九章 3
チェスワフの台詞を聞いても、テオドルの表情は変わることがなかった。これはチェスワフにはやりにくかった。というのは、虚勢を張ってはみたものの、チェスワフの体はすでに限界に近かったからだ。こうして立っているのもやっとなくらいだ。
リリアナを守るという想いで、いっときは魔力も今までにないほど体中に満ちていたが、イグナーツとの激しい戦いで今はほとんど残されていない。イグナーツを倒したことで、テオドルが少しでも動揺すれば付け入る隙もあるかもしれなかったが、やつの無表情からはその様子は全くうかがえなかった。
「鷹の魔法使いよ、最後にもう一度だけ聞こうか。その子を私に引き渡さないか」
「笑わせんなよ」
「そうか。君はどうだ、お嬢さん。こいつの元を離れて、私に弟子入りするつもりは本当にないのかね? 君には間違いなく偉大な魔法使いになる才能がある。歴史に名を残せる。富も名声も思いのままだ。いや、それどころか、魔法使いとして最強の力を手に入れることができるぞ。うちに来れば、私が直々にその金色の魔力の使い方を導いてやろう。君がその力を極めたとき、魔法使いの力の根源たる魔力の真理を知ることができるだろう。……どうかね?」
テオドルは離れたところにいるリリアナに最後の問いかけをしたが、彼女の返答ははっきりとしていた。
「お金も最強の力なんていうのも欲しくないわ。魔法使いの真理とかいうのも知りたくない。私はチェスワフ先生と一緒にいたい。私の師匠はチェスワフ先生だけよ」
「……そうか。ならば、話は決裂だな」
二階にいるテオドルの気配が膨れ上がった。狐の家門の当主の魔力の凄まじさは階下のチェスワフの肌を粟立たせた。
まずい。
彼の背筋に冷たいものが走った。
「鷹の魔法使いよ。イグナーツを倒した褒美だ。本物の狐火というものを見せてやろう」
テオドルの背後から青い炎が立ち上がったかと思うと、それは見る見るうちに膨れ上がり一つの巨大な形を作った。それは貪欲そうに炎の舌を垂れる狐の形をしていた。
「おまえの面構えそっくりだぜ、テオドル……」
チェスワフは口の端を歪めてみせたが、その声には焦りがあった。彼には敵の術の強大さが一瞬で理解できてしまったのだ。
この野郎、ここでおれを殺す気か。
テオドルの術からははっきりと殺意が感じられた。やつは自分が望む物が手に入らないと分かった今、殺人も法を犯すことも辞さない構えなのだ。この街で社会的にも経済的にも成功を収め、富と名声を手に入れたこの男の裏の顔は、裏社会に生きる者のそれと変わらなかった。
「おれを殺してどうするつもりだ? おれがここに来ていることはアマーリア先生が知っているんだ。おれを殺したら、政府の魔法管理局が黙っていないぞ」
「あんな連中は裏から手を伸ばせばどうにでもなる。今までもやってきたことだ。貴様を殺した後は、じっくりとあの子どもを教育してやることにしよう。」
テオドルは隅で様子をうかがうリリアナに粘ついた視線を向けた。
野郎、ふざけやがって。
傷ついたチェスワフの体に最後の力が込められた。
こいつは絶対にぶっ飛ばす。死んでも絶対にぶっ飛ばす。
チェスワフは今にも倒れそうな体に鞭打って、残された魔力の全てを足腰に込めた。魔力も体力もすでに限界だから長くは戦えない。チャンスは一度きり。テオドルの予想を超える攻撃で不意を突くしかない。
チェスワフは敵に魔力を打ち込んだ。テオドルの背後にいる炎の狐は、尾を打ち払ってそれを防ぐと同時に、燃え盛る牙をもってチェスワフに襲いかかってきた。
が、そのときにはすでにチェスワフは宙に飛んでいた。彼は自らの体に魔法をかけ、二階に向かって跳躍したのだ。テオドルの前に着地したチェスワフは地を蹴って突進した。驚きの表情を浮かべるテオドルの顔が眼前に迫る。
「うおおおおおおッ!」
床を踏みしめて足の力を上半身に送り、体全体を使ってその力を腕に伝える。拳を握りしめて真っ直ぐに腕を突き出す。
チェスワフの拳がテオドルの顔に叩きこまれた。チェスワフは確かな衝撃を拳に感じた。テオドルが白目を剥いて床に倒れこんだ。
が、そのときチェスワフは焼けつくような熱波を肌に感じた。
炎の狐が双眸から火の粉をまき散らしながら、チェスワフをにらんでいた。術を生み出したテオドルが倒れてもなお、その獣は葬るべき獲物を見据えていた。
