七章 銀狐テオドルの脅し
リリアナが来てから、チェスワフの周りは少しずつ変わっていくようだった。アマーリア先生が昔からずっと優しかったことを思い返して、マレクの思い出を少しずつ蘇らせて、ハヴェルやクロエ、ラウラとも久々に楽しく騒いだ。
それにちょっと前までは、チェスワフが仕事を終えて帰るのは誰もいない暗い家だった。だが、今ではリリアナが「おかえり!」と言って毎日出迎えてくれた。
チェスワフにはそれらのことが心地よかった。こんな気分になるのはマレクが出て行って以来のことだった。
リリアナを職場に連れて行ったその日の夜、チェスワフは一人で踊る小人亭に向かっていた。
その数時間前、研究室から家に帰るとイグナーツの使い魔である青狐が主人からの手紙を携えてチェスワフを待っていたのだ。
『テオドル様がおまえに話がある。踊る小人亭で待つ。おれは師匠を止められなかった』とその手紙には書かれていた。
剣呑な話であるに違いなかった。
チェスワフは先日のイグナーツからの忠告を思い出した。
『あの子からしっかりと目を離さずにいることだな。おれの師匠である銀狐があの子を弟子に欲しがっている』
いささか癪ではあったが、ここはやつの忠告に従うことにした。
チェスワフは手紙を懐に入れると、リリアナに見られないよう二階の私室に入ってから、召喚の呪文を唱えて自分に忠実な使い魔を呼び出した。今朝、灰鷹にはアマーリア先生への手紙を託していたのが、やはり彼女を見つけることは出来なかったらしい。灰鷹の足にはまだ手紙が括りつけられていた。
「やっぱり、アマーリア先生は捕まらないか……。どこに行っているんだろうな。これじゃ、クソジジイと一緒じゃないか……。いや、まあいい。おい、アマーリア先生のことはもういいから、新しい仕事を頼む。リリアナのそばについて彼女を守ってやってくれ。何があるかはわからないが、とにかく頼んだ」
灰鷹は今朝からあちこちを飛び回っていたらしく疲れた様子ではあったが、主人の命令を受け入れた。使い魔は翼をバサリとはためかせると姿を消した。チェスワフにはリリアナがいる一階から、灰鷹の魔力の気配が感じられた。これで何かがリリアナの身に起こっても、灰鷹が姿を現して彼女のことを守ってくれるだろう。
早い眠りについたリリアナと頼りになる護衛をそのそばに置いて、チェスワフは踊る小人亭に入った。まだ宵の口であるし、今日は休日でもあるので客は多かった。
静かな二階とは違って騒がしい一階の奥に、イグナーツとその師匠はいた。たぶんやかましい声が響く中で他には聞かれたくない話をするつもりなのだろう。
銀狐テオドルは痩せぎすの五十絡みの男だった。弟子であるイグナーツと同じような銀色の髪をしている。だが、イグナーツがすっきりとした鼻梁とはっきりとした目を持っているのに対して、テオドルは狐目でどこか陰険な顔立ちをしていた。
この男がリリアナを狙っているのか。
「貴様が灰鷹のチェスワフか。ふん、名前の通り薄汚れて見える」
チェスワフが二人のいるテーブルに近づくと、テオドルが狐目でチェスワフの髪を見て言った。チェスワフの髪は二人の輝くようなプラチナに近い銀色のそれと違って、灰色に近い黒髪だった。
「そう言うおまえは銀狐だな。名前の通りずる賢そうなツラをしている」とチェスワフはやり返してやった。
イグナーツは初対面の二人のやり合いを黙って見ていた。チェスワフはめずらしいな、と思った。普段のこの男ならば、必ずチェスワフに一言二言の嫌味を言っているはずだった。まして、自分の師匠を貶されたとあってはイグナーツが黙っているはずがなかったのだ。
「で、話というのは何だ」とチェスワフはいきなり本題に入った。嫌味の応酬をするつもりはない。
テオドルも同じつもりだったらしい。
「貴様のところのリリアナという子どもの話だ」
チェスワフが思わずイグナーツを見ると、やつはその視線を避けるように顔をうつむけた。何かチェスワフにやましいことがあるような仕草だった。イグナーツの責任とやらを、チェスワフは思い出した。
「テオドル、おれの弟子がどうかしたか?」
「彼女を我々狐の家門の弟子として受け入れたい。彼女を手放せ、チェスワフとやら」
「意味がわからないな。あいつはただのガキだぜ。なぜ、リリアナを欲しがる?」
そうチェスワフは言ったものの、それは本心ではなかった。リリアナがただの子どもであるとは、もうチェスワフも思っていなかった。その正体も薄々感づいていた。
テオドルが何かを探るような目つきで言った。
「彼女が何者であるのか知らないのか?」
チェスワフには狐と化かし合いのような腹の探り合いをするつもりはなかった。彼は宣言するようにきっぱりとテオドルに言った。
「……そんなことはどうでもいい。あいつが何者だろうと関係ない。おれが知っているのはあいつが母親にもらった名に誇りを持っていることと、おれの名に愛情を持ってくれたことだけだ。おれもリリアナにそうした。それだけでリリアナが弟子になるのには十分だったし、おれはあいつのことを気に入っている。確かにリリアナはおれにはもったいないくらいのいい子だ」
