三章 2
チェスワフがそそくさと家に帰るとリリアナがびっくりしていた。
「先生、今日はお仕事じゃなかったの?」
「いや、まあ今日は休むことにした。リリアナ、出かける準備をしろ。今日中にいろいろと面倒なことを一気に片づけてしまおう」
リリアナはしばらくぼーっとしていたが、ようやく自分が師匠と一緒にお出かけするということを理解したらしい。飛び跳ねるように喜びながら自分の部屋に駆けて行くと、すぐに着替えて戻ってきた。短いグレーのスカートに白いボタンシャツを着ているだけのどこにでもいるような女の子の格好だったが、彼女が着ているとそれはなんだか普通のものより洒落て見えた。服を着こなすコツというものを知っているようだ。
リリアナはシャツを袖まくりしながら張り切って言った。
「さあ、準備オーケーよ! 先生、行きましょ!」
「そんなに出かけるのが嬉しいのか?」とチェスワフはリリアナの様子に首を傾げた。
「すっごく嬉しいわ! この街って観光名所がたくさんあるんでしょ? ぜひ観に行きたいの。それにチェスワフ先生とももっと仲良くなりたいし」
やれやれ、とチェスワフは首を振った。こいつ、魔法使いの師匠を友達かなんかと勘違いしているんじゃないのか?
とはいえ、自分と出かけるのが嬉しいと言うリリアナを見ている内に、チェスワフも少し外出が楽しみになってきていた。そういえば、誰かと一緒に外出するなんてしばらくはなかったかもしれない。
チェスワフはマレクが彼のことをよく引っ張り回してあちこちに連れて行っていたことを思い出した。もっとも、その行き先は観光名所なんかではなく、荒れくれ者が集まる酒場や、煙草の紫煙が渦巻く賭博場だった。
マレクは自分が遊びまわるのに、チェスワフも無理やり引っ張っていったのだ。「ガキがいると、酒はおごってもらえるし、カード遊びの相手は油断するからな」と、マレクは悪い大人というか、ろくでなしの笑いを浮かべて言っていた。
一度は娼館の手前まで連れて行かれたことすらあった。幼いチェスワフはそこがどういう場所かはよくわからなかったが、後日アマーリアがやって来て、「くたばりなさい、このクズ!」とマレクに魔法をかけて下半身を石に変えた。今思い返せば当然の報いだ。
本当にどうしようもない男だな、とチェスワフはため息をつきたくなった。今頃どこかで女に刺されていてもおかしくはない。アマーリアが話さないマレクの事情というのも案外大したことはなかったりするのかもしれない。
チェスワフが楽しそうにつきまとってくるリリアナを振り払いつつ、二人は家を出ておとぎの街に出かけた。そんな必要はないのに、リリアナはもらったばかりの魔法の杖を片手に持っている。昔のチェスワフと同じだ。どこに行くのにも持って行ってしまうのだ。
「先生、最初はどこに行くの? 服屋さん? それとも、本屋さんで教科書を買うのかしら。でも、時計塔やお城を観に行くのもいいわね」
「は? 何を言っているんだ、今日は観光なんかしないぞ」
「えーっ!? ……それじゃ、どこに行くの?」とリリアナは不満そうに口を尖らせた。
「行くのはドラホミール魔法学校だ。何よりもまず、おまえの入学手続きをとらなきゃな」
「えっ! 魔法学校に行けるの!? やった!」
リリアナはぴょんぴょんと飛び跳ねた。驚いたり、不満を言ったり、喜んだりと忙しい子だ。
家から魔法学校に行くにはカレフ橋を通る必要があった。
ここは、このおとぎの街の観光名所の一つだから、リリアナの希望はこれで一応叶えてやったことになる。彼女は橋の美しさと大きさに口を開けて見とれていた。もっともチェスワフにとっては子どもの頃からの通り道の一つにすぎないので、めずらしくもなんともなかった。
カレフ橋は数百メートルもの長さを誇る巨大な建築物だ。十以上のアーチの上に石造りの橋桁が渡されている。その姿を横から見ると、お椀をひっくり返していくつも並べた上に板を乗せたように見える。夜になるとガス灯や魔法の灯りで照らしだされて美しい。
ここは交通の要所であるため、多くの人が行き交う橋だ。観光名所でもある。となれば、人出の多さを見込んで露店が常に立ち並ぶ。露店の列に並んでいる間に見てもらおうと、大道芸人や吟遊詩人が集まってくる。
それらの人が一度に集うとどうなるか。
「先生、待って!」
こうなる。リリアナが人混みの中で立ち往生していた。
