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一章 灰鷹のチェスワフとアマーリア

 ブカレスク魔法学院の石造りの廊下は、春の陽光が差し込んで暖かな空気に満ちていた。廊下を行き交う学生や研究者の顔はみんな明るかった。一歩外に出れば爽やかな風が頬をなで、冬の間はずっと灰色だった空が毎日明るく晴れ渡っているとくれば、気持ちが弾むのも当然だった。重苦しいコートを脱ぎ捨てた人々は、新しい何かが始まる期待に顔を輝かせていた。多くの人にとって、四月というのはこれまでとは違う何かがやってくる月なのだ。


 しかし、誰もが浮き立つような足取りの中で、チェスワフだけは仏頂面を浮かべて一人歩いていた。春の陽気も周囲の喧騒も、自分には関係がないというような表情だ。


 彼はアマーリアの使い魔から、『大事な話があるから来てちょうだい』という手紙を受け取って、彼女の部屋に向かっていた。といっても、チェスワフが不機嫌そうな顔をしていたのは、突然彼を呼びつけた手紙のせいではなかった。この若い魔法使いはいつもしかめっ面を浮かべているのだ。


 彼が師匠からもらった二つ名は灰鷹といった。灰鷹のチェスワフ。その名は確かに彼にふさわしい感じがした。灰色の髪と眉間に刻まれた皺は、どこか野生の鷹を思わせるところがあった。近づきがたい印象を人に与えるところなんかそっくりだ。


 彼を呼んだアマーリアはこのブカレスク魔法学院で学部長の仕事をしていた。チェスワフも彼女と同じ学部で研究員の仕事をしているから、アマーリアは彼の上司ということになる。


 彼らはチェスワフが子どもの頃からの知り合いでもあった。チェスワフを育てた師匠とアマーリアが古い友人だったのだ。彼自身も彼女には昔からいろいろと世話になっていたが、最近は個人的な面での付き合いは減っていた。チェスワフは今の自分は一人前の研究員で彼女はその上司なのだから、私的な関係は彼女にとってもあまり好ましくないだろうと考えていた。実際、以前にそれで面倒事になったこともある。アマーリアがそんなことを気にする様子はなかったが、彼の方は子どもの頃とは違って彼女と少し距離をとるようにしていた。


 チェスワフは周囲の騒がしい雰囲気にはまったく惑わされないかのようにまっすぐに歩いていたが、真新しいローブに身を包んだ新入生の一人が、仲間とのおしゃべりに夢中で気がつかなかったのか、彼の肩に思いっきりぶつかってしまった。


「あー、どうもすいませ――」


 新入生は笑いながら謝ろうとしたが、ぶつかった相手の眉間の皺の深さに気づいたらしい。その笑顔は凍りついたようになった。


「新入生か?」


 チェスワフが鋭い目つきで睨むと、まだ顔に幼さの残る新入生はガチガチに体を強ばらせた。


「あっ、はい、あの本当にすいませ――」


「なんで入学できたんだ?」


「えっ? それはえーっと、普通に試験を受けて……」


「そのときはちゃんと目ン玉がついてたってことか? 試験問題は見えても、人が歩いているのは見えないみたいだな」


 かわいそうな新入生は真っ赤になって口ごもった。チェスワフは忌々しげに舌打ちをすると、時間を無駄にしたといわんばかりに早足でまた歩き出した。


 アマーリアが待っている学部長室へと歩きながら、チェスワフは今しがたの不愉快な出来事を頭から追いやった。気分を変えるために、手紙にあった大事な話とは何だろうかと考えることにした。


 ――もしかしたら、申請していた研究費の予算追加が通ったのかもしれないな。


 チェスワフはちょうど一年前の四月に、十九歳という若さでブカレスク魔法学院の研究員の職に就いた。これはかなり異例のことで、周りの研究員と比べたその年齢はかなり低かった。周りの連中がチェスワフに嫉妬して、陰口を叩いてくるのもしかたがないかもしれなかった。


 もっとも、彼の方にも原因はあった。廊下でぶつかった人だけでなく、年上の同僚にも遠慮のない言葉を投げかけるような性格をしていたのだ。研究員になったばかりのときに、先輩と揉め事も起こしていた。


 チェスワフは気に食わない同僚たちよりも予算を多くもらえることを期待して、約束の時間きっかり五分前にアマーリア学部長室のドアの前に立った。マホガニーでできたドアをノックすると、学部長室の威厳にふさわしい重厚な音が響いた。だが、それに対する返事は軽やかで優しげな声だった。


