四章 初めての友達とリリアナの夜
煩雑な入学手続きと世間話が一段落した頃。ちょうど昼休みの始まりを告げる懐かしい響きの鐘の音が鳴った。昼食の時間だ。
チェスワフはリリアナをまずい飯を出す学食にでも連れて行ってやろうかと考えた。彼女がどこに行ったのかを探しに学校の中を久しぶりに歩いてみることにする。
十三のときから三年間通った魔法学校は、大人になった彼には小さく感じられていた。そこかしこに置かれている机や椅子、ロッカーなんかが全て小さいのはもちろんのこと、通路までもが狭く感じられていた。彼にぶつかりそうな勢いで走り回るガキたちなんて本当に小さい。自分もあんなにチビだったのか?
そんなわけで、チェスワフは学校の中なんてすぐに回れると勘違いしてしまったのだが、これは当然誤りだった。国でも有数の生徒数を誇るこの学校は、大人になった彼でも昼休みだけで回りきるにはやはり大きいようだった。そのことがチェスワフにはなんだか嬉しかった。
懐かしさに浸って、彼はゆっくりと学校の中を見て回ることにした。リリアナは大好きなはずのチーズサンドを包んでバッグに入れているはずだ。お腹が空いたら勝手に食べるだろう。
くすんだ石壁から漂ってくるカビ臭さと窓から吹き込んでくる気持ちよい春風の匂い。そこかしこから聞こえてくる笑い声や叫び声。この空気は懐かしい。
制服の裾をはためかせてそばを通り抜ける生徒たちは不審そうにチェスワフのことを見上げていた。
その顔はこう言っていた。おれたちの縄張りに何の用だ? そんな顔つきだ。
チェスワフは彼らに言ってやりたくなった。
おい、そんなことつれない顔するなよ。昔はおれたちの縄張りだったんだぜ。愛想よくしろよ、後輩くん。
灰色の壁と黒い制服の織りなすモノトーンに正午の陽光が差していた。いきなり廊下の折れ曲がった先から派手な紫色の閃光が垣間見える。教師の怒鳴り声が聞こえた。
「どっちが先に手を出したの!? どっちでもいいわ、二人ともこっちに来なさい!」
チェスワフの時代にもあった生徒同士のケンカだ。
笑ってしまった顔を誤魔化そうと覗いた教室では、黒板に書かれた文字が重要なところで踊っている。魔法でゆらゆらと動くその字には見覚えがあった。ヤルミラ先生の字だ。
『テストに出す!』
昼休みになったのに、そんなことが書かれた黒板をまだ必死に写していた生徒が、ノートをいじめっ子に取られていた。チェスワフは口を挟もうか迷ったが、いじめっ子はどうやら昼食に誘っているだけのようだ。ノートを取られた生徒も、まあいっか、という調子で授業のノートを諦めたらしい。
おいおい、ヤルミラ先生は注意したところをテストで答えられなかったやつには、オークみたいになるぜ。
彼は心の中で忠告したが、もちろん怠け者に届くはずもなかった。
たぶん、このようにして毎年一定数の落ちこぼれが出るのだろう。先生方も大変だ。耳を引っ張って乱暴者を注意する一方で、尻を叩いて落ちこぼれに勉強させなくてはならないとは。
チェスワフも昔はそんなことは思いもしなかった。これは彼が教師の手を煩わせない生徒だったからというわけでもあるまい。彼もガキの立場から、かつての先生たちと同じような立場に立つようになったのだ。
チェスワフは急にヤルミラ先生の顔を見たくなった。結構彼のことをかわいがってくれた先生だ。卒業してからも、保護者のいない彼を心配してくれて手紙を寄越してくれた。が、不義理なことに、チェスワフはほとんど返事をしていなかった。バイトや学院の授業で忙しかったこともあるが、何より手紙を返すだけの心の余裕がなかったのだ。
チェスワフはちょっとヤルミラに怒られることを心配しつつも、彼女が昼食をとっているはずの学食に向かった。そこで生徒の提出したノートなんかを眺めつつ、持参のランチを食べる彼女の姿を思い出したのだ。