そこでチェスワフは鷹のように鋭い目でテオドルとイグナーツを睨みつけた。チェスワフとて修羅場は何度もくぐっているから、その目つきは並の男ならば震え上がるようなものだった。それは鷹が自分の子を狙う敵を見る目であった。
「話せ、テオドル。おまえがリリアナを欲しがる理由を。人の弟子に手を出そうとする理由を。そして、イグナーツ。失望したぞ。おまえのことは嫌いだが、師匠の無礼な振る舞いを見逃すような男だとは思っていなかった。おまえがいつも口にする魔法使いの品位とやらはどこに行った? おまえは自分の名を忘れたのか?」
自分の名を忘れたのか? それは魔法使いの誇りを忘れたのか、ということと同じ意味だった。
恥を知れ、イグナーツ。チェスワフはそう言っているのだ。
イグナーツは顔を上げずに、いつもの自信満々の声とは違ってつぶやくように言った。
「……こっちにはこっちの事情があるんだ。おれだってこんなことが許されるとは……」
「見苦しいな。自分を育てた師匠には逆らえないか? ふん、臆病者め」
「黙れ!」とイグナーツが叫びを上げた。図星を突かれたらしい。
テオドルがそれをなだめるように言った。
「イグナーツ、おまえは黙っておれ。チェスワフ、貴様本当にあの子どもを手放す気はないのか? 金が欲しいならそう言え。いくらでも都合してやるぞ」
「なめてんのか」と、チェスワフは切り捨てるように答えた。「弟子を売る師匠などいない。リリアナを手放す気はない。あいつはおれの弟子だ」
チェスワフのはっきりとした返答を聞いたテオドルは席を立った。その言葉に込められた激しい怒りに気づいたのだろう。翼を広げて敵を威圧する鷹の怒りだ。
「イグナーツ、帰るぞ。チェスワフ。貴様、私に無礼な口を利いたことを後悔するぞ」
「くどい。それから、おれもおまえに警告しておこう。リリアナに手を出してみろ。おまえは鷹の術の恐ろしさを知ることになるぞ」
テオドルはチェスワフに背中を向けて店を出て行った。イグナーツはといえば、最後までチェスワフの目を見ようとすることなく、自分の師匠のあとを黙ってついていくだけだった。こうなったのは自分の責任だとか言ってたから、やはり何かを感じているのだろう。
テオドルとイグナーツにチェスワフが会ってから数日ほどは何もなかった。
リリアナは毎日元気よく学校に行ってきては、その感想をチェスワフに楽しそうに話していた。
「それでね、ヤルミラ先生が私たちのことをすごい怒ってね……」
「食べ物を口に入れながら話すな」
チェスワフは念のため使い魔をリリアナのそばに常に置いていたが、不審な気配は微塵も感じられなかった。リリアナはそれには気づかずに、いつも楽しそうに学校や友人のことを話しては、チェスワフにつきまとっていた。
ずっとどこにいたのかわからなくなったアマーリアが帰ってくると、チェスワフはリリアナに隠れて、アマーリアに「テオドルがリリアナを狙っている」と話した。
それを聞いた彼女は驚いたように目を見開いていたが、「私が狐の家門の動きを探ってみるわ。チェスワフくんはあの子をしっかりと守ってやって」とチェスワフに言うと、またどこかへと姿を消してしまった。
それでチェスワフは少し安心したが、やはりアマーリアがマレクとリリアナの事情についてチェスワフに話してくれなかったことを彼は不審に思った。チェスワフに出来るのはリリアナから目を離さないことだけだった。
いつも嬉しそうに「先生、チェスワフ先生」と彼についてまわってくるリリアナ。魔法修行をサボって遊びに出かけたり、ご飯を食べ過ぎてお腹を痛くするリリアナ。そんな彼女を見るたびに、チェスワフはやきもきしたり眉間に皺を浮かべていたが、カレンやチェスワフの友人たちと遊びまくって満足そうにするリリアナを見ると、その皺は緩んだ。
チェスワフは仕事から早く帰るようになり、リリアナのために食事を用意してやったり、「遊びに連れて行って!」と、せがむ彼女をしかたなくあちこちに連れて行ってやった。ハヴェルたちはリリアナに振り回されるチェスワフをにやにやと笑って、同僚の研究員やキーツ教授は、チェスワフがそそくさと仕事から帰るのを驚いて見ていた。
リリアナがチェスワフの弟子となってから一ヶ月ちょっとしか経っていない。だが、チェスワフの中で何かが変化していた。
チェスワフがリリアナと出会ってからの時間は、彼には実に濃密なものに感じられていた。それはチェスワフの心に大きなものを与えていたのだ。チェスワフはマレクが家を出て行ったときから、どこか虚ろだった自分の心が満たされる思いを感じていた。
七年前、彼に何も言うことなく姿を消したマレク。チェスワフを捨てた師匠。
どうして、クソジジイはおれに何も言わずに消えたんだ? なぜ、おれを捨てた? あんたは確かにろくでなしだった。だが、ずっと生みの親に代わって飯を食わせ続けてくれたじゃないか。魔法の修行までつけてくれた。おれはあんたを親父のように思っていた。なのに、なぜおれを捨てた?
