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三章 おとぎの街とドラホミール魔法学校

 リリアナとの師弟生活の二日目。


 チェスワフはリリアナを叩き起こしてテーブルにつかせると、パンを焼いただけの朝食を出した。


 リリアナはこうすれば魔法でもっと食べ物が出てくるはずだというように、トーストが一枚乗っかっているだけの皿をじっと見つめた。


「……これだけ?」


「これだけだ」


 昨夜ご馳走をお腹いっぱいに食べたはずのリリアナの声は、何日も食べていないかのように哀れっぽいものだった。


「卵は? ソーセージは? サラダは? こんなんじゃお腹いっぱいにならないわ……」


「食べたかったら自分で作れ。おれはもう仕事に行く」


 チェスワフはいつもより早めに仕事に出かけて、研究のスケジュールをいくらか前倒しにしようと思っていた。リリアナのための買い物をいろいろとしないといけなかった。リリアナが今着ているパジャマだって昔のチェスワフが着ていたもので、手が袖に隠れてしまっているのだ。それに魔法学校への入学手続きも、できれば今日のうちにとってやらないといけない。そのためにしっかりとした朝食が作れないことぐらいは許してもらいたかった。


 まだ寝癖がついたままのリリアナに対して、チェスワフはすでに仕事に出かけるいつもの格好に着替えていた。黒いスラックスに白いシャツと細身のネクタイ。焦げ茶色の革靴。それに膝丈でフード付きの灰色のローブを羽織るだけだ。


「じゃあ、行ってくる」


 チェスワフは玄関に向かおうとしたが、返事がないのが気になって振り返った。すると、リリアナはキッチンの食料棚を漁るのに夢中だった。


「……リリアナ」


「……えっ? あっ、えーっと、い、行ってらっしゃい、チェスワフ先生!」


 リリアナは慌ててチェスワフのところへくると、チェスワフの顔に頬を寄せるようにして背伸びをしてきた。


「……何やってんだ?」


「えっ? 行ってきますのチューよ?」


 さも当たり前のように言われたが、チェスワフの眉間の皺は一気に深くなった。


「そんなことやってられるか」


「えーっ! 別にみんなやってることじゃない。アマーリア先生の家にいたときも、先生がお仕事に出かけるときは絶対やってたもん」


「うちで暮らすなら覚えとけ。我が鷹の家門にそんな習慣はない。行ってきますのキスも、お帰りのキスも、もちろんおやすみのキスもなしだ」


「チェスワフ先生は師匠としなかったの?」


「さっさと寝ろの拳骨なら何度ももらった。やつが女と遊んで朝帰りしたら、おれは蹴りを入れてた。麗しき我が家の伝統だったな。せっかく新しい弟子が来たんだから、復活させようか?」


 リリアナがびくっとして一歩あとずさるのを見ると、チェスワフはやれやれと首を振って玄関に向かって歩き出した。しかし、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さなつぶやきが背中越しに聞こえてきた。


「……お母さんもしてくれたのに」


 その声の響きにチェスワフは一瞬立ち止まりかけたが、どうしようか迷っている間に、またリリアナはキッチンに引っ込んでしまった。しかたなくそのまま家を出たが、玄関のドアはいつもよりも重く感じられた。


 チェスワフは胸の中にモヤモヤするものを抱えながら、最寄りの停留所まで歩いていった。そこで、おもちゃのように鮮やかな色と曲線を帯びた作りの路面電車に乗る。しばらく電車に揺られながらレンガと石で出来た街並みを通り抜けると、ブカレスク魔法学院の尖塔が見えてきた。美しく複雑な構造を持つ尖塔はこのおとぎの街のシンボルの一つだ。チェスワフの職場である合同研究室は魔法学院の一角にあった。


 チェスワフは学院の前の停留所で路面電車を降りた。この時間はまだ学生も研究者も少ない。学院の門へと続く大階段を上って、荘厳な偉容を誇るアーチをくぐり抜けた。シンボルである尖塔とは趣の違うアーチだ。この学院の歴史は古く、学院内の建築物の時代もばらばらだ。


 チェスワフは十五歳のときにドラホミール魔法学校を卒業すると、このブカレスク魔法学院に入学した。しかし、途中で莫大な学費が払えなくなって、三年間通い続けることなく退学してしまっていた。