チェスワフは動くことができなかった。魔力は尽き果て、酷使した足腰は自分のものでないように感じられた。意識が薄くなって、視界がぼやける。体を巡る魔力が枯渇したときにある現象だ。それ以上体を支えることができなくなって、チェスワフは膝をついた。
炎を上げながらゆっくりと近づいてくる巨大な狐が、暗い視界に入ってくる。思いっきりぶん殴ったテオドルが立ち上がるのも見えた。
荒い息をつくチェスワフの前に炎の狐が立った。狐が口を大きく開けると、銀色の炎で形作られた牙がずらりと並んでいるのが見えた。彼は手を持ち上げて魔法の障壁を張ろうとしたが、その手はばたりと落ちてしまった。
リリアナが自分の名を呼ぶ声がどこか遠くに聞こえた。チェスワフは視線をそちらへ向けようしたが、その前にテオドルが立ちはだかった。
「薄汚れた鳥公が。これで終わりだ。死ね」
テオドルが指を鳴らし、それを合図に炎の狐がチェスワフに襲いかかったその瞬間。
「よく頑張ったわね。かっこよかったわよ、チェスワフくん」
不思議な色に輝く魔法の障壁がチェスワフの前に現れていた。炎の狐の牙はその障壁に突き刺さっている。狐は四肢に力を込めて牙を抜こうとしたが、その体は凍りついたように動かない。
軽やかな声がチェスワフのそばから聞こえた。
「もう少し早く出てこようかと思ったけど、チェスワフくんが頑張ってるのがかっこよくって、思わず見とれちゃってたわ。あなたが弟子のために体を張ってるのを見て、泣きそうになっちゃった。強くなったわねえ」
「アマーリア先生……」
その場の殺伐とした空気を気にも留めていないかのように、アマーリアがチェスワフの隣に立っていた。その佇まいはこの殺し合いの場にあっても、普段とまったく変わることなく落ち着いたものだった。
「銀狐テオドル、少し調子に乗りすぎたわね。このツケは高くつくわよ」
突然のアマーリアの出現に、テオドルも術にかかったかのように凍りついていた。
「不老の魔女……。貴様、いつからいた……っ!?」
「いつからって、最初からいたわ。チェスワフくんが屋敷に入るところから。イグナーツくんと戦っているところもずっと見てたわ。あなた、チェスワフくんに気を取られて、私が姿を消しているのにまったく気がつかなかったでしょう。弟子を守るのは師匠の仕事だから、手を出さずにいたけど……」
アマーリアは魔法火で一瞬にして、空中に魔法陣を描いた。そばで見ているチェスワフの目にも、その動きはほとんど捉えることができなかった。
「さすがにやりすぎよ、テオドル」
アマーリアが描いた魔法陣は一つではなかった。炎の狐の体を固めるかのように、大小無数の魔法陣がその周りを取り巻いていた。凄まじいまでの早業だった。
「それとね、一つ言っておくけれど」
テオドルによって生み出された獣を取り巻く魔法陣が、グルグルと円を描いて回り始めた。それらの魔法陣からは、見る人の心臓まで凍らせるような魔力が放たれていた。
「私のことを不老の魔女と呼ぶのは敵だけよ。覚えておきなさい、銀狐」
炎の狐の燃え盛る体が足元から変化し始めた。炎によって形作られていたはずの四肢が冷たい石へと変わっていく。テオドルが雄叫びを上げて魔力を炎の狐に送り込んだが、その獣は身じろぎ一つすることができなかった。
形のない炎ですら石へと変えてしまうアマーリアの術は、見る見るうちに炎の狐の体全体に効果を及ぼしていった。チェスワフの眼前に迫っていた牙までもが、冷たい石像へと変えられていく。目を見張る彼の目の前で、ついに炎の狐は物言わぬ石像へと姿を変えてしまった。
不老の魔女、アマーリア。敵対する者からそう呼ばれる彼女の魔力とその術は、並の魔法使いとは一線を画するものだった。
それは権勢を誇る狐の家門の当主ですら例外ではなかった。
自らの術を破られたテオドルは片手を挙げて新たな術を紡ごうとしていたが、その手は途中でその動きを止められてしまう。テオドルが驚愕の視線を向けると、彼の手足は石へと変わっていた。瞬時にテオドルは口で呪文を唱えようとするが、その唇にもアマーリアの術は及んでいた。
「あらあら。あなたともあろうものが、チェスワフくんと戦うのに夢中で気づかなかったのかしら」
アマーリアがテオドルの足元を指差すと、そこには複雑な文様を持つ魔法陣があった。
