一章 2
七年前からずっと行方知れずのマレク。ガキだった自分を見捨てたクソジジイ。
予想外という言葉では足りないほどの衝撃をチェスワフは受けた。頭がバラバラになって、それからあちこちに散らばってしまったかのようだった。得体の知れない感情がそれらをかき乱した。
「マレクが? クソジジイがどうして……。いや、それよりどういうことですか。アマーリア先生はあいつが今どこにいるのかを知っているんですか?」チェスワフは混乱した頭で言葉の欠片をなんとか舌に乗せた。
「ごめんなさい。それはマレクに口止めされているの」
「口止め? 事情も話さずに勝手に家を飛び出した男がよりにもよって口止めだって? あの野郎、なめてんのか。アマーリア先生、あいつの口止めなんかどうでもいい。話してください」
チェスワフの目はアマーリアを敵であるかのように睨んでいた。
「いえ、出来ないわ。あなたは知らなくてもいいことよ」
何かを切り捨てるような冷たい口調だった。チェスワフに有無も言わせないつもりらしかった。刃物で切りつけられたかのような気がした。
チェスワフの顔からさっと血の気が引いた。それから、潮が一旦引いて津波となって戻ってくるように、すさまじい感情が襲ってきた。
――アマーリア先生、あんたはおれの味方じゃなかったのか?
突然、沸騰したかのような怒りが腹の底から湧き上がってきた。それとともに、無意識の内に熱い魔力がチェスワフの体内で膨れ上がった。そして、彼の頭の片隅で何者かがつぶやいた。
――この女は七年前にさんざんおれを慰めたくせに、今は裏切るつもりらしいぞ。
誰かが勝手にチェスワフの引き金を引いたみたいだった。銃が持ち主の手を離れて暴発したかのように、チェスワフの手から魔力の塊がアマーリアに向かって放たれた。
「馬鹿な子ね」
だが、魔力の暴走がアマーリアにぶつかることはなかった。
「感情を抑えられずに魔力を暴発させるなんて、魔法学校の子でもほとんどしないわよ?」
アマーリアは手を軽く振っただけで、チェスワフの激しい魔力の放出を散らしてしまっていた。まともな術にされていないただの魔力の塊は、強力な魔法使いである彼女にはほとんど無意味だった。
それを見チェスワフの頭の中で怒りが、体内で魔力が、それぞれ急にしぼんでいった。魔力を怒りと一緒に放出してしまったチェスワフは、呆然とアマーリアの前に立ち尽くした。
チェスワフは我を取り戻していた。
おれはこの人に何てことをしてしまったんだ? 彼女はおれの恩人だぞ――。
激した感情が消えて、激しい後悔がチェスワフの心に湧いて出てきた。
アマーリアはそんなチェスワフの様子に気づいた素振りを見せずに言った。
「まったく。気をつけなさい。リリアナにぶつかったらどうするつもりだったの?」
それまでチェスワフの目には全然入らなかったのだが、部屋の隅で少女は体を震わせて怯えていた。それに気づいたチェスワフの心に、次は恥じ入る気持ちがどっとやってきた。
……ガキをびびらせるなんて、おれは何をやっているんだ。
チェスワフはその場によろめいたように膝をついた。アマーリアに向けて、取り乱したことを悔いたように頭を垂れる。自分がどうしようもない人間であるかのように感じられた。アマーリアに軽蔑され見放されることが恐ろしかった。
そして、彼は自分の行いの許しを乞うた。これは魔法使いの作法の一つだった。
「アマーリア先生、おれはとんでもないことをしてしまった。自分の名の誇りと、あなたの名に対する敬意を忘れてしまったらしい。……馬鹿なことをしたおれを許してください」
「いいえ……。あなたが謝る必要はないわ。本当に謝らなければならないのは私の方。立って、チェスワフくん」
差し出されたアマーリアの腕をとってチェスワフは立ち上がり、彼女の顔を見た。その顔にはチェスワフの感情に似たものが浮かんでいた。恥と後悔と――、後ろめたさ?
「七年前は私もあなたと同じように、マレクが街から消えた理由を知らなかった。でも今はそれを知っている。数日前にマレクが家にリリアナを連れてやってきたときに、あの人が事情を話してくれたの。七年前の事情とリリアナをあなたに預けることにしたわけを」
「……でも、それを話すことは出来ない、と?」
「ええ……。もちろん、私はあなたのマレクに対する思いを知っている。知った上で、そう判断したの。マレクに口止めされたからというだけではないわ。マレクも私もあなたに隠し事をしているのには理由があるのよ」
チェスワフは何も言わずに、アマーリアの顔をただ見つめるだけだった。どう反応するべきか戸惑っていたのだ。
理由があるのよ、とアマーリアは言った。マレクがチェスワフに何も伝えようとしないことについてそう語ったのだ。
理由って何だよ……、とチェスワフは胸中でこぼした。何で、先生もクソジジイもおれに何も話そうとしないんだ?
