千年桜の咲く頃に
初めて短編に挑んでみました。
知識の浅さ、拙い文章は承知の上で書かせて頂きました。
『必ず帰って来るよ』
あの人はそう言って旅立っていった。
『この戦争が終わったら祝言をあげよう』
そう言って紅白の組紐をくれた。
『この桜が咲く頃までには帰ってくる。だから、信じて待っていて』
桜の下で微笑みながら言う、その言葉に私はうなずいた。
本当は引き止めたかった。
いかないで、と腕にすがりつきたかった。
でも、非国民だと非難されるのが怖くて言えなかった。
汽車に乗り、たくさんの国旗に見送られながら笑顔で敬礼をする彼の姿を見ていられなくて、私は群集の後ろで組紐を握り締めてうつむいていた。
発車の合図とともに動き出した汽車は、彼を死者の国に連れて行く死神の乗り物に見えた。
三々五々散っていく見送りの群衆をよそに、私はいつまでもその場に立っていた。
「由紀子、いつまで寝ているんだい。起きとくれ」
母の声に眠い目をこすって起きる。
「ほら、今日は由紀子の番だよ。配給を取りに行っとくれ」
まだ夜明け前だが、私は簡単に身支度を整える。
母は足が悪いので集会所まで行けず、私と弟の恭平が交代で配給を受け取りに行っている。
私が暮らす地域は配給の量が足りず、取りに行くのが遅くなると人数分の配給が貰えない事が多々あるので、こうして夜明け前に集会所に順番取りに行くのだ。
「ほら、防災頭巾。こないだは恭平が遅れたからあまり米が残ってないんだ。頼むよ」
「分かりました。行って参ります。・・・あ」
玄関に向かおうとして、私は枕元にある組紐を取りに戻る。
「ああ、雄也さんに貰った組紐かい」
「はい」
「今頃雄也さんもお国の為に頑張って戦ってるんだ。私らも頑張らなければね」
「・・・行って参ります」
母に返事をせず、私は外に出る。
・・・お国の為、という言葉が私は嫌いだ。
何かあればお国の為、で片付けられる。逆らえばその場で憲兵に折檻される。
いわれのない誹謗中傷を浴び、非国民となじられ、この地区を離れざるをえなかった人もいる。
私はこんな時代が嫌いだった。
だから、早く戦争が終われば良いとばかり考えていた。
正直勝ち負けなどどうでも良い。ただ楽になりたい、雄也さんが無事で戻ってきて欲しい。それしか頭になかった。
ここ数日はお米の配給も減り、代わりに芋がらや粟、ひえなどが混ざるようになった。量もかなり少ない。
地域の人々は野菜を育て、なんとか食い繋いでいる有様なのだが、ラジオ放送はどこそこで勝利した、わが国は優勢だ、と繰り返すばかり。
眉をひそめて聞いている人も多数いたが、憲兵の手前何も言わなかった。
でも、空気で分かる。
本当にわが国は優勢なのか、と。
「おはよう由紀子ちゃん、早いね」
集会所に着くと、配給を渡す役目をしているおじさんが既に準備に追われていた。
「おはようございます、おじさん。お勤めお疲れ様です」
「なんのなんの。・・・ただ、今日は一段と少なくてね。半数以上の人達に行き渡らないかもしれない」
暗い表情で指し示した先には配給の袋が置かれていた。
「・・・これだけですか・・・?」
その量は明らかに少なく、どう見積もっても地域全員の量には程遠い。
「とりあえずおおまかに分けてはいるんだが・・・ちょっと厳しいね」
「そうですか・・・」
「ああ、でも由紀子ちゃんは一番乗りだから、ちゃんと家族分配給するから安心しなよ」