「どうぞ」


 学部長室は広かった。天井はアーチ型で開放感があり、天窓からは明るい光が差し込んで、大きな本棚やハーブが植えられた鉢植えを照らしている。真っ白な漆喰塗りの壁には一点の汚れもなく、隣の部屋に続くドアは飴色に光っていた。チェスワフの頭の中に、アマーリアの使い魔がドアをせっせと磨く姿が浮かんだ。


「いらっしゃい、チェスワフくん。忙しいのに、来てくれてありがとうね」


 ブカレスク魔法学院の重鎮であるアマーリアの見かけは二十代の若くきれいな女性だ。後ろ髪をアップにして、黒のタイトスカートと胸元がはだけた白いシャツを着ている。そこから見える胸の谷間にチェスワフは思わず目をやってしまった。相変わらずすごいという感想が浮かぶが、慌てて視線をそらす。


 アマーリアに弱みを握られたらたまったものではない。チェスワフは子どもの頃からいろいろと彼女にからかわれているから、これ以上いじめられるネタを与えたくはなかった。


 しかし、アマーリアの魅力的な胸から目をそらしたのにはもう一つ理由がある。


 確かに彼女は人を魅了する美貌を持っている。だが、チェスワフは百歳を超えると噂される彼女の正体と外見のギャップに、なんとなく複雑な気分になったのだ。


 彼女の姿はチェスワフが初めて出会った五歳のときからまったく変わっていない。どんな魔法を使っているのか、その美しさは今も昔も変わっていないのだ。彼女の本当の年齢を知る者はいなかった。チェスワフを含めて、誰も本人に実年齢を聞こうとはしないのだ。それもそのはずで、強大な魔力を持つアマーリアをわざわざ怒らせようとする馬鹿はいなかった。魔法をかけられて石なんかにされてはたまらない。


 彼女の怒りに触れて、物言わぬ石像にされるのを恐れる人々のことを考えると、チェスワフはちょっと笑いそうになった。だが、慌てて口元を引き締める。


「チェスワフくん、何か失礼なことを考えなかった?」


「いえ、アマーリア先生。何も思っておりませんが」


 相変わらず鋭い人だ。


 チェスワフは素知らぬ顔でとぼけたが、内心はドキドキしていた。石像にされるのはごめんだったので、アマーリアの矛先をそらすために話を切り出した。


「大事なお話があるということでしたが?」


「ええ、そうなの。とってもいい話よ」


 チェスワフの心は踊った。


 彼女が言ういい話とは、研究予算費追加の申請が認められたことに違いなかった。それ以外のいい話が彼にあるはずもなかった。仕事の他に大事なものなんてほとんどないのだ。実の親とは五歳の頃に別れたきりだから、血の繋がった家族はいないも同然だったし、休日を一緒に過ごす恋人だっていなかった。大切な友人がいることにはいるが、その数は片手の指で足りるくらいだ。そしてチェスワフを五歳の頃から育てた師匠は、今どこで何をしているのかもわからない。今から七年前のある日、その男はチェスワフに何も言うことなく、突然家を出て行ったのだ。理由は今もわからないままだ。


 自分を養ってくれる人を失ったチェスワフは、アマーリアに助けてもらったり、数人の友人たちに支えてもらったとはいえ、ほとんど一人で生きていかなければならなかった。他の子どもはのんきに笑いながら魔法学校に通っていたというのに。チェスワフがクソジジイと呼ぶその男は、酒好き、賭け事好き、女好き、というろくでなしだったので、今頃どこかでくたばっているかもしれない。


 ――まあ、そんな知らせが入ったのなら、それは確かにいい話だな。


 彼がそんなことを考えていると、アマーリアが隣の部屋に続くドアの向こうに声をかけた。


「いいわよ。入ってきてちょうだい」


 誰かいるのかと不思議に思うチェスワフの目の前に、一人の少女がドアを開けて現れた。


 その少女は金髪のショートヘアに、くりくりとした青い瞳、整った顔をしていた。ちょっと痩せ気味かもしれないが、にっこりと笑えば子役にだってなれるくらいかわいい。


 だが今、その子は笑顔が微塵も感じられない緊張した様子でチェスワフの前に立っていた。そのくせ、やたら彼のことをジロジロと見てくる。


 ――なんなんだ、このガキは?