 本来ならばチェスワフのような正式な魔法研究者になるには、ブカレスク魔法学院を卒業したあとに研究員助手という下積みを数年間やる必要がある。彼らは研究員の下で馬車馬のように働かされることになるが、自分自身の研究はハードな仕事の合間を縫って進めなければならない。そうして完成させた研究論文や学者としての能力を学会に認められることで、ようやく正式な研究員としてそれまでよりも高い給料と、自分のためだけの時間を手に入れることができるようになる。ついでにちょっと出世すれば、馬車馬も手に入れることができる。


 学院の卒業資格を持たないチェスワフは少し特殊な方法で研究員になった。とある冒険の旅に出かけて発見したことを論文にまとめて、それを学会に応募したのだ。その内容は歴史的な発見だと重鎮たちに認められ、彼は馬車馬をやることなく正式な研究員になることができた。多くの研究者が涙交じりで思い返す下積みをすっ飛ばしたのだから、周囲の者が嫉妬して陰口を叩くのも無理はないのかもしれない。チェスワフが社交的で明るい性格だったなら状況はもう少し違っていたのだろうが、同僚からはいつもしかめっ面で付き合いにくいやつだといわれていた。


 チェスワフは魔法学院の中庭を通り抜けて、自分の職場である合同研究室に入った。彼のような若手はまだ自分だけの研究室はもらえない。専用の研究室がもらえるのは准教授や教授クラスの魔法使いだけだ。


 だがチェスワフと同じ若手のくせに、イグナーツは家柄とコネで個室をしっかりと確保していた。その前を通るたびに、チェスワフは魔法の術をぶち込んでやりたい気分になった。実際、一回か二回くらいはやったこともある。


 今はまだ朝の早い時間だから、チェスワフをわざとらしく無視したり、こっそりと指差してヒソヒソ話をする同僚の研究員たちはまだいなかった。


 合同研究室の中にいたのは一人だけ。キーツ教授だ。真っ白で豊かな口ひげをたくわえ、恰幅のよい体を居心地のよさそうな椅子におさめている。キーツ教授はときおり頭をつるりとなで上げながら、新着の論文を読んでいた。


 この教授ときたら少し変わっていて、自分だけの研究室がもらえるにも関わらずこの合同研究室で自分の仕事をしている。本人いわく、若い人と一緒のところで仕事をしたほうがやる気が出るのだとか。普通は目上の者が同じ部屋にいると息が詰まるものだが、キーツ教授にかぎっては人当たりのよい性格とその世話好きさでみんなに慕われていた。


 キーツ教授は長年コツコツと同じテーマに取り組んできた研究者で、その姿勢と人格は他の教授からも尊敬を集めている。彼とその薫陶を受けた研究者たちは、その学者としての姿勢と着実な実績から、穴熊の家門と言われる一門を形成するまでになっていた。キーツ教授はそんなことで偉そうには全然していなかったが、この合同研究室の長は彼だと誰もが認めていた。


 チェスワフもキーツ教授のことは尊敬している。魔法学院を退学してからの旅で得た発見を誰よりも認めてくれたのがキーツ教授なのだ。この研究室に推薦してくれたのも教授なので、チェスワフはこの人に頭が上がらない。


「チェスワフくん。今日はずいぶんと早いね」キーツ教授がいかにも好々爺といった感じの笑みを浮かべて言った。


「ええ。仕事を早く片付けようと思って」


「そうか。金色の魔女の研究は進んでいるかい?」


「いえ、実を言えばあまり……」


 金色の魔女の伝説はチェスワフが最近取り組んでいる研究だった。


 かつてドラホミールという大魔法使いがいた。彼は闇の魔物や闇の悪しき魔法使いと戦い続け、人々をその手から守った偉大な男だ。そのそばには一人の女の魔法使いの姿があった。それが金色の魔女だ。


 魔法使いにとって金色というのは闇の力を打ち祓う色。チェスワフも黄金で出来たゴブリンや悪霊に対する魔除けの魔法道具を少しだけ持っている。


 その魔女は闇に対する金色の魔力を操り、ドラホミールと共に敵と戦い続けたらしい。


 だが、ドラホミールが戦いだけでなく、魔法学校を設立したり、疫病に対する特効薬を発明した功績が目立っているためか、金色の魔女の伝説はあまり人々に知られていない。彼女に関する伝説や物語の資料があまりにも少ないこともある。そもそも実在するかわからない女性だったし、ドラホミールを引き立てるための作り話だと思われているので、これの研究に取り組む研究者は少なかった。