「はい・・・」
配給が受け取れると喜んで良いのか、全員分ない事を嘆くべきか困った私は、ふと集会所の端にそびえる大樹を見上げた。
「・・・桜、今年も咲きませんね」
樹齢何年かも分からないほど大きな桜の木だが、私はこの木に花が咲いている所を見たことがない。
いつも花を通り越して緑の葉っぱしかつかないのだ。
「この桜は千年にいっぺん咲くって言われてるぐらいだからなぁ・・・わしも見た事ないよ」
「一度見てみたいですね、この桜が満開になっている所を・・・」
その時。
けたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
「!!」
「空襲警報だ。由紀子ちゃん、早くこっちの防空壕へ!!」
おじさんに従い、一目散に集会所の横にある山に掘られた防空壕へと走り出す。
一瞬振り返った時、まだ明け切らぬ濃紺の空に黒い影がいくつも見えた気がした。
息を切らして防空壕へ滑り込み、防災頭巾をきつく握り締める。
おじさんは入り口にふたをし、私の背中をさすってくれる。
「大丈夫かい、由紀子ちゃん?」
「は・・・はい、大丈夫です・・・おじさん、空にいくつも黒い影が見えたような気がします・・・」
「なんだって?」
目を見開いたおじさんは慌ててふたの隙間から外をうかがった。
私は息を整え、組紐をぎゅっと握る。
大丈夫・・・雄也さんが守ってくれる・・・
「・・・大変だ」
おじさんのつぶやきに、私は顔をあげる。
「・・・え・・・?」
その途端。どおんっと物凄い轟音が鳴り響き、ふたの隙間からすさまじい閃光が炸裂した。
「うわぁっ!!」
おじさんが衝撃で尻餅をつく。私もその場から動けずに硬直する。
「おじさんっ!!」
衝撃が収まったんを見計らい、私はおじさんに這い寄る。
「大丈夫?おじさん!」
「大丈夫だ。だが・・・村が・・・」
「村が!?」
私は即座にふたの隙間から外を覗く。
辺りは一面、火の海だった。
「・・・あ・・・」
集会所が焼けている。周りの建物も例外なく火の手をあげている。
「お母さん!恭平!!」
私は咄嗟に外に出ようとして、おじさんに慌てて止められる。
「由紀子ちゃん、ダメだ!今外に出ると死んでしまうぞ!!」
「でも、お母さんと恭平が!!」
「きっと近くの防空壕に避難しているよ。だから落ち着いてここにいなさい!」
おじさんに諭されて、私はその場に座り込む。
「・・・とにかく、一番奥まで行こう。ここは熱が来る」
確かに肌がちりちりと熱くなっている。おじさんに言われるまで気付かなかった。
二人で防空壕の最深部まで這い歩き、身を縮ませる。
その途端、一際近くで爆音が響き渡る。次いで閃光。
怖い、怖い、怖い!
今まで空襲警報こそ鳴れど、実際に空襲が起こったのはこれが初めてだ。こんなに強烈なものなのか!
次の瞬間、ふたの隙間から火が防空壕の中に襲い掛かってきた。
「ひっ・・・」
引きつった声を出す私をおじさんはかばいながら
「大丈夫、ここまでは来ないよ。ふたが守ってくれるから安心しなさい」
そう言われても、今まで見た事のない勢いの火に、勝手に体中が震える。
飛行機の音、焼夷弾が落ちて来る音、爆発音、閃光。
何もかもが『死』という言葉を連想させ、パニックに陥りそうになる。
その時、手にずっと握り締めていた組紐を思い出し、指を祈りの形に組んで目を閉じる。
雄也さん・・・お願い、私達をお守り下さい・・・!
