悪役令嬢は断罪の夜に王国を買い取る
「リディア・フォン・アルヴェイン! 貴様との婚約を、ここに破棄する!」
王立学院の卒業祝賀会。
国王夫妻をはじめ、王国中の有力貴族が見守る大広間で、第一王子アレクシスは高らかに宣言した。
彼の隣には、淡い桃色の髪をした男爵令嬢ミレーヌが寄り添っている。その瞳には涙が浮かび、細い肩は小刻みに震えていた。
対するリディアは、黒いドレスの裾をわずかに整えただけだった。
「理由を伺っても?」
あまりに落ち着いた声に、アレクシスの眉がつり上がる。
「まだ白を切るつもりか! 貴様はミレーヌを階段から突き落とし、教科書を破り、さらには毒まで盛ろうとした!」
広間がざわめいた。
ミレーヌは怯えたように王子の腕へすがりつく。
「わ、わたくしは、リディア様を責めるつもりなど……ただ、殿下にご無事でいていただきたくて……」
「なんと健気なことだ。それに比べて貴様は!」
王子の指が、リディアへ突きつけられる。
「侯爵家の権力を笠に着た、冷酷非道な悪女だ!」
沈黙が落ちた。
誰もがリディアの敗北を確信していた。
名誉を失い、婚約を失い、侯爵家からも見放される。あとは泣き崩れ、必死に許しを請うだけ。
そう思っていた。
「承知いたしました」
リディアが、静かに微笑むまでは。
「なに?」
「婚約破棄をお受けいたします。王家からお預かりした品々も、すでに返還の準備を終えております」
あまりに鮮やかな承諾だった。
アレクシスは一瞬、言葉を失う。
「ま、待て。貴様にはまだ処罰が」
「その前に、三点ほど確認させてくださいませ」
リディアが指を一本立てる。
「第一に、わたくしがミレーヌ様を階段から突き落としたという日時は、先月十日の午後二時で間違いございませんね?」
「そうだ!」
「その時間、わたくしは王妃陛下とともに離宮で慈善事業の会計報告を行っておりました。こちらが出席者名簿です」
侍従が掲げた書類を見て、王妃がゆっくりとうなずいた。
「事実です。リディア嬢は正午から夕刻まで、わたくしと同席していました」
大広間がざわつく。
アレクシスはミレーヌを見た。
「で、ですが、きっと誰かに命じたのです!」
ミレーヌが慌てて叫ぶ。
リディアは二本目の指を立てた。
「第二に、ミレーヌ様の教科書が破られた件。発見されたのは、女子寮のミレーヌ様のお部屋でしたね?」
「え、ええ……」
「女子寮の廊下には、二か月前から魔力記録器が設置されています。不審者対策として、学院長が導入なさいました」
学院長が立ち上がり、重々しく告げた。
「記録を確認したところ、事件の前後にアルヴェイン侯爵令嬢およびその使用人が女子寮へ立ち入った形跡はありませんでした」
「記録器の故障よ!」
「故障しておりません」
リディアの返答は即座だった。
「なぜなら、その日の午後、ミレーヌ様ご自身が破かれていない教科書を抱えて部屋へ戻る姿が記録されているからです」
ミレーヌの顔から血の気が引いた。
「その一時間後、破られた教科書を手に廊下へ飛び出し、わたくしの名を叫んでおられます」
今度のざわめきは、先ほどよりも大きかった。
人々の視線がミレーヌへ集まる。
彼女はアレクシスの腕にしがみついた。
「違います、殿下! わたくしは怖くて、混乱して……」
「リディア!」
アレクシスが声を荒らげた。
「些細な食い違いを並べ、ミレーヌを追い詰めるな!」
「些細な食い違い」
リディアは、その言葉をゆっくり繰り返した。
「では、第三の確認をいたしましょう。毒物の件です」
広間の扉が開いた。
入ってきたのは、王宮騎士団長と数名の騎士。そして拘束された王子付きの侍従だった。
アレクシスが目を見開く。
「なぜ、その者を?」
騎士団長が国王の前にひざまずいた。
「ご報告申し上げます。王太子殿下の茶へ毒物を混入させた容疑で、侍従ロイドを拘束いたしました。本人はすでに自白しております」
「そんな……」
「なお、命令書にはミレーヌ男爵令嬢の署名がございました」
広間が凍りついた。
ミレーヌが後ずさる。
「偽物です! リディア様がわたくしを陥れるために!」
「筆跡鑑定は三名の文官が行いました」
騎士団長は淡々と続ける。
「さらに、命令書に付着していた封蝋は、ミレーヌ嬢が王太子殿下より贈られた私用印章と一致しております」
アレクシスが、隣の少女を見つめた。
「ミレーヌ……どういうことだ?」
「ち、違うのです。わたくしは殿下を傷つけたかったわけではありません!」