「チェスワフくんが頑張ってくれたおかげで、あなたに気づかれないように術をかけることができたわ。油断大敵って、あなたの立派なお師匠様に教わらなかった?」
アマーリアはにっこりと笑みを浮かべた。
「もう終わりよ、テオドル。何か最後に言いたいことはあるかしら?」
テオドルは忌々しそうにアマーリアをにらんだが、その口は灰色の石に固められて動かすことはできない。それを見てアマーリアがおかしそうに笑った。
「あら、ごめんなさい。それでは話すこともできないわよねえ」
彼女が指をパチンと鳴らすと、石像と化した手足はそのままに、テオドルの口にかけられた術のみが解かれた。即座にテオドルは呪文を紡ごうとしたが、アマーリアが指を鳴らすと、一瞬でまたテオドルの口は動かなくなった。
「お痛しちゃダメじゃない」
アマーリアは自分の言葉にまたおかしそうに笑った。銀狐の首根っこを押さえた彼女はまた指を鳴らして、何かを言いたそうにしているテオドルの口にかけた術を解いた。
「不老の魔女、アマーリア……。この怪物め! 貴様、どれほどの力を持っている? どれほどの時を生きている!?」
「女性に歳を尋ねるものじゃないわよ。テオドルくん?」
「……その呼び方。私が子どもだった頃から、貴様は今と変わらない姿だった。いったい、どんな魔法を使っている……?」
「それは秘密。それにしても、あなたがこんなにふざけた魔法使いになるなんてねえ。今は亡きあなたのお師匠様が見たら、どんなに嘆くかしら。あの人は立派な魔法使いだったのに、あなたは人の弟子に手を出すような腐った人になるなんて。がっかりだわ」
「黙れ。魔法の力を追い求めることの何が悪い。貴様らにはわからんのか。魔法の力を探求し、その神秘の力の全てを知って我がものにする。それが魔法使いであり、その存在理由でもある。それがわからんのか」
「……バカじゃないのか」
チェスワフは床に手をついて起き上がった。アマーリアがテオドルと対峙している間も意識が朦朧としていたが、テオドルの言葉だけは見逃せるものではなかった。
魔法の力の探求か。テオドルの言い分にチェスワフは笑いたくなってしまった。まるで数年前までの自分みたいだ。
ドラホミールの杖を追い求め、周囲の心配も顧みずに危険な旅に出たチェスワフ。あのときの彼はドラホミールがその杖を隠した意味や、その杖の存在理由などは考えてもいなかった。ただ、ドラホミールの偉大な力を手に入れることで、自分の名をあげたかっただけだ。
テオドルが必死にリリアナを手に入れようとするその姿は、かつての愚かな自分を思い出させた。
「……おまえは魔法の力への欲に取り憑かれた哀れな狐だよ」
「私が哀れだと? 何をふざけたことを……」
「魔法使いの存在理由が力の探求? 違うな、魔法使いの存在理由は……」
チェスワフは後ろを振り向いた。ずっと隠れていたリリアナが階段を駆け登って、彼の元に走ってきていた。彼が腕を伸ばすと、リリアナは胸に飛び込んできた。チェスワフは泣きかけている彼女を抱きしめると、傷ついた体が癒されていくような気がした。
「テオドル。魔法使いの存在理由は弟子を育てることだ。魔法の力を持った子どもたちを育てて、その力を扱う術を教えてやる。そして愛情と誇りを与えてやり、ときには命をかけて守ってやる。それが魔法使いだ」
「その通りよ、チェスワフくん」
チェスワフがアマーリアを見ると、彼女は子どもが成長したのを喜ぶみたいにして彼に微笑んできた。
「やっぱり魔法使いは弟子をとって一人前ね。マレクが家を出て行ってから、チェスワフくんもずいぶんひねくれちゃったけど、リリアナがあなたの弟子になって本当に良かったわ。師匠は弟子を育て、弟子は師匠を育てるって、あれは本当ね」
アマーリアは唾を吐きそうな顔をしているテオドルの方を向いた。
「さて、これで本当にお終いにしましょう。狐の家門当主、銀狐テオドル。灰鷹のチェスワフの弟子、リリアナに今後一切手を出さないと、この子の秘密を一切漏らさないと誓いなさい」
テオドルは本当に唾を吐いた。アマーリアの頬に薄汚い唾が飛んだ。
「ああ、誓うとも。いくらでも誓ってやるとも。これでいいか? さっさと術を解け、不老の……」
魔女、と続けようとしたテオドルの言葉は吐き出されることはなかった。その汚い口は再びアマーリアの術によって石にされていた。
「その通り名を呼ぶということは、まだ敵対するつもりということでいいかしら?」
