鹿言うな」
「ほんとだよ」
「……」
「似てきたよ」
「……」
えええ……ユウさんがすごく暗い表情になりました。
「あの、ユウさん、大丈夫ですか?」
「死のう」
「えええ!」
「冗談だ、馬鹿」
「えー……」
不満げに彼を睨みますが、ユウさんは完全無視。
わたしはため息をついて、ちょっと笑いました。なんだか、日常って感じです。
わたしにとって、この学園で心休まる日々を過ごした時期というのは、これまであまりたくさんはありませんでした。入学してすぐの頃はわたしの新薬の話題でいろいろな人と交わらなくてはならなくててんてこまいでしたし、その後は力不足を知った周囲がわたしから離れて行って、けっこう落ち込んだ時期がありました。
だんだんとわたしみたいにこの学園の学力に付いていけない集団に交じってそこで安息を得ていましたが、それも束の間、今度は進級できない可能性が高いとなって将来への身の振り方にあくせくしていました。
お金稼ぎなどもせずただ授業に出ているだけでいいという今の状況はぬるま湯のように心地いい。
うん、こんな日常が続けばいいですね。
わたしは、ユウさんとフォロンが本当にわたしの影響で呑気な感じになったか否かを言い争っているのを眺めながら、なんだか幸せな気分になっていました。
わたしの通っている校舎は学園西側にあります。中央通りの傍にある寮からは離れているので、通学は徒歩ではなく箒になります。
建物の三階くらいの高さが箒で移動する空域と指定されていて、通りに沿って右側を飛行するというように決まりがあります。他の町ではそもそも土地の魔力がそこまで強くないうえに普段使いをするほどに箒の腕に秀でた魔法使いの絶対数が少ないため、飛行規制などはありません。
しかしここはイヴォケード。多くの生徒が類い稀なる魔法使い。野放図に飛行を許すと収拾がつかないということで、明確に規定が定められています。わたしも入学してしばらくは戸惑ったものですが、今ではもう慣れました。むしろ、戸惑っている新入生と思しき生徒を見ると微笑ましくなるくらいです。
箒に乗って辿り着くは、第十二錬金術校舎。わたしの所属する研究室、ノイエムフエルト魔法錬金術教室です。
……などと名乗るとカッコいい感じもしますが、第十二錬金術校舎は俗に言う出荷待ち校舎です。要するに、成績不振でじきに出荷(つまり卒業という名の放校の俗称です)される生徒が多く所属する出来損ない校舎です。まあわたしの成績ですので、学園に残れただけで幸福ではあるんですが。
そんな悪名高い場所ですので、古いくせに修繕の跡もなければその兆しもない見捨てられた感じがなんともワイルドです。今は春だからいいですけれど、夏とか冬が不安になります。
ここに通っているのは二年生から四年生まで。
特に二年生などは今年いっぱいでもう卒業になってしまうんだ、三年生にはなれないんだ……というような絶望した顔をした生徒や、逆にどうせ最後の一年なんだから派手に散ってやるぜ的な無鉄砲な輝きを持った生徒が多いのが特徴ですね。嫌な特徴ですが。
逆に三、四年生などは、厳しい放校のラインをクリアしてきた猛者が多く、この学内にあっても変人が多いのが特徴です。独自すぎる研究でぎりぎり教授に引っ張り上げてもらった生徒や悪いことして卒業を免れたんじゃないのかというような蓮っ葉だったり後ろ暗そうな生徒がいたり、一筋縄ではいかないような人が多いです。
わたし、正直ここ怖いんですが、まあ贅沢は言っていられません。
研究室に入ると、既に数人の生徒が登校してきているようです。
「サンダースくん、おはよ」
「ああ……」
席が決まっているわけではないですが、ほぼ指定席となっている前側の席の一つに腰かけて、横に座る男子生徒に挨拶をします。
サンダースくんは唯一この研究室で元から顔を知っていた生徒でした。これまでは話すこともありませんでしたが、去年も同じ研究室に所属していました。
お互い、一緒にいた仲のいい友達が軒並み卒業してしまってかなり心細い身の上になってしまった、いわば同志みたいなものですね。