 チェスワフの疑問に答えるかのように、アマーリア学部長が少女を彼に紹介した。


「チェスワフくん、この子はリリアナっていうの。リリアナをあなたの弟子にしてやってちょうだい」


「は?」


 アマーリアの突然の言葉は、まったく意味がわからなかった。


 チェスワフがリリアナとかいう女の子に険しい視線を向けると、彼女はびくっとしてうつむいてしまった。アマーリアが非難するように見てきたが、彼はそんなことには構わず事情の説明を要求した。


「アマーリア先生、何をおっしゃっているのかわからないのですが。おれがこのガキの、えーと、何になると?」


「師匠よ。つまり、この子があなたの弟子になるのよ」


「わけがわからない。ちゃんと最初から説明してください」


 チェスワフの顔はいまや凶暴な鷹そっくりになっていたが、アマーリアは彼がかわいいヒヨコであるかのように微笑んできた。なんだか子ども扱いされているような気分になった。


「この子は一人前の魔法使いになる修行を始めなければならないわ。この子の面倒を見てくれるちゃんとした師匠が必要というわけ。チェスワフくん、やってくれない?」


 チェスワフの不機嫌そうな顔に怯えるリリアナには、どうやら魔法使いの素質があるらしかった。


 魔法使いたちはずっと昔から人々に大きな恩恵を与えてきた。彼らは魔力と呼ばれる、自分たちの体内や自然界に存在する力を使って、不思議な現象を起こすことができた。人々の生活を脅かす魔物を祓う術や、病気や怪我に対する特効を持つ魔法薬作り、農作物の種まきや収穫の適切な時期を占うことで、人々の役に立ってきたのだ。


 現在でも魔法使いたちはこの国の社会に溶け込んでいて、工業や農業、医学や科学、軍事に行政といった幅広い分野で活躍している。


 そういった魔法使いの一員になる素質を示した――スープ皿を宙に浮かせたり、親戚の身に起こることを予言する――子どもは魔法学校に入学したり、一人前の魔法使いに弟子入りすることで、その力の扱い方を学ばなければならない。


 それでもチェスワフには疑問が山積みだった。


「それで、なんでおれがそのガキの師匠になるんですか?」


「だって、あなたが学部の中で孤立しているんだもの」


 アマーリアは質問には直接答えていなかったが、チェスワフは痛いところを突かれて黙ってしまった。


 職場である合同研究室では確かにいつも一人だ。研究者になったばかりの頃、言いがかりをつけてきた年かさの研究員を攻撃した事件のせいだろう。チェスワフは一年前のことを思い出して不愉快になった。


 ――あれはどう考えても、あいつの方が悪かった。


 その魔法使いは若くして研究員の座に就いたチェスワフに嫉妬していたらしい。学部長のアマーリアと研究員になりたてのチェスワフが親しくしているのをどこかで見たらしく、二人がいやらしい関係を持っていて、そのおかげでおまえは研究員の職を手に入れたのだろうとからかってきたのだ。


 チェスワフはアマーリアを侮辱されることは絶対に許せなかった。


 師匠が煙のようにどこかへと消えてしまったとき、チェスワフはまだたったの十三歳だった。家に金なんか全然なかったので、師匠がどこへ行ったかということよりもまず先に、明日からの食事をどうすればよいのか、今後三年間払わなければならない魔法学校の授業料をどう工面するのかということを考えなければならなかった。どう考えても十三歳の子どもには手の余ることだった。


 そこに救いの手を差し伸べてくれたのがアマーリアだった。彼女はチェスワフが一人前になるために必要な物の全てを恵んでくれたのだ。そこには食事や金だけでなく、愛情までもが含まれていた。


 そんなアマーリアを卑猥な冗談のネタにした男にチェスワフは警告した。もう一度言ったら、ただでは済まないと。にもかかわらず、そいつはニヤニヤしながら指で卑猥な仕草を向けてきた。その結果、愚かな男は学院の廊下で一日中タップダンスを踊り続けることになった。チェスワフの呪いを解ける魔法使いがようやく見つかったときには、その研究員はほとんど死にそうな状態になっていた。


 だが、ほとんどの研究員たちはそんな前後の事情を知らなかったので、さんざんにチェスワフを非難した。たった一人だけ、公平な意見を言ってくれるキーツ教授という人がいたが、その人にまで迷惑をかけたくはなかったので、チェスワフは何も言うことなく大人しく謹慎処分を受けることにした。言い訳はしなかった。悪口の内容を周囲に話すことでアマーリアに嫌な思いをさせたくはなかったし、言い訳は立派な魔法使いの振る舞いではないと思っていたのだ。まあ、彼がただたんに意地っ張りだったということもある。