どれぐらいの時間が経ったのだろう。
ふと気付くと、あれほどの轟音が聞こえなくなっていた。
恐る恐る顔をあげ、おじさんの方を見る。
「・・・終わった、の?」
「・・・分からない。だけど、音はしなくなったな」
そう言うとおじさんは私を制したまま、入り口に這い寄った。
「わしは様子を見てくる。けど、由紀子ちゃんはここにいなさい。いいかい、わしが戻ってくるまで絶対にここを離れてはいけないよ」
「・・・でも・・・」
「・・・そうだな、暗くなってもわしが戻って来なかったら、その時は外に出ても構わないが、十分に注意するんだよ」
「おじさん・・・!」
「大丈夫、きっともう爆撃機は去ったはずだ。でも、まだ危険である事に変わりはないからね。・・・いいかい、決して動いてはいけないよ」
厳しい声で言われ、私はうなずく。
それを見て少し微笑むと、慎重にふたをやっと通れる程ずらし、おじさんは外に出て行った。
・・・きっと、私に外を見せないように気を遣ってくれたのだろう。
だけど、一瞬見えた景色は真っ黒で、私の知らない世界のような気がして、背筋が寒くなった。
おじさんが出て行って、どれぐらい経っただろう。
まだ日はかげっていない。言いつけ通り私は防空壕の最奥でひたすらうずくまっていた。
お母さんと恭平は無事だろうか。
村はどうなったんだろうか。
皆・・・生きてるんだろうか。
いくら考えた所で答えは出ない。
見に行きたいけど、おじさんの言いつけがある。
私は膝に深く顔を埋めた。
おじさん・・・早く帰って来て・・・
知らない間に少しだけ眠っていたらしい。
ふと顔を上げると、防空壕が薄暗くなっていた。
ほっそり見える向こう側は、少し赤くなっている。夕方になっているんだろうか。
・・・おじさんは、まだ戻らない。
どうしよう、外に出ようか・・・でも・・・
逡巡の後、私はゆっくりと防空壕のふたを外した。
そこは、一面真っ黒の世界だった。
夕日に照らされて、どこもかしこも焦土と化している。
目の前にあった集会所はおろか、建物がひとつも見当たらない。
煤けた家の骨組みだけが残されており、焦げた屋根瓦がそこかしこに散らばっている。
「・・・あ・・・」
あまりの悲惨な光景に、私は足元の感覚がなくなるのを感じた。
その時、ふと目の端に映ったものに、私は目を奪われた。
おじさんが千年桜と呼んでいた桜の木が、そのまま残っていたのだ。
私はふらふらとその木に近付く。
枝の先こそ多少焦げているが、幹などはそのまま残されている。
その幹に触れ、しばらく呆然としていると、
「姉ちゃん・・・」
後ろから掛けられた声にばっ、と振り向くと、そこには弟の恭平がぼろぼろの姿で立っていた。
「恭平!どうしたのその格好は!防空壕に逃げていなかったの!?」
恭平の服はあちこち破れ、焼けていて、顔も煤で黒くなっている。よく見ると足から出血しているようだ。
私は着ていた上着を破いて簡易的な包帯を作り、恭平の足を縛る。
「空襲警報が鳴ってから、お母さんと一緒に商店街の防空壕に逃げたんだ。でも、焼夷弾が防空壕の中まで入ってきて・・・」
そのから先は口をつぐむ。思い出したのか、肩を震わせる。
その言葉に、私は不安を覚える。
「・・・お母さんは・・・?」
その言葉を聞いた途端、恭平は私から目を逸らした。
私はその顔を両手で持ち、こちらを無理矢理向かせた。
「答えて恭平!お母さんはどこにいるの!?」
「・・・・・・」
しばしの沈黙の後、絞り出すような声でつぶやいた。
「防空壕の中はとても熱くて・・・咄嗟に防空壕から飛び出したんだ。その後の事は覚えてない」
あまりのことに気が遠くなりそうだった。
でも、確かめなければいけない。
「・・・どこの防空壕にいたの?」
「・・・商店街の東側」
「行くよ、恭平」
私は返事を待たずに駆け出した。
商店街の防空壕に辿り着くまで、誰の姿も見なかった。
いや、見えていなかったのかもしれない。
辺り一面焦げ臭く、鼻が曲がりそうな悪臭はきっと焼けた建物のせいだけじゃない。