彼の場合はぎりぎり研究結果が学園残留の基準以上になったようで、なんとか進級することができたようです。わたしとは違って、正攻法で三年生に進級した良識派です。とはいえ苦労も多いようで、これまで過ごしていた寮は家賃の支払いが難しくなって追い出され、今では学内の一般家庭に寄宿しています。
「パンのいい匂い」
彼の方から漂う香りについ率直な感想を漏らすと、サンダースくんは冷ややかに笑いました。
「ああそうだ。俺の持っているパンだよ。昼飯のパンだ。今や俺はパン屋の下宿人だからな」
「別にいいでしょ、パン屋」
この学園では生徒や職員、卒業生の研究生などが正当な学園の人間であり、それ以外のいわゆる一般国民……つまり商店の従業者や一般の事務職員、普通科に通う生徒などは下に見られる傾向があります。
わたしは元々の育ちがいいわけでもないのであまり気にしたりはしませんが、サンダースくんはかなりそれを気にする人のようです。
まだくよくよしているみたいで、今もパンの香りが自分にとって劣等生の香りと認識されてしまっているようです。結構面倒くさい人です。
「よくねぇよ。いつもいつも、いらないって言ってるのに無理矢理持たされるんだよな。そんなに匂いするか?」
「わりと。あ、でも、近付かないとわからないから、大丈夫だよ」
言っておきながら何が大丈夫なのかと自問する。パンの香りがしても不快に思う人はいないでしょう。ダイエット中とかでない限りは。
サンダースくんの方は、わたしの適当なフォローに多少は安心した様子になります。結構単純な人です。
「パン持たされて困ってるなら、断ればいいじゃん」
話をしていると、後ろの席の女子生徒が身を乗り出して話に入ってくる。
レイシアさん。たしか新聞部に入っている人で、そのあたりのコネでなんとか進級したという噂の人です。とはいえ極端に変な人というわけでもなくて、わりと普通にいい人です。人のことを根掘り葉掘り聞こうとするきらいはありますが、そのあたりは職業病みたいなものでしょう。
わたしも会ったばかりの頃は、結界破りのことであれこれと聞かれた記憶があります。
「そうもいかない。こっちは家賃もなしで住んでいるんだから、相手の機嫌を損ねるようなことをしたくない」
そんな言葉に、レイシアさんはにやにやと笑う。
「またまた~。彼女さんのせっかく作ってくれたお弁当だから、本当は喜んで持ってきてるんでしょ」
「は、違うし。彼女なんかじゃないし。あいつはパン屋の娘で、そういうのじゃない」
「サンダースくんの今住んでいるお店に、同い年の女の子がいるんだよ。普通科に通っている子なんだけどね」
何の話かと横で聞いているわたしにそんな補足を教えてくれる。
「へぇ」
サンダースくん、意外に隅におけませんね。
「おい新聞部。なんでそんなこと知っているんだよおまえはっ」
目に見えて慌てています。結構面白い人です。
「新聞部だから」
「えっ、こわっ」
そんな話をしている内に徐々に級友が集まりだします。とはいえ、この研究室に所属している人数はそう多くもないですが。
やっと顔と名前が一致しだした彼らに挨拶をしていると、最後にノイエムフエルト教授が入ってきて、授業が始まります。
薄毛と肥満の愚痴がすごく多いのには閉口しますが、温和な先生です。その分授業もぬるい感がありますが、それはまあ生徒のレベルに合わせているような気がします。わたしも座学がすごく得意というわけでもないのですが、いささか基本的な事柄の再確認が多いので、きちんと自主勉強をしなければ一般的な錬金術科の生徒の教養からは後れを取ってしまいそうです。
……ですが、わたしのようにまじめに勉強しよう、という生徒はこの教室では少数派。
ちらりと後ろの方を見てみると、寝ている生徒、小声で雑談している生徒、何かの資料を作成している生徒、模型を組み立てている生徒、文房具でドミノを作って遊んでいる生徒、天井を一心に見つめて微動だにしない生徒(わたしも試しに天井を見てみますが、何もありません。わたしに見えない何が見えているのでしょうか。気になります)など、むしろ授業を聞いている人は少数派ですね。
義務教育の学校ならばともかく、ここイヴォケードでこんな意欲の低い様子はめったにないでしょう。