 その騒ぎが起きてからというもの、チェスワフは合同研究室で一人黙々と自分の研究に打ち込むようになった。頭の悪い連中とまた面倒事を起こすのはもううんざりだった。


 だが、彼はその事実を突然に指摘したアマーリアにまた質問をぶつけた。


「おれが合同研究室で話す相手がいないのと、そのガキを弟子にすることに何の関係があるんです? ちっちゃくてフワフワなおれの心を、そいつが慰めてくれるとか?」


 チェスワフは冗談を言ったつもりだったが、アマーリアは大真面目にうなずいた。


「あなたが弟子をとれば、きっと周りの人もあなたのことを見直すわ。やっぱり弟子がいる魔法使いって立派だもの。魔法使いは弟子を育て上げて一人前、って言うでしょ?」


「最近ではあまり聞きませんが……」


 そんな台詞を言うのはじいさんばあさんだけだ、とまでは言わなかった。いや、言えなかった。


「そのガキに魔法の才能があるなら、魔法学校に通わせては?」


「もちろんそうするつもりよ。だけど、この子のお母様は亡くなっていらっしゃるの。リリアナには保護者と住むところがないのよ。それをあなたに引き受けてほしいわけ」


 チェスワフはなんでもないように語られた事情に戸惑って、思わずリリアナに視線をやった。頼るべき者のいない女の子はまだうつむいたままで、その顔がどんな表情を浮かべているのかはわからなかった。その様子は心のどこかをチクリと刺してきたが、彼は慈善家というわけではなかったので、アマーリアにはっきりと言った。


「弟子をとるつもりはありません。自分の面倒を見るだけで精一杯です」


「研究予算の件、私が会議で後押ししてあげるわよ」


 情けないことに、彼はアマーリア学部長の申し出にちょっとぐらついてしまった。


 チェスワフはこのブカレスク魔法学院の魔法伝承学部で研究員として働いている。魔法伝承学は世界各地の伝説や神話、それに魔法の知識なんかを調べる学問だ。その性質上、ダンジョン探索や遺跡調査などのフィールドワークが多い。世間ではトレジャーハンターや冒険者と同一視されているくらいで、魔法の戦闘技術も必要とされるタフな職業だ。調査や研究のためにいろいろと金のかかる学問でもある。


 アマーリア学部長は魔法学院の重鎮なので、彼女が研究予算の追加を後押ししてくれるとなれば、下々の者にとってそれは提案ではなく命令に近い。


 だが、チェスワフはアマーリアの絶好の申し出を断ることにした。


 自分に弟子など育てられるわけがないと思ったのだ。仕事で手一杯ということもあったし、金だってそんなにあるわけでもなかった。それに、ろくでなしの師匠に育てられた自分がちゃんとした師匠になれるとは思わなかった。


 確かにその男は彼に食事と魔法の修行を与えてくれた。叩きこまれた魔法の戦闘技術がなければ、チェスワフは危険な研究の旅で生き残れなかったはずだ。しかし、あの男はまだ十三歳だった弟子を突然捨てたのだ。金を置いていくことも、行き先を告げることも、事情を話すこともなく。子どもだったチェスワフは親に見捨てられたかのように毎日泣き叫んだ。ある意味ではその通りだった。涙が出なくなってからは歯を食いしばって生きてきた。早く大人になって、誰の手を借りることもなく自分の力だけで生きていきたかった。誰かに自分の人生を振り回されるのはもうたくさんだった。チェスワフが眉間にいつも皺を浮かべるようになったのは、たぶんこの頃からだ。


 やっぱりおれが弟子をとるなんて無理だな、とチェスワフは自嘲したくなった。弟子なんてどう育ててやればいいのかわからない。自分がそうされたように、拳骨と一緒に魔法の扱い方を叩きこんで、学校の勉強の代わりに賭け事を教えてやればいいのだろうか。そうして面倒を見ることに飽きてしまったら、子犬のようにポイと捨ててしまえばいいのだろうか。


「アマーリア先生、おれに弟子の面倒を見られるとは思えません」


「そう?」


「ええ。だいたい、そのガキがどうしてアマーリア先生のところへやってきたんです?」


「マレクが私にこの子を預けたの。『このリリアナをあのクソガキの弟子にしてやってくれ』って。そう言われたわ」


「――は?」


 マレク。二つ名は荒鷹のマレク。


 アマーリアが唐突に口にした名は、あの男のものだった。


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