 ブカレスク魔法学院で金色の魔女について調べているのはチェスワフともう一人、イグナーツくらいのものだった。チェスワフとイグナーツが衝突するのはこのこともあるかもしれない。互いに自分の功績を争っているのだ。


 たぶん、昨夜のイグナーツが「研究は進んでいるのか?」と聞いてきたのはそれが理由だろう。


 正直に言えば、最近のチェスワフの研究はあまり進んでいない。やはりそもそもの伝承や資料が少なすぎた。


 そのことを気まずそうに告げるチェスワフにキーツ教授は励ますように言った。


「まあ、研究というのは一生涯をかけてやるものだ。それも自分だけで終わるものではないから、自分の研究が他の誰かの一助になると思ってやらなければならない。君はいろんなことを調べるのが好きなようだけど、しっかりと腰を据えて仕事をしなければならないよ」


 自分の欠点をやんわりと指摘されたチェスワフはちょっと恥ずかしくなった。


「……はい、わかりました。あー、そういえば教授にお話することが」


 チェスワフは弟子をとったことをキーツ教授に話すことにした。


 今後はリリアナのために仕事に支障が出る可能性があった。チェスワフの研究は彼が自分一人で好き勝手に進めているので誰に迷惑をかけるわけでもなかったが、合同研究室の長であり、自分を研究員に推してくれたキーツ教授には話を通しておくべきだった。一応、チェスワフの研究の経過や過程をチェックしているのはこの人だったからだ。


「実は昨日アマーリア先生から女の子を引き取りまして……。その子を弟子にすることにしました」


 キーツ教授はチェスワフの話に目を丸くして驚いた。


「これはたまげたな! 君が弟子をとるだなんて思いもしなかった。いや、うん素晴らしいことだ。ほう、チェスワフくんが魔法使いの師匠になるとはねえ」


 キーツ教授は何に感心しているのかしきりにうなずいていた。


「そういえば、今日はチェスワフくんの機嫌も良いみたいだね」


「は?」


「眉間の皺がいつもより緩んでいる」


 チェスワフは思わず自分の眉間に手をやってしまった。そんな彼の様子を見てキーツ教授が笑い声を上げた。


「君の機嫌はそこを見ればだいたいわかるんだよ」


 チェスワフはキーツ教授の言葉にまた恥ずかしくなってきてしまった。アマーリアには「チェスワフくん、しかめっ面をするのはやめなさい。人が寄ってこなくなるわよ」とよく注意されていたが、彼は全然気にしていなかった。これからはちょっとだけ注意しよう、と彼が思っていると、キーツ教授が言った。


「ところで弟子をとったということは、君、いろいろとやらなければならないことがあるのではないかね?」


「はい。ですから早めに来て仕事を片づけようと……」


「いやいや、もう今日は仕事なんかいいから、弟子のためのことをやってあげなさい」


「は?」


「魔法使いが何よりも優先すべきは仕事なんかじゃなくて、弟子だよ、弟子。自分の魔法の術を伝え、魔法使いが何たる存在であるかを教え、ときには弟子に名前をつけて誇りを授けてやる。そして自分の弟子を、命をかけて守り育てる。それが魔法使いの師匠だ」


 クソジジイは、おれのことをいつもクソガキと呼んでいたし、自分の夜遊びや女にいつも夢中だったけどなあ、とチェスワフはぼんやりと思った。あのクソジジイがおれのことをほっぽり出して家を空けるなんていつものことだったぜ。


 だが、キーツ教授の魔法使いの師弟に関する意見はそうではないらしい。後進の者を育てることに関してキーツ教授は一流の魔法使いだったから、その言葉には重みがあった。


 キーツ教授はしきりに「今日はもう帰りなさい」とチェスワフに勧めていた。その勢いに負けてしまってチェスワフは首を縦に振ってしまった。確かにリリアナのためにやらなければならないことはまだたくさんあったのだ。


 そんなわけで、チェスワフはキーツ教授の言葉に甘えて今日は仕事を休むことにした。彼がキーツ教授に礼を言うと、教授は手を振って「いいから、いいから」と答えるだけで、全然気にしていない様子だった。むしろチェスワフが弟子のために何かをするということを嬉しがっているように見える。


 チェスワフが合同研究室を出ようとするときもキーツ教授はまだ感心したように、うんうんとうなずいていた。もしかしたら、チェスワフが人のために何かをするところを見るのが、それほどめずらしかったのかもしれない。


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