想曲・参~贈~
沈黙するしかない彼の目の前で立ち止まり、数秒の対峙の終了を告げるかのように深緑の双眸が彼の肩越しに広大な海原へと向けられる。
「・・・・・・・・・」
釣られるように背後へと視線を遣った彼の目に、こちらに背を向けるようにして青く輝く生命の源に魅入っている姿が映った。
何処か現実味を欠いた印象と、半透明な体。
間違いない。あと一歩足を踏み出せば深い波に呑み込まれるような場所に立つ相手は、既にこの世に時間を刻んでいない。
言葉もなく、これまでに何十回、何百回と見ている同じ光景を見つめていた彼を、不意にそれは振り返った。
『―――ありがとう』
贈られたのは、ありふれたそんな一言だった。
それでも。太陽光を弾いて煌く飛沫に溶けていくその姿に、どうしようもなく、胸の奥が、熱くなった。視界が滲み、溢れ出した雫が頬を伝う。
陽光に溶けて消えた笑顔が愛しいだなんて、こんな感情は初めてで、彼は制御の利かない己に困惑する。ただ、哀しくて。こんなにも、死とは、痛みを伴うものだったのか。
どのくらい、死と向き合っていたのだろうか。傍らで微かに生じた摩擦音に、彼は我に返った。この世界に自分以外の誰かがいた事を思い出し、慌てて涙を拭う。
「…一体、何が…?」
不可抗力とはいえ、他人に泣き顔を見られた気恥ずかしさを紛らわすように、彼は傍らの気配に問うた。
向けられる、深緑の双眸。
忘れる事など有り得ない、森を宿した瞳はあの時と同様、何の感情も浮かんでいない。
「彼は、海を見たいという願望の為に現世へと留まっていた」
簡潔な説明で、彼は納得する。
海が見たい――死しても尚、この世に留まる程に強い想いだったから、果たされた時のあの笑顔は、あんなにも綺麗だったのか。愛しいと、思う程に。