二章 青狐イグナーツの忠告といわくつきのリリアナ
魔法使いとしてリリアナを弟子にすることにはなったが、チェスワフには厄介なことなんてほとんどなかった。魔法の修行をつけてやる必要はないのだ。彼はリリアナに飯を食わせてやるだけでいい。
飯を食わせてやるだけ。彼がリリアナを弟子として引き取ることにしたのも、そのことがあったからだった。この子に飯と住むところがないのなら、それくらいは自分が世話してやろうと思ったのだ。
彼がクソジジイと呼ぶ師匠マレクがかつて自分にそうしてくれたように。
リリアナとチェスワフが名乗りあったあと、彼女を連れて学部長室を出ようとするチェスワフにアマーリアが声をかけた。
「リリアナはマレクのことをほとんど知らないわ。その子には何も聞かないであげてね」
チェスワフはわかりました、とうなずいた。この女の子がどこまでマレクと関わっているかはわからないが、アマーリアを信じると決めたのならば、彼女の言葉には従うべきだった。
それから、アマーリアが祝福を授けるようにチェスワフに言葉を贈った。
「あなたもリリアナを愛してくれるようになることを願っているわ」
チェスワフはリリアナの金髪のつむじを見下ろした。
おれがこのガキを愛する、か。それが普通の魔法使いの師匠なんだろうが、おれにそんなことが出来るとは思えない。
「それと忘れないで。マレクは確かにあなたを捨てたろくでなしだったけど、人でなしではなかったわ。あの人はあなたのことを愛していた。チェスワフ。あの人が与えてくれた素敵な名前を忘れないでね」
チェスワフはそれには答えなかった。アマーリアの言葉は嘘だと思った。
今、チェスワフは学部長室からそのまま、リリアナを自分の一軒家にまで連れて来ていた。そして、部屋を案内してやっていた。
「チェスワフ先生はこの部屋をマレクさんの弟子だったときに使っていたの?」
「そうだ。生みの親と離れて、この家にやってきた五歳の頃から八年間、ずっと使っていた。十三歳の春に、クソジジイはこの家を出て行った。理由はわからない。おれはそのあともこの部屋を使っていたが、しばらくしてからあいつの部屋に移ることにした。そのときからこの部屋はずっと空き部屋だ」
チェスワフは二階の小さな部屋をリリアナに与えることにした。ここはチェスワフが言うところのクソジジイが、彼に与えてくれた部屋でもある。
チェスワフはかつての自分の部屋を見回した。部屋にあるのは机とベッドだけで、あとは何も入っていないクローゼットがあるくらいだ。どれも少しかび臭くて埃っぽかった。
特に用があるわけでもないので、この部屋に入るのは久しぶりだ。自分が弟子のときに使っていた部屋を、今度は自分の弟子に譲り渡すことになるとは思いもしなかった。
何気なく机を撫でたことで、チェスワフは弟子時代のことを思い出してしまった。
師匠のマレクは文句なしのろくでなしだった。女にだらしなく、酒飲みで、ギャンブル好き。どこをとっても徹頭徹尾のクソジジイ。チェスワフはそんな男にいつも振り回されて苦労させられていた。師匠のトラブルの尻拭いをする弟子がどこにいる? そんなのはチェスワフぐらいのものだ。
おまけに、マレクの魔法修行は普通とは違って、机の上でやるような上品なお勉強ではなかった。チェスワフはいつもボコボコに傷めつけられ、体で魔法の使い方を覚えさせられた。その度に、いつか絶対に仕返ししてやると固く誓っていた。
だがそれを果たす前に、クソジジイはこの家を突然出て行った。チェスワフに何も言うことなく。
くそったれ、どっかでくたばりやがれ、とチェスワフは小さくつぶやいた。
嫌なことを思い出してしまった彼は、何かを聞きたそうにしているリリアナに注意を向けた。そうすると、彼女は遠慮がちに彼に向かって聞いてきた。
「ねえ、本当にこの部屋を私一人で使ってもいいの?」
「ああ、いいぞ。こんなボロ部屋に何を遠慮しているんだ?」
「ご飯を食べさせてもらったり学校に行かせてもらえる上に、部屋までもらえるなんて思ってなかったから……。だから、とっても嬉しいわ。チェスワフ先生、ありがとう!」
リリアナは自分の気持ちを言うと、感謝の気持ちを表そうと思ったのか、いきなりチェスワフの体に腕を回して抱きついてきた。自己紹介するまではあんなにもチェスワフに怯えていたというのに。ちょっと気分の上下の激しい子なのかもしれない。
だが、チェスワフは誰かにベタベタされるのは好きではなかったから、リリアナを無理やり振りほどいた。彼女には不満そうな顔をされたが、こういうのは始めが肝心だとチェスワフは思っている。
まあ実を言えば、チェスワフも自分の使っていた部屋を彼女に喜んでもらえて嬉しかったのだが。
家に突然やってきた弟子のためにやるべきことは、部屋を案内することだけではなかった。
まず、部屋の掃除に、荷物の整理。この部屋の家具や、リリアナの身の回りのものも揃える必要があった。