頭では分かっていながら、私は周囲の全てを拒否してひたすら走った。
足を怪我している恭平は途中何度か止まりながらも付いてくる。
そして、商店街のあった場所に着いた。
「・・・嘘」
東西南北、各所に地下に掘られた防空壕があったはずなのに、そこにはただ穴が開いているだけだった。
ふらふらと近寄り・・・
「・・・!!!」
穴の傍にあった『もの』に焦点があった瞬間、私はあとずさった。
焼け焦げた枝だと思っていたもの、それは人間の腕だった。
勝手に目が周囲を見渡す。
今まで拒否していた現実が、一気に頭へと浸透する。
足元に広がる、無数の焼け焦げた死体。
自分の立っているところが、防空壕から焼け出され、その場で命を落とした人達の亡骸で埋まっている。
どこが顔なのか判別がつかない人。
足を深く折りたたんだまま息絶えた人。
何かに手を差し伸べるような格好のまま黒焦げになっている人。
わずかに生きていた頃の痕跡を残した人。
ようやく追いついた恭平は、私の足元に広がる凄惨な光景に足がすくんでいるのか、それ以上近寄ろうとはしなかった。
気を失いたくなるような光景の中、私の頭は冷静に一人の人物を探していた。
「お母さん・・・お母さん、どこ?」
死体だらけの周囲を見渡す。
どれが誰なのか分からない事も分かっていながら、それでも視線は周囲をさ迷う。
ふと、防空壕の中に目が留まった。
深く掘られた穴の中、ふと何かが見えたような気がした。
私は死体を踏まないように注意しながら、防空壕に近付く。
「姉ちゃん、危ないって!」
恭平が慌ててこちらに近寄ってくる。
私はそれに構わず、防空壕の中を覗き込み・・・
「!!」
あまりのショックで足元がふらつき、穴の中に落ちそうになる。
「危ない!!」
恭平が咄嗟に私の腕を引っ張り、抱きかかえる。
「何してるんだよ、姉ちゃん!」
「・・・・・・た」
「え?」
「おかあさん・・・ここに、いた・・・」
「!?」
そのまま私は意識を失い、倒れこんだ。
「姉ちゃん!しっかりしろ、姉ちゃん!!」
私が穴の中で見たもの。
それは何体もの折り重なった黒焦げの死体。
そして、その中の一体に見覚えのあるネックレスが首らしき場所に引っかかっているのが、見えたのだ・・・
ふと目を開けると、見覚えのない天井が目に入った。
簡素な木の天井には電球の傘だけがぶら下がっている。
「姉ちゃん、良かった・・・気がついた?」
上から覗き込んできた恭平はほっとしたようにため息をついた。
「ここは・・・?」
「隣町の病院。姉ちゃんが倒れたから、ここまで背負って連れてきたんだ」
その言葉に周りを見渡せば、たくさんの怪我人が私と同じように床に寝かされていた。
ゆっくり起き上がり、乱れた髪を簡単に整える。
「そう・・・ありがとう」
そこまで言って、ふと手元に組紐がない事に気付いて愕然とする。
「恭平、私の組紐は?」
「組紐?・・・そんなの持ってたの?」
きょとんとする恭平を見て、私は真っ青になる。
「あれは雄也さんが私にくれたお守り・・・!取りに行かなくちゃ!」
そう言って起き上がる私を恭平は必死で止める。
「どこで落としたかも分からないのに、無茶だよ!それに今戻ったらまた倒れるかもしれないだろ!」
「それでも・・・それでもあれは私の大事なものなの!離して!」
私は恭平の腕を振りほどき、部屋を飛び出した。
「姉ちゃん!待てって!」
恭平が止める声を無視し、私は裸足のまま駆け出す。
あれが私の手元から離れてしまうと、雄也さんまで離れていってしまう。
お母さんだけじゃなく、雄也さんまで失う事になる。
それだけは嫌だ!
一心不乱に走り、息を切らして私は村まで戻る。
そしてお母さんがいる防空壕の近くに行き、辺りを必死で見渡す。
だけど、一面黒一色で、それらしいものは見当たらない。
一体どこで落としたんだろう・・・
焦りが思考力を鈍くする。
集会所の防空壕では持っていた。そこを出る時もちゃんと持っていた・・・
恭平に会ってからは?