またしても、このときの彼の頭の中からはリリアナのことは薄くなっていた。一応考えてはいたのだ。学食で会えればいいな、とか。人の流れに乗ってあいつも来ているかもしれない、ひょっとしたらもう友達でも作っているかもな、とか。だが、彼はもっと真剣に彼女のことを考えておくべきだった。
まさか、入学前から敵を作っているとは思わなかったのだ。
学食ホールだけは以前と変わらぬ大きさだった。漂う匂いも相変わらず。薄いのにやたら油の多いスープや、魔法を使わなければ切れないような固さのパンとかの匂いだ。弁当を持って来られない生徒たちの嘆きの声が聞こえてきた。
リリアナが馬鹿なことをしたら、弁当は持たせないでずっとここの飯を食わせてやろう。チェスワフが学食を見回してそんな冗談じみたことを考えていたとき、彼は中央付近での騒ぎに気づいた。何かを言い争う大声で人だかりが出来ている。
チェスワフはその声に何だかものすごく嫌な予感がした。内容がわかっている手紙を開ける気分に似ていた。騒ぎに群がる子どもたちをかき分けて、祈るような気持ちで騒ぎの中心に向かう。
頼むから他人事であってくれ。頼むから……。チェスワフは祈るような気持ちだった。
だが、嫌な予感というのは概して間違いない。
やはりリリアナがそこにいた。おまけに馬鹿なことをしている真っ最中だった。つまり、生徒の一人とケンカをしていた。
入学前に、トラブルを、起こしていた。
とりあえず一年間学食の食事の刑だ。
チェスワフはそんな決意を固めつつ、ひとまずは騒ぎを見守ることにした。なんでケンカになっているのかわからないし、弟子のケンカに師匠が出て行くのもみっともない。とはいえ、口喧嘩はリリアナのほうが劣勢のようだったが。
「ほら、あれだけ大きい口叩いていたのにどうしたの? 怖気づいてしまったのかしら?」
そんな挑発的な言葉をリリアナに投げかけていたのは藍色の髪の女の子だった。艶のあるまっすぐな髪を肩ぐらいで揃えている。手には最近の型の短い杖を持っていた。地味な拵えだが一目で職人の業物だとわかる。形の良い眉と意思の強そうな瞳が印象的な子だったが、今はどちらもつり上がっていた。
対するリリアナの目はちょっと弱った様子だ。
「で、でも、私まだ先生に何も習ってないし、魔法火っていうのが何かもわからないし……。魔法使いの術くらべなんてできないわ!」
「魔法火が何かもわからないですって? あなたご自慢の師匠はどうやら教育者として失格みたいね」
魔法火というのは魔法使いが最初に習う術だ。自分の魔力を手の中で燃やすだけだから、コツさえつかめば実に簡単。たいていの子どもたちが二週間もしないうちに出来るようになる。
魔法使いの初歩の初歩だが汎用性は高い。料理にも煙草の火にも使えるし、何よりこれを使って壁や空中に字や魔法陣を描くことによって、複雑な術を行使することが可能になる。それに、どれだけの魔力を火に変換してコントロールできるかは術者次第だから、魔法火の大きさや熱量、形状を保つ技量で魔法使いの術くらべにも使える。
要は魔法使いなら出来て当たり前の術だ。
リリアナはチェスワフを馬鹿にされたことに怒ったらしく、藍色の髪の少女に反論した。
「先生のこと馬鹿にしないで! 先生は確かにガミガミうるさそうだし、愛想悪くてしかめっ面だけど、とってもいい先生なの!」
「それ本当にいい先生なの?」
「……うん、たぶん」
チェスワフは学食の食事の刑を二年間にすることにした。特に理由はない。なんとなくそうしたくなっただけだ。別にリリアナの発言とかは関係ない。たぶん。
二人の少女はチェスワフに気付く様子はまったくなく、その口論は決着を迎えようとしていた。
「それじゃあ、三日後はどうかしら? あたなは三日間で師匠から魔法火の出し方を習いなさい。そうしたら、お互いの名誉をかけて魔法火で術くらべよ」
「わかったわ! その勝負受けて立った!」