いまやアマーリアの術はテオドルの全身に及ぼうとしていた。手足と口の辺りから、ジワジワと体中に石化が広がっていく。テオドルは呪文を唱えることも身振りで魔法を使うこともできず、ただ自分の身にかけられた魔法から逃れようと必死にもがいていた。が、どんなに力を込めても、すでに腕と足の全ては冷たい石と成り果てていた。
「そんなに動こうとすると、ポキンと折れちゃうわよ?」
テオドルがそれを聞いて何かを叫ぼうとしたらしいが、喉や口はおろか、顔の筋肉すら動かすことはできなかった。いまやテオドルは爪先から頭のてっぺんに至るまで、石像と化していた。石になっていないのは目の部分だけだったが、その瞳にはまぎれもない恐怖の色が浮かんでいた。
テオドルは今、指一本すら動かすことができない、生きた石像になっている。自分の体を動かすことができない以上、誰かに術を解いてもらうしかないが、この強力な術を解くことができる魔法使いはこの国に何人もいないはずだった。確実にそれができるのは術をかけたアマーリアのみ。
「あなた、今までずいぶん悪いことをやってきたそうじゃない。調べてみたら、裏ではいろいろと噂になっていたわよ。家門の秘術を奪われた魔法使いなんかは、あなたを殺してやると息巻いてたわ。そんな人たちの前に今のあなたを差し出したら、どうなるかしらね」
アマーリアはグロテスクな石像と化したテオドルのそばへ歩み寄ると、木の枝を折るかのようにその髪の一部をポキリと折った。
テオドルは何もすることができないまま、体の一部を破壊されるという恐怖と苦痛を受けた。その目にすがりつくような色が浮かんだ。意思表示をできる部分がそこしかないためか、しきりに目を瞬かせている。何が言いたいか、その場にいる誰もが理解できた。
アマーリアは満足そうにうなずくと、何かを小さくつぶやいた。すると、テオドルにかかった術は解けていったが、手の部分だけは石像のままだった。
「さあ、返答は?」
テオドルの声はチェスワフが驚くほどに、しわがれて弱々しくなっていた。
「ち、誓う……。その子どもには手を出さん。その子の秘密についても何も話さないと誓おう」
アマーリアはわざとらしい笑みを浮かべた。
「そう言ってくれると思ってたわ! ああ、それとね。一つ言い忘れてたけど、魔法管理局にいる私の友人が今、あなたのことをいろいろと調べているらしいわ。脅迫罪とか、拉致監禁とか、いろんな容疑があなたにかかってるみたいね。しばらくはそっちの方で忙しくなりそうね。有能な弁護士を雇うことをおすすめするわ」
そう言ってアマーリアは一気に老け込んだように見えるテオドルに背を向けた。
「さあ、帰りましょう。チェスワフくん、リリアナ」
チェスワフはリリアナの手助けを借りて立ち上がろうとしたが、思わずよろけてしまってアマーリアの豊かな胸に倒れこんでしまった。
「あらあら、情けないわね。あれくらいの戦いで」
「いや、あれくらいの戦いって……」
アマーリアにとってはイグナーツとの決闘も、テオドルの術も大したものではなかったのだろうか。今さらながらにチェスワフは彼女の恐ろしさに戦慄した。
リリアナも同じことを思ったのか、アマーリアに話しかけるその声は若干怯えていた。
「あのう、アマーリア先生。あの人の両手が石になったままだけど……、いいの?」
見ると、テオドルが哀れな乞食のように両手をあげていた。
「いいのよ。管理局の捜査官や弁護士が来たときに、あいつがあの手について何て言い訳するのか楽しみだから、それまで術はかけたままにしておくわ」
そう言うと、アマーリアはなんとも楽しそうにチェスワフの肩を支えたが、彼はなんとも複雑な気分だった。
「なんか、アマーリア先生にいいとこ全部持ってかれた気分だ」
チェスワフのぼやきに対して、そばにいたリリアナが彼の手を握りしめながら言った。
「いいじゃない。私、チェスワフ先生が戦ってくれてとても嬉しかったわ」
「……そうか?」
「うん。チェスワフ先生、とってもかっこよかったわ! 先生ってすっごく強いのね!」
「当たり前だろうが」
弟子の素直な賞賛に、チェスワフは傷ついた体で精一杯胸を張って答えた。
「おれは荒鷹のマレクの弟子だぞ。あんな狐どもに負けるわけがないだろうが」
チェスワフの言葉に、リリアナは笑顔いっぱいでうなずいてくれたのだった。