「!!」
私は集会所に向かって走り出した。
「はぁ、はぁ・・・」
これ以上走れないほど全力で集会所まで来た私は、迷う事無くある場所に向かう。
焼夷弾でも焼かれずに残った、千年桜の木。
「・・・あ・・・」
その根元に、紅白の組紐が落ちていた。
黒ばかり見てきた私の目に、その紅白はとても鮮やかに映った。
屈み込み、震える手で組紐を拾い上げる。
それを胸元に抱き込み、その場にへたり込む。
その途端、今まで堪えていた何かが音を立てて千切れた気がした。
私はそのまま、声にならない声を上げて泣き崩れた。
その後、私と恭平は村から少し離れた地区に住む叔父の家に引き取られた。
叔母はお母さんの事について、一切言わなかった。
ただ引き取られた数日後、村の共同墓地に無事葬られた、とだけ伝えられた。
あれから私は毎日桜の木の下に行き、日がな一日雄也さんの帰りを待ち続けた。
叔父は私が毎日ここに来る事をあまり良く思わなかった。気がふれていると思われるのが嫌なのだろう。
叔母は何も言わず、日が暮れる頃になると私を迎えに来る。
恭平は、私に話しかけてくる回数が極端に減り、食い扶持を稼ごうと大工の助手として働きに出るようになった。
村は壊滅状態で、もう元に戻ることはないだろうと、先日桜の下に行く途中に会った村の人から聞いた。
私は、それを聞いても何の感情も浮かんで来なかった。
早く戦争が終わって、雄也さんが帰って来れば良いと、そればかり思って桜の木を見上げていた。
そして、8月15日、正午。
住人が地区の広場に置かれた、ラジオの前に集められた。
そして、昭和天皇による玉音放送が流れ、戦争の終結を伝えられた。
日本は、ポツダム宣言を受諾し、降伏。
すなわち、戦争に負けたのである。
ラジオから聞こえる声は、何よりも残酷に耳に響いた。
周りの人たちは一様にうつむいて聞いていたが、負けた事を悟るとその場に崩れ落ちて声を上げて泣く人、静かに目を閉じて天を振り仰ぐ人、ラジオにすがり付いて号泣する人、天皇陛下万歳、と泣きながら万歳三唱をする人・・・
叔父と叔母はうつむいたまま鼻をすすっているし、恭平はただ呆然とラジオを見つめている。
阿鼻叫喚の渦の中、私は泣きもせず、ただ黙って組紐を握り締めた。
・・・戦争は終わった。
これで、雄也さんは帰ってくる。
そう思うと、むしろ戦争が終わった事を、諸手を上げて喜びたかった。
いつまでもラジオの前から動こうとしない群集を尻目に、私は心の中で密かに喜んだ。
だが、何日経っても何ヶ月経っても、雄也さんは戻って来なかった。
どこそこの息子さんが戻ってきた、誰々の旦那さんは大怪我をして収容されているらしい、毎日色んな話が耳に入ってくる。
だけど、そのどれにも雄也さんの名前は出てこなかった。
雄也さんの母親を尋ねたが先の空襲で焼け死んだらしく、雄也さんが戻って来ても困らないよう、近くに住んでいたおばさんに今の住所を伝えておいた。
だから、帰って来たら必ず私を尋ねてくれる。
そう思って毎日家と桜の往復を繰り返して暮らした。
ある夜、叔父と叔母に客間に呼び出された。
「言いにくいが、きっと雄也くんは戦死したんだよ。由紀子ちゃん、諦めた方がいいんじゃないかい」
「兵隊に行って無事だった人たちは皆帰って来ているよ。こんなに待っても音沙汰がないんじゃ、もう望みは薄いと思うよ」
私は一切耳を貸さなかった。彼らが最後に必ず付け加える『お国の為に名誉の戦死を遂げたんだよ』なんて、聞くだけで吐き気がした。
雄也さんは私を見捨てて死んだりしない。だって、必ず帰って来ると約束してくれたんだから。
何度も何度もそう言って、話の途中で部屋を飛び出した。
そして桜の木の下まで走って、その下で組紐を握り締めて泣いた。
そのうち、叔母は私に毎日のように見合いの話を持ってくるようになった。
断り続ける私に痺れを切らしたのか、ある日