チェスワフの疑問に答えてくれる者は誰もいなかった。
頼るべき親が消えてからのチェスワフは荒れた。いつも眉間に皺を浮かべるようになったのもこの頃からだ。
アマーリアがまるでチェスワフが自分の弟子であるかのように心配するのにも関わらず、彼は自分勝手に事を進めていった。魔法学院への進学、学費を工面するための危険な仕事、そしてドラホミールの杖探し。まるでマレクに捨てられた感情をぶつけるかのように危険なことに手を出していったのだ。ハヴェル、クロエ、ラウラたちとも友達付き合いは続いていたが、それにもどこか歪みが生じていた。
チェスワフは一年前に安定した研究員の職にようやく就いて、アマーリアや友人とも関係を修復し始めたが、彼の心のどこかには常に穴がぽっかりと空いていた。マレクの存在はそれほどまでに大きかったのだ。
いつの頃からか、チェスワフはマレクのことを思い出さないようにしていた。謎の失踪を遂げた師匠のことを考えるたびに、深い憎悪と虚ろな悲しみが湧き上がってきたからだ。
だが、ある日、そんな彼の元に一人の女の子が弟子としてやって来た。マレクがこの子をチェスワフの弟子にするようにと言って、アマーリアに預けたという。理由はわからない。
その子は食いしん坊で気分屋で、何か事情を抱えている様子だったが、最初からチェスワフに懐いていた。親がいないということだったから、初対面でいきなり彼女を引き取ることにしてくれたチェスワフを信頼することにしたのだろう。チェスワフが彼女に与えた最初の教えのおかげでもあるかもしれない。その子は自分の名前は母親にもらったもので、その名に誇りを持ちなさいと言われていたという。チェスワフがその子に初めて授けた魔法使いの教えも、同じことだった。
チェスワフは自分の弟子のことを思う。短い、本当に短い付き合いなのに、彼女のことを思うと心が温かくなった。いつも自分につきまとってきて、すぐに落ち込んだり喜んだりする気分の上下が激しいやつ。好奇心旺盛でいろんなことを聞いてくるガキ。魔法火が出せた、友達ができた、学校に行ける、といちいち喜ぶうるさいやつ。
そして、母親を亡くしてあいつが泣いていた夜のこと。彼女がチェスワフの弟子になれてよかったと言って、彼を抱きしめてきた温かさを思い出す。あの日、本当の意味でチェスワフはリリアナの師匠になったのだ。
灰鷹のチェスワフはリリアナのことを愛しく思うようになっていた。鷹が自分の子を愛するかのような感情だった。チェスワフはマレクに捨てられた傷を、弟子を育てることで癒していたのだ。
リリアナと過ごす日々はチェスワフにかつての師匠との日々を思い出させていた。
それは苦く優しい記憶だった。遊びに行きたがるリリアナが魔法修行を嫌がるのを見るたびに、チェスワフは幼い自分もかつてマレクの厳しい修行を嫌がっていたのを思い出した。食事をがっつくように食べるリリアナを見て、「もっと食え。食わねえとデカくなれねえぞ」とマレクが言っていたのを思い出した。リリアナを遊びに連れて行くと、街のあちこちにマレクと共に過ごした陰が残っていた。チェスワフはいつの頃からかそういったことは思い出さないようにしていて、実際、もう長い間忘れていたというのに。
リリアナを弟子にとってから、チェスワフはマレクが親代わりとなって自分を育ててくれたことを少しずつ思い返していった。と同時に、突然失踪したマレクに対する恨みと慕情がつのっていった。
だが、そんなある日のこと、リリアナは彼の前から姿を消した。リリアナを弟子として欲しがるテオドルと会って少し経ってからのことだった。