大道芸人が魔法で鳩を自由自在にいろんなところから取り出したり、吟遊詩人が高らかに冒険者や騎士の歌を歌い上げたり、仕事に行く人たちが露店でプレッツェルやワッフル、サンドイッチなどの軽食を買って立ち食いしている。
好奇心でいっぱいのリリアナはそれらの様子に見とれている間に、チェスワフと離れてしまったらしい。さらに、今も人混みからようやく抜けだしたというのに、リリアナは露店の一つにじっと張り付いている。
「おい。早く行くぞ」
チェスワフはリリアナの腕を引っ張っていこうとしたのだが、彼女はギューッと腕を引っ張り返して動かなかった。
「……おい」
「お願い、先生! これがとっても気になるの」
彼女が指差したのは揚げチーズを挟んだサンドイッチだった。
大きなチーズに衣をつけてフライにした物。朝露に濡れるシャキシャキの野菜。それらをパンに挟んで一口。すると、フライから流れだす熱く濃厚なチーズの味わいが、パンと野菜に絡みついて絶妙な味を生み出す。
確かにこれは食べる価値のある一品だ。リリアナがまだ食べたことがないのなら、チェスワフも食わせてやりたいが。
「おまえ、あれだけ食っていたのに。これだけ重い物を食うのはちょっと……」
リリアナは今朝のパンだけの貧しい朝食も、量だけはたくさん食べていた。大人の男の量くらいは平気で食べていたはずだ。それなのに、ここでもまた食べるとは。
だが、ここでチェスワフははっとした。彼は心の中で自分がリリアナを引き取ることにした理由について思い返したのだ。
おれはこいつに飯ぐらいは食わせてやろうと思っていた。逆に言えば、飯だけはちゃんと食わせてやらないといけない。もしかしたら、こいつは前の家ではあまり満足に食べることが出来ていなかったのかもしれない。
チェスワフは勝手な妄想を膨らまして、勝手にリリアナを不憫に思った。今、彼の目にはリリアナがものすごく飢えているように見えていた。
「リリアナ、いいぞ」とチェスワフは財布を取り出した。
「こういう食べ物見るの初めてだし、一口だけでいいから食べてみたいの! 先生、半分っこすれば……。えっ? 今なんて言ったの?」
「食べていいぞ、リリアナ。二個か三個か?それじゃ足りないか。五個いっておこうか。親父、それを五個くれ」
店の親父が威勢の良い返事をしながら、揚げチーズのサンドイッチを包み始めてくれた。
「……先生っ! 私五個も要らない!ほんのちょっとでいいの、味を確かめてみたいだけで……」
「遠慮するな。弟子に腹を空かせるような師匠にはなりたくないんだ。さあ、食え。おれのためだと思って、思う存分食うんだ!」
「嬢ちゃん、いい師匠を持って幸せだなあ」
親父が大人の足のサイズほどもあるそれを次々と渡してくれた。彼女ならペロリと平らげるだろう。チェスワフはお腹いっぱいなので一つもいらないが。
「……はい、ありがとうございます」
リリアナは大人しくうなずいて食べ始めた。彼は満足して必死にサンドイッチを食べる彼女を見た。その様子は心苦しそうだ。決して腹が苦しいわけではないはずだった。
結局、リリアナはサンドイッチを一つしか食べることが出来なかった。まあ、余った分は昼食と夕食にすればいい。チェスワフがそう言うと、なぜか彼女はうんざりした様子だったが。
「チーズなんて当分は見たくないわ……」
どうしたんだろうか? 美味しくなかったのだろうか。
カレフ橋を渡って学校方面への路面電車を待つ間、リリアナは魔法学校への考え、もとい妄想をチェスワフにぶちまけてくれた。よほど学校に行くことが出来るのを楽しみにしていたらしい。その妄想は少年少女に大人気なペーパーブックばりのストーリーだった。
「私まだ魔法学校がどんなところなのか見たことないわ! ねえ、先生! どんなとこなの? 広い? きれい? それともやっぱりボロボロで、蝋燭の灯りと魔法の煙なんかが立ち込めているのかしら。それで真っ黒なフードをかぶった魔法使いたちがかわいそうな仔羊の生け贄なんかを使ってすごい儀式をしているのね。当然それはやってはいけない恐ろしい魔法なのよ。道に迷って偶然それを見てしまった私は悪の魔法使いたちと戦いを繰り広げるんだわ! 私は先生に習った魔法で敵を倒していくんだけど、とうとう敵に追い詰められてしまうの。先生は事情があって助けに来てくれなくて大ピンチ。頼りにならない先生ね。でも、クラスでいつも私に嫌味を言う男の子がそこで突然現われて……」