だが、それを考えるチェスワフの心にもう怒りはなかった。そこには迷いがあるだけだった。つまり、アマーリアを信じるか信じないかという迷いだ。
アマーリアが話せないと判断したことならば、それは確かにチェスワフが知る必要のないことなのだろう。彼女とは長い付き合いだったし、その判断はいつも人のことを一番に考えた上でなされるものだと、チェスワフは知っていた。たぶん今も、アマーリアはチェスワフのことを実の弟であるかのように考えてくれているに違いなかった。
長い間、チェスワフはアマーリアのことを考えていた。そして、決断した。
「わかりました。もうマレクのことは聞きません」
チェスワフはアマーリアのことを信じることにしたのだ。マレクが幼いチェスワフに何も告げずに失踪したとき、泣き喚く彼を抱きしめてくれたアマーリアの温かさをチェスワフは思い返していた。それから彼は、彼女が荒れていた自分のことを常に心配してくれたことも知っている。師匠に捨てられた鬱憤を晴らすかのように、向こう見ずなことに手を出す自分を、アマーリアが涙を浮かべながら叱ったことも思い出した。アマーリアはいつだってチェスワフのことを考えてくれていたのだ。
そんなアマーリアがマレクの事情について話せないと言うならば、チェスワフには否応もなかった。それには理由がある、という彼女の言葉と心を信じるしかなかった。
クソジジイのことなんざ今さらどうだっていいさ、とチェスワフは吐き捨てるかのように心でつぶやいた。あんな男のことを知りたがることで、おれはアマーリア先生を悲しませたくない。先生の涙なんてキツすぎるぜ。
その意思がアマーリアにも伝わったのだろう。そっと目を伏せると、小さな声で「ありがとう、ごめんなさい」とつぶやいた。
それを聞いたチェスワフはこれでよかったんだ、と自分の判断を確信した。一人前の男として、魔法使いとして、彼女を信じたことは正しかったのだ。
それで、マレクについての話は終わりだった。アマーリアもそれ以上は何も話すことはなかったし、チェスワフもそれで構わなかった。アマーリアはマレクの行方に対するチェスワフの感情を知っていた上で、それは話せないとチェスワフのために考えた。彼はそれを理解し、そんなアマーリアのことを信じた。お互いにそれが通じ合ったのだ。
しかし、弟子の話についてはまた別だった。
「アマーリア先生。マレクがどう関わっているかは知りませんが、やはりおれがその子を弟子にとるというのはちょっと……。自信がありません」
アマーリアはチェスワフを安心させるように微笑んだ。
「あなたならきっと大丈夫よ。それに、大したことはしなくてもいいの。マレクも言ってたわ。『飯を食わせてやりゃあそれでいい』って」
マレクの言葉を伝え聞いたチェスワフの頭に唐突に遠い記憶が蘇った。それは自分でも気づかない内にいつの間にか封印していた記憶だった。
『なんだ、クソガキ。行くところがねえのか。だったらうちに来い。飯ぐらいは食わせてやるよ』
チェスワフは五歳のときに実の親に捨てられていた。行くあてのなかった彼にマレクはそう言ったのだ。
なんで今こんなことを思い出す必要があるんだろうか。チェスワフの内に戸惑いと憎しみが入り混じった感情が湧いた。
それから、チェスワフは先ほどのアマーリアの言葉を思い返した。
『リリアナには保護者と住むところがないのよ』
何かがチェスワフの首をコクリと縦に振らせたみたいだった。彼は自分でもわけのわからない感情に押されて、いつのまにかアマーリアに対してうなずいてしまっていた。
「……わかりました、その子を引き取りしょう」
彼は学部長とのやりとりをビクビクとしながら見つめていた少女の方を向いて、しっかりとその青い瞳を見つめた。怯えるような瞳で見返してきた彼女に、自分の名前を告げる。
「灰鷹のチェスワフだ。今日からおまえの師匠となることになった。おれの言うことをよく聞いて、よく学べ」
少女は彼の名前を聞いても、まだ不安そうに突っ立っていた。チェスワフが見つめ続けることで彼女はやっと口を開いたが、その声は震えていた。
「はい、よろしくお願いします」
彼は怯える少女に向けてため息をつきたくなってしまった。
やれやれ、やっぱり礼儀から教えてやらないといけないのか。こいつは思ったより大変かもしれないな。彼はそう思ったのだ。
チェスワフはこの子どもに魔法使いの大切な教えの一つを授けてやることにした。
「おまえも自分の名を名乗るんだ。魔法使いにとって名前というのはとても大切だ。親に名づけられた自分の名前に誇りを、他人の名前に愛情と敬意を持たなければならない」
少女の青い瞳を覗きこむと、そこにはゆっくりと理解の色が浮かんでいった。
「さあ、おまえが灰鷹のチェスワフの弟子になるのであれば、自分の名に誇りを持って名乗れ」
彼の言葉を受けた少女の変化は驚くべきものだった。
緊張して強張っていた体からは力が抜けて、長い手足はしなやかになった。不安そうに怯えていた顔にはゆっくりと笑顔が浮かぶ。そして、青い瞳はきらきらと輝いて、それにともなって金髪までもがきらめくようだった。
輝くような笑顔を浮かべて、彼女は自分の名をはっきりと名乗った。
「私の名前はリリアナ。リリアナよ! 大好きなお母さんにもらった名前なの。お母さんは魔法使いじゃなかったけど、自分の名前には誇りを持ちなさいって、あなたと同じことを言ってたわ。よろしくね、チェスワフ先生!」
こうして、灰鷹のチェスワフと金髪の少女リリアナは出会った。
彼と彼女は互いに愛情と敬意を持って名乗りあった。それはとても大切なことだ。本当に、本当に大切なことなのだ。
なぜなら、それが魔法使いたちの真理であり、この世を動かす力の源なのだから。
そのことをリリアナは理解していた。自分の名は愛情を込められてつけられたのだと、愛する母親にもらった名前なのだと誇らしげに彼女は口にした。
しかし、このときのチェスワフは、自分に名を与えた師匠マレクの名をリリアナには出さなかった。




