想曲・壱~瞳~
昔からよく、不思議なものを見た。それはどうやら周りの人間には見えないようで、闇の中を自由自在に闊歩するそれ等が幽霊や妖怪と呼ばれる類のものであると知るに至るには、それ程時間は掛からなかった。
「だ~か~ら!俺についてきたところで何もしてやれないと、何度言えば分かるんだ!」
大きな柳の木の傍らで何もいない空間に向かって怒鳴っている書生の姿は、間違いなく頭がおかしい奴だと思われたに違いない。しかし幸いな事に、小さな寺の片隅に植えられた柳の木の周囲には、彼以外の人影はなかった。
「俺は、見えるだけなんだ。寺がすくそこにあるんだから、坊さんにでもお経を上げてもらえばいいじゃないか」
風呂敷を片手に虚空へ向かって話しかけている彼は、苛立たしげに眼鏡を押し上げる。
「経が下手で眠れない?そんな事、俺が知るかよ」
勘弁してくれと、横に振られた首に合わせて後ろで一つに括られた長髪が揺れる。
「あ―――もう!分かった、分かったよ!」
よよと泣く女性の姿に、髪を掻き毟った彼は半ば投げ遣りにその訴えを聞くことにした。
「ったく…。ちょっと待っていてくれ。今、和尚を…」
「――必要ない」
潤んだ瞳で見つめてくる半透明の彼女から逃れるように踵を返そうとした彼は、突如として背後から響いてきた声にうんざりした様子で振り返った。
「・・・・・・・・・・ッ!?」
また何処かの幽霊か何かだろうと思い、文句の一つでも言ってやろうとした彼は、その先で出会った深い森に喉まで出掛かった言葉を呑み込んだ。
目を見開いて彫刻のように固まっている彼の傍らを通り過ぎ、既にこの世のものではなくなった魂の宿る柳の木に手を添えた。
「還れ」
零れ落ちたのは、たった一言。
今の今まで帰り道が分からずに泣いているだけだった女性が、その顔に笑みを浮かべた。天を見上げ、その姿が高く伸ばした腕から光の粒子となって空に溶けていった。
目の前の光景の非現実に大きな瞳を更に瞠る彼に、振り返った少年の深緑の双眸が向けられる。
「…仕方ない」
深い嘆息には、諦観よりも不機嫌の方が感情としては多く含まれていた気がする。
「君の体、少し借りるよ」
「…は?」
やっと現実味が戻ってきた途端に耳に滑り込んできた澄んだ声音の紡ぎを理解するよりも一瞬早く、彼の意識は暗い闇の中へと落下した。
***