「現われてどうなるんだ?」
「彼が言うのよ。『世話が焼ける子だな、まったく……』って! くーっ! かっこいいでしょ!? そこから魔法学校の秘密を巡る戦いと二人の恋物語が……!」
「電車が来たぞ」
かわいそうなくらい暴走気味でとんでもなく勘違いしてしまっている妄想を、チェスワフはそこで打ち切った。一山銅貨何枚の冒険物語なんてこれ以上聞いていられない。こっちのほうが恥ずかしくなってくる。
だいたい、頼りにならない先生っておれのことか? なんで師匠じゃなくてクラスメイトがピンチのときに現れるんだ? 普通逆だろう。彼はそう突っ込もうとした。
だがそうはせずに、代わりにリリアナの話を頭の中のメモ帳にしっかりと記しておくことにした。
彼女が現実の魔法学校に通ってしばらくしたときに、この話を持ちだしてやるとしよう。自分がどれほどこっ恥ずかしい妄想を人前で繰り広げていたのかを教えてやるのだ。ペーパーブックの魔法少女まるパクリで、彼女自身を主人公にしてしまった痛々しい妄想をしていたことを思い出させてやる。
チェスワフはそのときのことを考えると思わず口の端が上がってしまった。
実に楽しみだ。頭の中がお花畑の弟子を持つのは悪くない。
そんなチェスワフの考えもつゆ知らず、リリアナはわくわくとした様子で路面電車から流れる街の景色を眺めていた。
外にはこの街の名物である赤屋根の建物が続いている。どの建物の壁も赤茶色のレンガだったり、灰色の石や白い漆喰塗りで、どれも赤屋根の色合いと調和している。それらに、ベランダに飾られた花や店先の街路樹が彩りを加えている。
路面電車が通る幅の広いこの通りでは、そういった建物がお行儀よく並んでいた。春の陽光がそれらに明るい日差しを投げかけていて、古ぼけた街並みはどうしてか光り輝いて見えた。街ののんびりとした空気のせいかもしれない。
石とレンガと赤屋根で出来た、たくさんの魔法使いが住むおとぎの街。
路面電車は様々な店が並ぶ通りに入った。
朝からやっているカフェや土産物の店。パン屋はもう一番忙しい時間は終わったのかのんびりとしている。きちんと本を軒先に並べている生真面目な古書店に、見るからにやる気のない家具屋。古色蒼然としたホテル。彫刻で縁取りされた壁の一部にはこの街の紋章が描かれている。その前では観光客が地図を片手にキョロキョロと周りを見ている。石畳の通りにはゆっくりと仕事に向かう人や、カフェの木椅子に座って午前中からのんびりとパイプの煙をくゆらせる魔法使いがいた。平和な毎日を送る人々。
チェスワフは子どもの頃、こういう変化のない平坦そうな人生をむやみに嫌っていたが、研究と冒険の日々を一人で過ごしているとたまに羨ましくなるときがあった。
楽しそうに街並みを見るリリアナとぼんやりと眺めるチェスワフ。彼はふとこの子はどういう人生を送るのだろうかと考えてしまった。いつまでもこの好奇心を忘れずに人生を楽しんでいくのだろうか。それとも日々の生活に疲れている、どこにでもいるようなおばさんになってしまうのだろうか。
チェスワフはそんな自分の考えに苦笑してしまった。引退した爺さんじゃあるまいし、おれの人生だってまだ始まったばかりなのに、何を年寄り臭いこと考えているんだ?
一人でいた時間が長すぎたのかもしれない。
ハヴェルのような友人が少ないながらもいたが、派手で危険で吟遊詩人に歌われるような冒険の旅から帰っても家には誰もいなかった。研究者になって学院に所属するようになってからは、なんとなく彼の方でアマーリアとの間に壁を感じていた。もちろん、向こうはそんな気はなかったのだろうが。研究室に行っても話す相手はキーツ教授くらいだった。
チェスワフは飽きもせずに窓から顔を出すリリアナを見た。観光客に向けて手を振っている。彼らは春の太陽に照らされたリリアナの笑顔を見たのか、いい笑顔で手を振り返してきた。彼女は周りの人を明るくさせる特技でも持っているのかもしれない。
「先生、あの人たち挨拶を返してくれたわ!」
「わかったから、顔を引っ込めろ。もうすぐ学校に着くから」
リリアナはうなずくとお行儀よく座り直した。が、膝の上で揃えた手はうずうずと動いている。
「ほら、あれが魔法学校だ」
ドラホミール魔法学校の正門が見えてきた。




