序曲
小説『天の啼く狭間で』の外伝シリーズ三作目になります。
今回は主視点のお話。
全ての始まりの物語です。
「死ぬのを引き止める気はさらさらないけど。人の家の前で死ぬのは止めてくれないかな」
突然響いてきた無機質な声に、弾かれたように背後を振り返った。視界を埋めたのは、夏の緑よりも尚深い色をした深緑。
「少し歩けば自殺の名所である森に出る。よろしければどうぞ」
深い森をその瞳に宿した少年は、それだけ言い残すと、門前に手に持っていた縄を掛けて踵を返して歩いていってしまった。
残された彼は、ただ呆然と少年の消えていった建物を見上げる。
西洋の城を小さくしたような、赤煉瓦造りの家。日本家屋が立ち並ぶ閑静な住宅街にあって、その西洋風の建物は明らかに異質な存在であったが、何故か周囲に溶け込んでいて見る者を威圧しない。鉄扉の向こうに広がる、綺麗に手の入れられた広大な庭には、季節外れの菖蒲が咲いていた。
「…菖蒲?」
今は弥生月だ。梅が散り、桜が咲き始めるこの時期に、何故菖蒲が咲き誇っているのか。
しかし、その事をただ不思議に思うだけで、目の前に広がる光景に不気味さは感じなかった。庭先を埋める紫は、まるで俗世の穢れを知らないかのようにただ、美しい。
「・・・・・・・・・・・」
目の前の縄を見つめ、その唇から盛大な溜め息が洩れる。
確かに、自分は死のうとしていたのだ。けれど、ここまであっさりと死を肯定されると、自らの命を絶とうとしていた事が何だか馬鹿らしくなってきた。
要は、興醒めしたのだ。
「…帰るか」
度合いはどうであれ死ぬ覚悟で出てきた身としてはどうにもばつが悪いが、このままここで突っ立っていてもそれこそ意味がない。
若白髪が目立つ髪を掻きながら、彼は小さな城の前を後にする。砂利道を踏み締める下駄の音が、しばらくの間住宅地に満ちる静寂を乱していた。
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