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四章 3

 リリアナとカレンが出会って、チェスワフがリリアナと一緒に家に帰った夜のことだった。このときのことはチェスワフの心に大きな印象とわずかな疑問を残した。


 だが、このときからかもしれない。チェスワフが自分の弟子を愛しく思うようになったのは。


 リリアナがベッドに入ってから、チェスワフは自分の部屋で仕事をしていた。金色の魔女の秘密を探っていたのだ。イグナーツに先を越されてはたまらなかった。だが、一階の居間から妙な物音が聞こえる。


 チェスワフが階段を下りてみると、もう眠っていたはずだったリリアナが居間にいる。だが、どうも様子がおかしい。チェスワフは居間をそっと覗きこんだ。


 リリアナは泣いていた。こぼれ落ちる涙を手の甲で拭い続けて、嗚咽を必死にこらえていた。


「リリアナ」


 チェスワフがそっと声をかけると、リリアナはびくっと振り返った。慌てて泣き顔をそむけようとしたが、チェスワフはそれに構わずにリリアナの隣に座った。


「母親のことを思い出していたのか?」


 リリアナは泣きじゃくるばかりで答えなかったが、チェスワフは彼女の心を察した。


 チェスワフはリリアナの気持ちに気づいてやれなかった自分を恥じた。


 考えてみれば、リリアナは親を亡くした一人ぼっちの子どもだったのだ。チェスワフと出会ってから、彼女はいつも元気よくはしゃぎまわってチェスワフにくっついていたが、それは悲しさと寂しさの裏返しだったに違いない。もしかしたら、チェスワフが気づかなかっただけで、今までの夜もこうして一人泣いていたのかもしれなかった。


 その姿を想像すると胸が痛んだ。親のいない子ども。どこにも行くあてのなかった子。それはかつての自分が二度味わったものだった。実の親と離れた五歳のときと、マレクが家を出て行ったとき。どちらのときも、それはチェスワフの心をずたずたに引き裂いた。


 そんな思いを彼はこの子にさせてしまっていた。


 自分を責めていたチェスワフに出来たことは、ただリリアナの金髪を撫でることだけだったが、リリアナはそれを受け入れてくれた。まるで、自分の寄る辺がそこにあるかのように。


 ある意味では奇遇な光景でもあった。かつて親に捨てられていまだにそれを恨んでいる男と、親を亡くしてしまった少女。だが、それは当人たちにとっては、ひどく切実なことでもあった。彼らはお互いを必要としていた。


 そうして、静かな夜の家にリリアナがときどき嗚咽する声だけが響いていたが、それはだんだんと小さくなっていった。


「ねえ、チェスワフ先生」


「何だ?」


 リリアナはもう泣いていなかったが、その顔には激しい感情の色がまだ残っていた。


「チェスワフ先生も子どもの頃泣いたりした?」


 彼女にはチェスワフが五歳の頃、実の親に捨てられてマレクに引き取られたことは断片的にしか話していなかったが、リリアナもそこら辺の事情は薄々と感付いていたのかもしれない。だから、チェスワフも自分と同じように親を失くして泣いていたのか、と聞いたのだろう。


「いや、あんまりそういう記憶はないな」


「ほんと……?」


「ああ、本当だ。泣く暇がなかったんだ。マレクのやつにいつも振り回されていたせいで。いや、おかげというべきなのかな」


「……先生にとって、マレクさんってどういう人だった?」


「クソジジイさ。もう腹いっぱいだって言っているのに、やたら飯を食わせようとするし、魔法修行はおっかないし、ガキのおれをよく酒場や賭博場に連れて行って置いてけぼりにしていた。女の尻を追っかけまわすのに夢中になっておれのことを忘れていたんだ。とんでもないクソジジイさ」


 ひどい師匠だった、とチェスワフが嘆くように言うと、リリアナはちょっとだけ笑ってからまた下を向いて黙ってしまった。また何かを聞きたいようだったが、そうしていいものかどうか迷っているように見えた。だが、結局聞くことにしたようだ。リリアナは顔を上げた。


「……先生はマレクさんに会いたい?」


 チェスワフはその質問に何と答えたらいいものかどうか迷った。自分でもよくわからなかったのだ。


 確かにマレクは彼に何も言うことなく姿を消した。捨てられた、とチェスワフは思った。だが、それまでのマレクはずっとチェスワフに飯を食わせてくれて、魔法の術を仕込んでくれたのだ。アマーリアの言うとおりではあった。マレクはろくでなしではあったが、人でなしでは決してなかった。だが、マレクがチェスワフのことを本当に愛してくれていたのなら、なぜ彼をこの家にたった一人残したのだ? なぜ何も言うことはなかったのだ?