「言い方は悪いけど、働かないなら早いとこ婿を見つけて嫁いでおくれ。いつまでもここで暮らす訳にもいかないからね」
と眉間に皺を寄せてきっぱり言われ、更に叔父は私と目も合わせなくなった。恭平は大工の腕が認められて、今ではこの家一番の稼ぎ頭になっていた。
時々物言いたげな顔で私を見るが、何も言ってこない。
私は、ただの邪魔者に成り下がっていた。
その夜、私はそっと家を抜け出した。
そして歩き慣れた道を行き、桜の木の下に座り込む。
雄也さん・・・
私、あなたを信じて待ってます。
落とした組紐を見つけた時、どんな事があっても、待っていれば必ず帰って来ると確信した。
だから、こうして待っていた。
だけど、気付けば戦争が終わって3年の月日が流れた。
少しずつ戦争の傷跡も修復され、新しい家や学校が建つようになった。
それなのに、どうして雄也さんは戻って来ないのだろう。
ふと、目の端に防空壕が映った。
そうだ。
あの家にいてもどうせ邪魔者扱いされるのだし、あの中にいれば、雄也さんがここに来ても気付く事が出来る。
幸い、この辺りはとっくに放置されたのか、誰の姿も見当たらない。
ここなら、誰にも邪魔されずに雄也さんを待ち続けられる。
翌日。
私は叔母からの見合いを受けると言った。
「ようやく由紀子ちゃんも諦めたみたいだよ」
叔母は叔父に笑顔でそう伝え、叔父も
「そうかそうか、いや、何よりだ」
と久しぶりに笑顔を見せた。
恭平だけは何かを察知したのか、私を睨み付けたけれど、無視した。
大丈夫、恭平はあの防空壕の場所を詳しく知らされていないはずだ。
そしてここ数年で一番和やかな夕食を終え、それぞれが眠りに付いてしばらくの後・・・
私はそっと起き上がり、あらかじめ風呂敷にまとめておいた身の回りの荷物を抱え、家を出て行こうとした。
すると、玄関に恭平の姿があり、ぎくりとした。
「・・・姉ちゃん」
押し殺した声で私を呼ぶ。だけど、私はそれを気にも留めずに靴を履く。
「・・・どこに行くの?」
私はそれにも答えない。答えたら、きっと付いてくる。
だから、
「さよなら」
一言だけつぶやくと、そのまま後ろを見ずに駆け出した。
恭平がずっとこちらを見ているのが分かったけれど、私は振り切るように走り続けた。
集会所があった場所から程近い防空壕。
私はここに荷物を下ろし、ござを敷いた。
そしてそのまま服を枕に横たわる。
雄也さんが帰って来てくれるなら、他はもうどうだっていい。
戻ってきてくれたら、そのまま祝言をあげよう。
そしてここではないどこかへ行って、幸せに暮らすんだ。
だから、今の苦労もいつかきっと笑い話になる。
私はそっと目を閉じた。
瞼の裏に映ったのは、雄也さんの明るい笑顔。
あの桜の下で、初めて手を繋いだ。
初めての口付けも、結婚を約束したのも、桜の下だった。
だから、私にとって桜は特別なものだった。
焼け残ったのも、その下で落とした組紐を拾ったのも、運命だと信じて疑わなかった。
誰がなんと言おうと、雄也さんは絶対に戻ってくる。
そう考えながら、私は夢の世界に落ちていった。
・・・もうどれぐらい、ここにいるだろう。
時々空腹に耐えかねて、夜中にこっそり防空壕を抜け出し、少し離れた畑まで行き、野菜を盗んで食べたりする以外は、ここを動かずにひたすら桜の木を眺めている。
集会所が燃えてしまったせいで、ここから桜の木が少し遠いものの、雑木林の間からよく見える。
私は寒さに身を縮ませ、持っている物全てを身体に巻きつけて暖を取る。
ふと、桜の近くに人影が見えた。
目をこらすと、恭平が木を見上げていた。
慌ててその場に伏せる。見つかったら連れ戻される。
久しぶりに見た恭平は体つきががっしりして、背丈もかなり伸びているように見えた。
きょろきょろと辺りを見回す恭平は、きっと私を探しているんだろう。こちらに向かって歩いてくる。
やめて、来ないで・・・見つけないで!