追い詰められたミレーヌは、ついに叫んだ。
「ほんの少し具合を悪くしていただくだけ! そこでリディア様の部屋から同じ薬が見つかれば、殿下は完全にあの方を嫌ってくださると思って!」
広間の誰もが、息をのんだ。
ミレーヌ自身が口を押さえる。
しかし、もう遅かった。
「なぜだ……」
アレクシスの声が震えた。
「なぜ、そんなことを」
「だって、殿下がいつまでもリディア様と比べるから!」
ミレーヌの目から涙があふれる。
「ダンスも、語学も、政治も、全部リディア様のほうが上。殿下はわたくしを愛していると言いながら、大事な仕事は全部あの方に任せていたではありませんか!」
その言葉に、貴族たちの視線が今度はアレクシスへ向いた。
リディアはため息をつく。
「正確には、殿下から押しつけられていたのですけれど」
「押しつけたとは何だ!」
「殿下が王太子として提出なさった政策案、過去三年分。すべてわたくしが作成いたしました」
「嘘をつくな!」
「では、内容についてお尋ねします」
リディアは書類を一枚取り出した。
「北部穀倉地帯に導入した新税制の、緊急時免税規定をご説明ください」
「それは……」
「南部街道の改修予算について、商業組合との負担割合は?」
「今ここで答える必要はない!」
「東方諸国との新たな貿易協定で、我が国が関税を引き下げる代わりに得た権利は?」
アレクシスの口は動いた。
だが、一言も出なかった。
リディアは書類を閉じる。
「以上三件は、殿下がご自身の最大の功績として発表なさった政策です」
老貴族たちが顔を見合わせる。
王国の財政を立て直し、民衆から王太子への支持を集めた政策。それらをアレクシス本人が理解していない。
国王の顔は、怒りで赤くなっていた。
「アレクシス。説明せよ」
「父上、これはリディアが私を陥れるために」
「作成記録はすべて保管しております」
リディアは国王へ一冊の帳面を差し出した。
「殿下から依頼を受けた日時、修正の履歴、参考とした資料。殿下ご自身の署名が入った依頼書もございます」
国王が帳面をめくるたび、その表情から怒りが消えていった。
最後に残ったのは、深い失望だった。
「愚か者が」
低い声が、広間に響く。
アレクシスの膝が震えた。
「ち、父上……」
「お前は己の婚約者に職務を押しつけ、その功績を奪い、あげく虚偽の証言だけで罪人に仕立てようとしたのか」
「私は王太子です! いずれ王になる人間です!」
「だからこそだ」
国王はゆっくりと立ち上がった。
「第一王子アレクシス。お前を王太子の座から解任する。今後の処遇は正式な調査ののち決定する」
アレクシスはその場に崩れ落ちた。
ミレーヌも騎士たちに連れられていく。
誰もがリディアを見ていた。
たった数分前まで、冷酷な悪女と呼ばれていた令嬢。
今や彼女こそが、王国を支えていた人物だと明らかになった。
王妃が優しく声をかける。
「リディア。あなたには、本当に申し訳ないことをしました。望むなら、第二王子との婚約を取り計らいましょう」
周囲の貴族たちがうなずく。
これほど優秀な令嬢を、王家から逃すべきではない。
だが、リディアは静かに首を横へ振った。
「ありがたいお申し出ではございますが、お断りいたします」
「なぜです?」
「わたくしは、本日をもって王国を離れますので」
再び広間がざわめく。
国王が慌てて口を開いた。
「待ちなさい。望む地位があるなら用意しよう。財務長官でも宰相補佐でも」
「いいえ、陛下」
リディアは穏やかに微笑んだ。
「三年間、わたくしは王家のために尽くしてまいりました。ですが、その働きは王子殿下の名で発表され、わたくしが何をしているのか、誰も知ろうとはなさいませんでした」
誰も反論できなかった。
「それでも婚約者の責務だと思い、耐えてまいりました。けれどついには、悪女として処罰されかけた」
彼女は一同を見渡す。
「ですから、もう十分です」
その声に憎しみはなかった。
だからこそ、言葉は誰の胸にも深く刺さった。
「しかし、王国の政策はどうなる?」
財務長官が青ざめて尋ねた。
「北部の収穫量予測も、隣国との交渉も、あなたが管理していたのでしょう?」
「必要な資料は整理して、王宮へ返却しております。ただし、今後の実務は皆様でお願いいたします」
「我々だけでは間に合わない!」
「ご安心ください」
リディアはにこやかに答えた。
「王太子殿下が、三年間にわたりご自身の功績だと公表なさっていたお仕事ですもの。きっと殿下が解決してくださいますわ」