何がケンカの原因かは知らないが、チェスワフは興奮して逆立ちそうなリリアナの金髪をぐしゃぐしゃにしてやりたくなった。
入学前から騒ぎを起こして売られたケンカを買っているんじゃない、この馬鹿弟子。だいたい、三日間で魔法火の習得だと? 習得してすぐに術くらべ? なめてんのか。
勘の良い子ならば、三日間で魔法火を出せるようになるのも不可能ではない。だが、それはあくまで出せるようになっただけ。火の勢いを強くしたり、火の形を変えるには訓練がいる。学校では魔法火の授業は二週間前には終わっているはずだったから、これからリリアナが魔法火を覚えるとしても、ケンカ相手の少女とは最低でも二週間ほどの差がある。おまけにその子の様子からして魔法火の扱いにはかなりの自身があるようだ。
だというのに、チェスワフの愛すべき馬鹿弟子は術くらべの申し出を受けてしまった。
だが、やるからには勝たせなければならない、とチェスワフは強く思った。おれの弟子としてケンカに負けることは決して許さん。たとえそれが無謀な戦いであったとしても。
これで負けたら、学食の食事の刑は三年間だな、とチェスワフが決意を新たにしたそのとき。
「何をやっているんだ、おまえらは!」と、轟くような大声が学食ホールに響き渡った。
その声で、二人の少女を興味深そうに眺めたり、野次を飛ばしていたギャラリーは一瞬で蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。みんなはその声の持ち主が誰かを知っているのだ。あとに残されたのはリリアナと藍色の髪の少女とチェスワフだけ。
そして、向こうからやってきたのは。
「ん?なんか懐かしい顔がいるじゃないか。おー、ずいぶん立派になって戻ってきたもんだな。見違えたぞ、チェスワフ」
教師であるヤルミラだった。
「お久しぶりです。ヤルミラ先生。長い間ご無沙汰していて申し訳ありませんでした」
チェスワフの存在に気づいて驚くリリアナと、なぜか一緒になって驚いている少女を無視して、彼はヤルミラに挨拶をした。
彼女は厳格でぞんざいな口調で話す女教師。もう五十歳を過ぎているはずだ。背は高くないし顔だって器量がいいとはいえないが、ピンと伸びた背筋からは威厳があふれ出ていた。長年ものを教える立場に立った人間にしか出せない威厳だ。
今ではチェスワフもこの人のつむじを見下ろせるぐらいに大きくなっているが、それでも彼女の前に立つと自分が小さく感じられた。
「この野郎、手紙も寄越さずに。だが、まあ便りがないのはいい便り。噂はしっかりと聞いていたぞ、チェスワフ。ドラホミールの杖の欠片を見つけるなんて大した男になったもんだ」
「ありがとうございます」
チェスワフとヤルミラの会話を気まずそうな顔でリリアナが見ていた。師匠と学校の教師。嫌な二人に嫌なところを見つかったと思っているのかもしれない。藍色の髪の子にいたっては顔を真っ赤にしていた。結構優等生みたいに見えるから、厳しい女教師に見つかって怯えているのだろう。
だが、チェスワフの予想は外れた。その子は彼の方に出来損ないの魔法人形みたいに固い動きで歩いてきて言ったのだ。
「し、失礼ですが、は、灰鷹の、ま、魔法使い、チェスワフさんでしょうか?」
「ああ、その通りだが」
「お会いできて光栄です! 私エルディミール家のカレンと申します! あ、あの。ドラホミールの失われた杖の欠片を発見するという偉業を成し遂げたチェスワフさんに、揺るがぬ敬意を」
「そうか、ありがとう」
「チェスワフさんの論文も読ませていただきました! 冒険についての吟遊詩人の歌も何回も聞きました。家に招いた詩人にはいつも歌わせていまして……」
チェスワフもこれには困った。あの嘘だらけの歌までこの子は聞いているのか。あの寒々しい虚構に飾られたひどい歌を聞かれているなんて、たまったものではない。