何よりも、リリアナが通うことになるドラホミール魔法学校のものを揃えてやらねばならない。
今は四月の下旬。その魔法学校の新学年は四月の最初にもうスタートしてしまっている。リリアナは十三歳ということだったから、一年生になる。まあ、数週間遅れて入学するくらい問題ないだろう。彼女はこれから三年間も魔法学校に通わなければならないのだから、数週間の差なんて大した問題じゃない。そこを卒業したあとに専門職につくか、それとも今度は魔法学院に学生として三年間行くかを選ぶのはリリアナの自由だ。
「リリアナ、学校のものを揃えなければならないんだが。アマーリア学部長に何か買ってもらったか?」
「制服は買ってもらったわ。仕立ててもらったから、あとはお店に取りに行くだけ。魔法学校の制服ってかわいいのね。私気に入ったわ!」
制服を買ってやる暇があったら他の物もついでに買っといてくれよ、とチェスワフは口には出さずにアマーリアに不満を言った。
彼は学校の制服に喜ぶリリアナを無視して、必要なもののリストを作ることにした。
筆記用具、教科書。魔法道具は必要になってからでもいいかもしれない。制服はある。靴やローブも揃っているだろう。
紙にいろいろと書き出したチェスワフを見て、リリアナは言った。
「先生、杖は? 魔法使いの杖は?」
「……杖か」
チェスワフはちょっと考えこんでしまった。
魔法使いの杖は高いのだ。他のものを揃えるとなると、今の彼の懐には杖の出費がかなり痛い。
一人前の魔法使いなら杖がなくても魔法を使うことは出来る。呪文や手振り身振り、踊りのようなステップを足で刻んだり、空中に魔法で文字や魔法陣を描くことで、魔法の行使は可能になる。杖にあらかじめ魔力を貯めこんだり、呪文を仕込んでおけば便利ではあるが、どうしても必要というものではない。
だが、杖は未熟な魔法使いを支える道具でもあった。魔法の基礎が出来ていない内は、子どもたちは杖の魔力を操作する力で自分の魔法を操ることを学んでいくのだ。
だから、まだ魔法の基礎が出来ていないリリアナには確かに杖が必要だった。
チェスワフには金がない。アマーリアに借りるなんてみっともないことは出来ない。彼女から紹介されたとはいえ、リリアナは自分の弟子なのだ。研究員の仕事で大きな金が入る予定はなかったし、副業として魔物退治や魔法使いギルドの仕事も考えられたが、引き取ったばかりのリリアナを置いて家を出るのは気が引けた。
しばらく悩んでいたチェスワフだったが、やがてあることを唐突に思い出した。
チェスワフは、自分がかつて使っていた部屋でもあり、今はリリアナの部屋でもある、この子ども部屋のクローゼットを開けた。中に入り込んで頭の上の天井板を外す。天井裏を見ると、そこにはとんでもない量の埃をかぶった長い包みがあった。ちょうど子どもの身長くらいの長さで、ボロボロの布はネズミにかじられてしまったのか、あちこちが破けていた。チェスワフは苦労してそれを取り出すと、騒ぎ立つ埃にむせながら包みを開けた。
現れたものは魔法使いの杖だった。古くて手垢まみれでボロボロの長い杖だ。最近流行の短くてスラリとした杖とは違う。
チェスワフはそれがこの部屋にあることなんてすっかり忘れていた。というより、忘れようとしていた。彼はその杖の表面を撫でて、手に持ってみた。チェスワフの手は杖の握りには大きすぎて、サイズがまるで合っていなかった。
「あー、これってこんなに小さかったのか。ガキの頃はデカく感じられたけどな」
「先生、どういうこと? なんであんなとこに魔法の杖が隠されてたの? はっ、まさか秘密の力を持つすごい杖……」
そんなわけあるか、とチェスワフはリリアナの興奮した様子に苦笑した。
「これはおれがガキの頃に使っていた杖だ。おれはこいつをマレクからもらった」
「チェスワフ先生の師匠から?」
「ああ」
チェスワフは昔のことを思い出した。幼い頃、ピカピカで最新型の杖をせがむ彼に、マレクは「うるせえ、クソガキが」と言って、これをポンと投げてきたのだ。それ以来、チェスワフはいつもこれを使って一生懸命に魔法の修行をしていた。
だが、マレクがこの家を出たとき、十三歳のチェスワフはこの杖を天井裏へと隠して、それ以来二度と使うことはなかった。大人の魔法使いなら、杖がなくとも魔法は使える。チェスワフは早くそうなりたかったのだ。チェスワフにとって、自分を捨てたマレクが渡してきた杖を封印することは、幼少時代との決別でもあった。
だが今、チェスワフはこんな形でかつての自分の杖を見ることになるとは思わなかった。リリアナが弟子として家にやってきたことで、杖とそれにまつわるマレクのことを思い出すことになろうとは。チェスワフの口の中に苦いものがこみ上げてきた。それを抑えながら、彼はリリアナに杖を手渡した。
「ボロボロでダサいけど、しばらくはこいつで我慢しな。金が入ったら、新しくてかっこいいやつを買ってやるから」