壇上の隅で、アレクシスが絶望的な顔をする。
広間にいた者たちは、何も言えなかった。
これまで王子の華々しい成果を称賛しながら、その陰にいたリディアへ一度も目を向けなかったのは、彼ら自身だったからだ。
「では、皆様」
リディアは優雅に一礼した。
「ごきげんよう」
彼女は誰にも引き止める隙を与えず、広間をあとにした。
◇
半年後。
王都の市場には、見慣れない外国製品が並んでいた。
香辛料、時計、色鮮やかな織物。そして、これまで貴族しか買えなかった薬品。
それらを扱う商会の名は、アルヴェイン商会。
会長は、かつて悪役令嬢と呼ばれたリディアだった。
王国を離れた彼女は、隣国で自身の商会を立ち上げた。
政策立案で築いた知識と人脈を活用し、港湾都市の流通をわずか半年で立て直したのである。彼女の商会は国境を越えて成長し、今では王国の主要な輸入品の三割を扱っていた。
ある午後、リディアの執務室に来客が現れた。
「リディア、頼む。私を助けてくれ」
かつての第一王子、アレクシスだった。
王太子を解任された彼は、離宮での謹慎を命じられていた。以前の華やかさは見る影もなく、顔には疲労がにじんでいる。
「北部で凶作が起きた。備蓄の配分が追いつかない。このままでは」
「その件でしたら、すでに対処しております」
「何?」
「当商会が隣国から穀物を買い付け、北部へ送りました。昨日、第一便が到着したはずです」
アレクシスの顔が明るくなる。
「そうか! やはり君は、この国を見捨ててはいなかったのだな」
「ええ。困っている人々に、殿下への不満の代償を払わせるつもりはございませんから」
リディアは契約書を机に置いた。
「もちろん、正式な商取引です。代金は王家へ請求しております」
アレクシスは契約書を見つめた。
金額は適正だった。
高すぎず、安すぎもしない。
彼女は救いの手を差し伸べたのではない。対等な事業者として、王国と取引しただけなのだ。
「リディア……私は間違っていた」
「そうでしょうね」
「もう一度、私を支えてくれないか?」
リディアは紅茶のカップを置いた。
「お断りいたします」
迷いのない返事だった。
「今回だけではない。これから私は変わる。君の意見を聞き、功績も正当に評価すると誓う」
「殿下」
「何だ?」
「わたくしは今、とても忙しいのです」
壁には大陸全土の地図が掛けられていた。
主要都市には、いくつもの印が付けられている。
「来月、新しい航路を開きます。孤児院へ無償の学校も併設します。それから、女性が家柄にかかわらず学べる商業学院も設立する予定です」
リディアは楽しそうに予定を語った。
婚約者だったころには、一度も見せなかった表情だった。
アレクシスは、ようやく理解した。
彼女は自分を失ったのではない。
自分こそが、彼女を失ったのだ。
しかも彼女は、もう振り返ることすらない。
「お帰りください、アレクシス様」
かつてなら「殿下」と呼んだ。
その呼称すら、もう彼女の口から出ることはなかった。
アレクシスは何も言えず、執務室を去った。
扉が閉まると、秘書が心配そうに尋ねる。
「よろしかったのですか?」
「ええ」
リディアは窓の外を見た。
商会の中庭では、平民出身の若者たちが新商品の積み込みを行っている。遠くに見える港には、彼女の旗を掲げた船が停泊していた。
「わたくしを悪役にしなければ成り立たない物語など、こちらからお断りですわ」
窓を開けると、潮の香りを含んだ風が黒髪を揺らした。
自由の匂いだった。
「さて、次のお仕事を始めましょう」
その後、アルヴェイン商会は大陸最大の商会へと成長した。
リディアが設立した学校からは、身分や性別にかかわらず多くの人材が巣立ち、各国で活躍したという。
一方、かつて彼女を悪女と呼んだ者たちは、その名を二度と口にしなかった。
言えなくなったのではない。
リディアが築いた街で暮らし、彼女の商会が運んだ品を使い、彼女の制度に守られて生きるうちに、ようやく気づいたのだ。
本当の悪役は、彼女ではなかった。
優秀な一人の女性を都合よく利用し、理解しようともせず、声の大きい者の言葉だけを信じた。
自分たちこそが、彼女の物語における愚かな脇役だったのだと。
そしてリディアは、彼らが後悔する姿を見ることなく、今日も新しい海へ船を出す。
復讐よりも成功を。
謝罪よりも自由を。
失った婚約よりも、まだ見ぬ世界を手に入れるために。