 チェスワフのマレクに対する思いは愛憎入り混じったものだった。いや、そんな言葉では足りなかった。彼らの間にはつながりが確かにあったのだが、それはひどくねじれていて、チェスワフにはそれが自分の心のどこにどうつながっているのかがわからなかった。


 彼は正直に自分の複雑な気持ちを打ち明けることにした。


「あいつに会いたいかどうか、それはわからない。マレクが何でおれに何も言わずにこの家を出て行ったのかは知りたい。でも、おれを捨てたあいつのこと自体は今さらどうでもいい気がする。今のおれにはアマーリア先生も友達もおまえもいるから。それに、マレクに会ったところでどんな顔をしてやればいいのかわからない。おまえのツラなんざもう見たくもなかった、と言えばいいのか。会いたかったと言って泣けばいいのか。まあ、どっちにしろ一発ぶっとばすことは間違いないだろうな。……だが、リリアナはあいつに会っているんだろう?」


 チェスワフは聞かないことにしていた質問を発した。アマーリアはリリアナがマレクについてほとんど何も知らないと言っていたが、リリアナをチェスワフに預けたのはマレクなのだ。マレクの秘密については知らないまでも、会ったことぐらいはあるはずだった。


「……うん。マレクさんのことは知っているわ」


 リリアナは打ち明け話をするようにそっと言った。


「私が子どもの頃から、まあ今でも子どもだけど、マレクさんはときどきうちに来てた。お母さんのお友達だったみたい。私と話すことは滅多になかったけど、お母さんといつもこっそりと内緒話をしてたわ。何を話していたのかは知らないけど、お母さんが死んじゃったとき、マレクさんがお葬式を手伝ってくれた。その頃には、私はもう魔法の力を使えるようになっていたわ。それから、マレクさんがアマーリア先生の家に私を連れてきてくれたの。『おめえは立派な魔法使いになる修行をしなきゃならねえ。おれのクソガキにおめえの面倒を見させる』って。……ごめんなさい、先生。あとは何も知らないの」


「……そうか。いや、ならいいんだ。話してくれてありがとな」


「ううん、私こそ黙っていてごめんなさい」


 チェスワフが気にすることはない、とリリアナの頭を撫でてやると、彼女はチェスワフの体に腕を回して抱きしめてきた。彼の温かさを確かめるような仕草だった。


「……先生、ありがとう。私、この家に来てとっても楽しいわ。チェスワフ先生の弟子になれてよかった」


 チェスワフ先生の弟子になれてよかった。


 リリアナの温かさとともに届けられたその言葉は、チェスワフに確固たる何かを植えつけた。自分の中に太い柱のようなものが立った気がした。彼はこれからの自分がそれを支えにして、踏ん張っていかなれけばならないことが理解できた。


 おれは親のいないこいつの師匠なんだ。


 チェスワフは思った。リリアナ。母親にもらったという美しい名前。おれはリリアナの師匠なんだ。おれはリリアナの師匠、灰鷹のチェスワフなんだ。


 チェスワフの心に熱いものがほとばしった。それはみるみる内に彼の全身を駆け巡った。自分の中の柱が強くたくましくなった感じがした。


 マレク。おれを捨てたあんたが、なぜリリアナをおれに預けたのかは知らない。だが、それはどうでもいい。あんたが今どこにいるのかもどうでもいいし、リリアナがいわくつきの女の子だったとしても、どうでもいい。


 リリアナはおれに名に愛情を持ってくれたのだ。ならば、おれは師匠として、この子に飯を食わせてやって魔法修行をつけてやろう。それがおれの役目だ。


 チェスワフは自分の心の柱にはっきりと弟子の名を刻みつけた。


 リリアナ、おれはおまえの名に愛情を持つ。おまえを灰鷹の子として育ててやる。


 チェスワフはしっかりとリリアナを抱きしめ返してやった。


 彼女はそれに応えるかのように腕の力を強くして、彼の懐に顔を埋めた。彼女もまたチェスワフの感触に自分の立つべき場所を見定めているかのようだった。


 鷹の子はそうやって自分の巣を見つけ出していた。それは彼女にとって、温かな巣だった。


 二人はまだ知り合ったばかりだった。数日も経っていない。だが、それがどうしたというのだろう。付き合いの月日の長短が、人々の関係に重さを与えることはあっても、それを軽くすることは絶対にない。


 ならば、何がそのチェスワフとリリアナの間に絆を与えたのか。それはもちろん、彼らが互いの名の意味を理解し、相手の名に愛情を持ったことだ。これこそが魔法使いの師弟を成り立たせているものであり、この世界を動かしている力だった。魔法使いたちが互いの名に敬意を持って名乗り合うのは、この真理を知っているからなのだ。


 こうして、ここに一組の鷹の親子が生まれた。


 やがて、リリアナの方が腕をほどいて立ち上がったが、もうその顔に涙のあとは残っていなかった。それを見るチェスワフの顔にも自分を責めるようなものはない。二人とも何かを得たかのような、穏やかで満ち足りた顔をしていた。


 立ち上がったリリアナはチュッとチェスワフの頬にキスをした。さすがにチェスワフが驚いてぽかんと口を開けていると、彼女は照れたように、「もう寝るね」と言って自分の部屋に戻ろうとした。


 だが、最後に振り返って言った。


「そういえば、マレクさんのことで一つだけ思い出したわ」


「何だ?」


「お母さんが一度だけ言ってたの。『あの人は私たちのことを守ってくれているのよ』って」


「どういう意味だ……? 他には何か言ってなかったのか?」


「ううん、何も。マレクさんが今どこにいるのかは私も知らないけど、でもどこかで私のことを守ってくれているのかもね」


 その自分の考えに安心したのか、リリアナは「おやすみ!」と言うと階段を駆け上って行った。


 チェスワフはそれからしばらく考え事をしていたが、やがて首を振って立ち上がると、自分も寝るために部屋に戻った。


 明日から魔法修行も始まるのだ。


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