「……ううん、これでいいわ」
「何だ、金のことでも心配しているのか? ガキがくだらないことを考えるな。ゴブリン退治でもすれば、銀貨や金貨が……」
「先生、そうじゃないの。私、この杖がいいの」
「は?」
何を言ってるんだ、こいつは? チェスワフの眉間に皺が刻まれた。遠慮の言い訳としちゃ最悪だ。こんなひどい杖がいいだなんて。
チェスワフはそう思って口を開こうとしたが――。
「だって、これはチェスワフ先生が師匠からもらったものなんでしょ? それで先生はこれをいっぱい使ったのね。木がすり減って手の形が残ってる。師匠の杖を弟子が受け取るなんて、いかにも魔法使いっぽくてかっこいいじゃない! 私、チェスワフ先生が使っていたこの杖で魔法の修行をしたい! 確かにちょっと古いけど、これはかっこいい杖だわ!」
チェスワフはまたマレクと、この杖のことを思い出した。小さいチェスワフはこの杖をいつも大事にしていて、常に持ち歩いていた。風呂にまで持って行こうとして、「馬鹿なことすんじゃねえ」と、マレクに拳骨をもらったほどだ。だが、チェスワフはこの杖をマレクからもらえたことがそれくらい嬉しかったのだ。杖がマレクとの間の何かの証みたいな気がしていた。
そんな杖をリリアナは欲しいと言う。
ニコニコと笑うリリアナに、チェスワフは「好きにしな」と言って背を向けた。
その日の夕食は外食にすることにした。
リリアナと二人で部屋の掃除をしていたら、すっかり日が暮れてしまったのだ。今から夕食を作るのは面倒だった。
チェスワフにくっついてリリアナが家を出ると、彼女はあるものに気がついた。
「先生、これは何?」
リリアナが指差したのは、家の玄関脇についている家紋だった。鷹の意匠のデザインだ。
「ああ、それはうちの家門の紋章だ」
「家門?」
「魔法使いというのは師弟関係を築いて、家門を形成することがある。師匠を親、弟子を子、というふうに位置づけて、兄弟弟子、孫弟子、なんて呼んでな。まあ、家門というのは魔法使いの家族みたいなものだと考えればいい。それぞれの家門を示すのがこういった紋章だ。歴史のある家門には必ずついている」
家門は古い時代には絶対的な力を持っていた。魔法使いになるには必ずどこかの家門に所属して、魔法を学ばなければならなかった。そして、属する家門によって地位や出世が決まったのだ。
だが、今はもうそういう時代ではない。魔法学校に行くだけで魔法使いになるには十分な教育を受けることができる。多くの魔法使いはそうしている。とはいえ、家門の影響力はまだあちらこちらに残っていた。職業、出世の早さ、豊富な人脈と金の匂い。どの世界にも、いつの時代にもあるお決まりの話だ。
鷹の紋章をじっくりと見ていたリリアナは何かに思い至ったように声を上げた。
「これは鷹の紋章ね。あ、だから、先生は灰鷹のチェスワフって名乗ったの?」
「そうだ。うちは鷹の家門と呼ばれている。だから、おれには灰鷹という二つ名がついているんだ。他にも狐の家門の青狐、なんて二つ名もある」
そう言って例を挙げたチェスワフは、嫌な名前を言ってしまったというように、ぐっと眉間に皺を寄せた。どうやら青狐という二つ名がついている人物に対して、何か思うところがあるらしかった。
リリアナはチェスワフの言葉をふんふんとうなずいて聞いていたが、何か疑問があったらしく、あれ? と首をかしげた。
「うちにも紋章がついているってことは、チェスワフ先生も私も歴史のある家門の魔法使いってことになるの?」
素朴な疑問をぶつけてきたリリアナにチェスワフは苦笑混じりに答えた。
「さあ、どうだろうな。昔からあることは間違いないが、別に名はそれほど知られていない。代々の魔法使いたちがどんな仕事をしてきたのかもわからないしな。それに、今のうちにいる魔法使いは、マレク、おれ、おまえだけだ。一応当主であるクソジジイは行方知れずだし、おまえは半人前もいいところだ。鷹の家門は落ちぶれているさ。この家のボロさを見ればわかるだろう?」
チェスワフの言葉にリリアナは自分が住むことになった家を見上げた。古くてボロボロの赤レンガの家。歴史があるなんて言えば聞こえはいいが、赤レンガは黒ずんで元の色がわからなくなっているし、壁は少し崩れかけている。手入れする暇がないので、庭は荒れ放題だ。
だが、リリアナはそんなひどい状態の家を見て、王様のお城に住むことになったかのように、にっこりして言った。
「ボロ家だなんて、そんなことないわ。とっても素敵な家よ。今日からここが私の家なんだもの!」
「そうか」とチェスワフはわざと素っ気なく答えたが、内心は彼女に同意していた。
彼がマレクに引き取られた五歳の頃から過ごしている家なのだ。マレクが出て行ってから、彼はこの家で一人暮らしてきたが、アマーリアや友人たちはよく様子を見に来てくれていた。
ここは素敵な家だ。