うん。
わたしのクラスはどうやら、この学園の最底辺の名に恥じないところですね。
困りました。
お昼過ぎくらいで、一日の授業が終わります。
三年生ともなると必修の授業は少なくなり、むしろ学業の中心は研究室へと移っていきます。でもわたしの所属しているのはやる気のある研究室というわけでもないので、なかったり終わるのが早かったりと放課後の時間が長い。
元々錬金術科は個人研究が盛んな分野ですので、成績優秀でもそもそも研究室に入らないという生徒も一定数いますが。
わたしは研究室は違いますが一般教養の授業で仲良くなった女の子と校舎の近くの商店街を見て回り、寮の方へと帰ります。わたしの通う校舎の人はほとんどが学園の西側地区に住んでいるので、帰りは一人です。
まだ夕飯の時間まで間がありますし、ふと思い立ってユウさんの通う校舎の方へと足をのばすことにしました。
新学期が始まってからもちょくちょく様子を見に行っているので、迷うことはありません。
ちょうど授業が終わった時間のようで、校舎の方から生徒たちが歩いてきます。
一年生の講義はほとんどが必修科目で、放課後になるタイミングは毎日同じです。迎えにくる身としてはわかりやすくていいですね。
きっと今日も武道場の方でしょう。そちらに足を向けようとすると、ふと足早に帰途につく一人の女子生徒の姿が目につきました。
チサ・ツヴァイク。
殲滅魔術師。
入学時からあだ名を持っていることからも明らかですが、彼女は天才児の中にあっての異才というほどの生徒です。ユウさんやセレスティン王女と同様に取り巻きができてもおかしくないような人です。
でも、たった一人で逃げるように、こちらへ向かってやってきます。
特に接点はないもののなんとなく気になっていた相手がいきなり目の前に現れて、わたしは何も言えずぽかんとして立ち尽くしてしまう。
相手もそんなわたしの様子に気付きましたが、一瞬だけ目を合わせると気まずそうに顔をそむけて、わたしの隣を通り過ぎていきました。
反射的に後ろを振り返って彼女の姿を目で追うと、チサさんも同じようにこちらを振り返っていて、びしりと視線がかち合う。彼女はびくりと体を震わせると、今度は小走りになって校門の外へと出て行ってしまいました。
逃げるように校舎から出てきたなあ、などと思っていましたが、最後は完全にわたしから逃げていましたね。
「……」
もしかして、わたし……怪しい人だと思われたんでしょうか……。
だとしたら、なんだかへこみます。
とはいえ、それも致し方ないかもしれませんね。宝玉の色は三年生。上級生が一年生の校舎にいるとなると、何かの勧誘などを疑うのが常道です。そして彼女は才気溢れすぎている新入生。彼女の立場からして部活の勧誘などは嫌気がさすほどに殺到していることでしょうし、話しかけられる前に逃げてしまおうという気持ちはわかります。
うん、きっと、ちょっとびっくりしちゃっただけですね。
ぼうっとチサさんの後ろ姿を見送っていると、帰る生徒たちがちらちらとわたしの方を見ているのに気が付く。
聞こえてくるこそこそ交わされる言葉からすると、またユウ・フタバの従者が来ている……という噂をされている感じですね。何度も来ているので、ある程度はわたしの存在もここの生徒に認識されているようです。まあ、噂されるのはそんな気分いいものでもないので、わたしは早足に武道場の方へと足を向けます。
新歓時期は抜けたのであたりに上級生の姿などはなく、なんとなく落ち着いた雰囲気に戻っています。半月前は校舎の中にブースができたりチラシ配りがあったりサンドイッチマンが現れたりとここも結構な騒ぎでしたが、さすがに新入部員の獲得も一区切りついた感があります。
わたしたちのまわりはまだまだ騒がしい時もありますが、それでもやっと一息つけますね。
その時。
「ユウ・フタバの決闘だぞーーーーーっ!!」
「……」
唐突にどこからか聞こえてきた誰かの叫び声が、わたしの気分に水を差す。
あぁ、もう……。
ユウさーんっ!
内心そんな叫び声をあげて、わたしは声のした方に駆けだしました。