息を殺して気配を消す。
恭平はこちらに近づいてきたものの、全く違う方向に向かって歩いていく。防空壕の存在には気付いていないらしい。
そしてそのまま遠ざかっていき・・・完全に気配が消えるまで、私は伏せたまま浅く呼吸をして存在を消した。
それから更に何度も昼夜を見送った日の夜。私は寒さに耐え切れなくなり、防空壕の外に出た。
枯れ葉を集めて防空壕に敷き、少しでも暖かくなろうと思ったのだ。
少し林を奥に進み、あまり汚れたり夜露に濡れていない枯れ葉を集めようと腕を伸ばし・・・
ひどい眩暈を感じ、そのまま前のめりに倒れこんだ。
「・・・あ・・・」
手足が自分のものではないようにぶるぶると震えている。
起き上がろうとしても、力が入らず、またもやべしゃっと地面に突っ伏す。
私は恐怖した。
このままでは凍え死んでしまう。何とかして防空壕に戻らないと・・・
ほふく前進の要領で、肘と膝を使ってずるずると這いずり、必死で防空壕まで戻る。
目に涙を浮かべながら、泥まみれのまま最奥まで這って行き、全ての服を引き寄せて被りこんだ。
そしてそのままぶっつり意識を失った。
・・・もう動く気力がない。
空腹も寒さも、とうの昔に感じなくなっていた。
ただ横たわったまま、焦点の定まらないかすんだ目で一生懸命桜の木を見つめる。
ひゅうひゅうと喉が鳴る。
何かを探るように伸ばした腕は枯れ枝のように細くなり、吹き出物がびっしり浮き上がっている。
・・・雄也さん。
私はうまく働かない頭で、最愛の人の名前を呼ぶ。
思考もかすんでしまったのか、なぜか顔がうまく思い出せない。
・・・私、たくさん待ったよ。あなたが必ず帰って来てくれると信じて。
だけど、もうそろそろ疲れたよ・・・
早く、会いたいな・・・
私はそっと目を閉じた。
ふと甘い匂いがしたような気がして、目を開く。
ぼんやりした視界の遠くに、桃色がかすかに見えた。
「・・・?」
私は起き上がる。
防空壕の外に出ると、遠くに大きな桃色の何かが広がっている。
まさか。
私は一目散に駆け出した。
集会所があった傍にあった、千年に一度しか咲かないと言われている桜の木。
その木が、満開の花を咲かせていた。
「桜が・・・!」
風にゆらゆらと枝が揺れ、視界いっぱいに広がる桜の花。
私はその恐ろしい程の綺麗な光景に息を呑んだ。
風に耐え切れなかった花びらがひらひらと舞い散り、辺りに桜の絨毯を作り上げる。
「由紀子」
背後から、ずっと聞きたかった暖かい声が聞こえた。
私はその声にすぐ振り向けず、代わりに目から大粒の涙が溢れ出した。
「由紀子」
その人は、もう一度私の名前を呼んだ。
私はのろのろと振り返る。
そこには、ずっとずっと待ち望んでいた人の姿があった。
「・・・雄也さん・・・」
「ただいま、由紀子。遅くなってごめんね」
「・・・・・・」
ずっと待っていた。
邪魔者扱いされ、無理矢理見合いをさせられようとしても頑なに拒否して帰りを待った。
辛かった。泣きたかった。信じてた。
色々言おうとしたけれど、涙が邪魔をして何も言えなかった。
軍服姿の雄也さんは、出征した時のまま、どこにも怪我をしていなかった。それだけが救いだった。
だから、精一杯色んな思いを込めて、一言だけ。
涙でぐしゃぐしゃの顔だけど、一生懸命笑って雄也さんの顔を見上げて言った。
「おかえりなさい」
咲かない千年桜がこの真冬に急に狂い咲いたと聞き、周囲の地区の人間が桜の木に集まった。
枝の端にまでびっしりと花を咲かせた木の下。
そこに、一人の女性が横たわっていた。
全身骨と皮だけにやせ細り、冬なのに泥だらけであちこち破れた半袖の肌着ともんぺを履いて、幹に寄り添うような形で、その女性は息絶えていた。
悲惨な姿とは打って変わって、その顔は幸福に満ち満ちた表情をしていた。
駆けつけた叔父と叔母は、由紀子の変わり果てた姿に泣き崩れたが、恭平は憑き物が落ちたように穏やかな表情をして死んでいる姉を見て、きっと婚約者に会えたんだ、と思い、桜の木を見上げた。
「・・・姉ちゃん、向こうの世界で幸せに暮らせよ」
それから毎年、由紀子の命日には真冬にも関わらず桜が咲くようになった。
いつしかその桜は『愛情桜』と呼ばれるようになり、神社を建立して戦争の記憶と共に永く語られるようになる。
これは、一人の男性をただ一途に愛した、女性の生涯である。
お目汚し失礼いたしました。
読みにくい文章を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。