『ズレた歯車の先…』
彼女の人生は、ずっと思い通りだった。
二十六歳で恋をして、結婚して、子どもを持った。
欲しいものは、欲しいと思えば手に入った。
家を買い、子どもを育て、夫婦としての年月を重ねる。
周囲から見れば、何も問題のない人生だった。
彼女自身も、そう思っていた。
「私の人生、順調よね」
そう言って笑ったこともある。
けれど、人生というものは、大きく崩れる前に、ほんの少しずつ歯車をずらしていく。
最初は、本当に小さな違和感だった。
夫との会話が減った。
家族で出かける回数が減った。
子どもが成長して、家の中が少しずつ静かになった。
それでも彼女は気にしなかった。
「まあ、そんなものよ」
そう思っていた。
次の歯車がズレたときも、まだ気づかなかった。
友人との関係が変わった。
親との関係も変わった。
昔は当たり前だった場所に、自分の居場所がなくなっていった。
それでも、彼女にはまだ「自分の人生」があった。
仕事があり、家があり、生活がある。
だから、見ないふりができた。
そして二十年近くが経った。
振り返れば、何か一つの出来事が人生を変えたわけではなかった。
小さなズレが積み重なっただけだった。
一度目のズレ。
二度目のズレ。
そして、気づいたときには、最初に思い描いていた人生とは、まるで違う場所にいた。
ある日、彼女は引っ越しの荷物を段ボールに詰めていた。
二十年前には想像もしなかった場所へ行くことに。
「どうして、こうなったんだろう」
手を止めて、部屋を見渡す。
笑った。
泣いた。
ここで家族を毎朝送り出した。
ここで、たくさんの「当たり前」を積み重ねた。
それなのに。
今、その当たり前を一つずつ箱にしまっている。
不思議だった。
悲しいはずなのに、涙は出ない。
むしろ、少しだけ笑えた。
人生は、思い通りにはならない。
でも、不思議なことに、
思い通りにならなかったからこそ、行ける場所もあるはずだ。
彼女は最後の箱を閉じた。
そして、部屋の電気を消した。
二十年、自分が生きてきた場所を後にして、新しい環境へ向かう。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、もう昔のように「こうなるはず」と未来を決めつけることもしなかった。
人生の歯車は、きっとこれからもズレる。
予定通りにはいかない。
思い描いた通りにもならない。
だからこそ。
今度は、ズレた歯車の先に何があるのかを見てみようと思った。
彼女は鍵を閉めた。
そして、一度だけ振り返る。
「さようなら」
誰に言ったのか、自分でもわからない。
過去に向けてなのか。
二十年前の自分に向けてなのか。
それとも、思い通りになる人生そのものか。
彼女は歩き出した。
新しい場所へ。
もう、何も決まっていない人生へ。
それは、失った人生ではない。
二十年かけて、少しずつズレていった歯車が、
ようやく別の未来を動かし始めた瞬間だった。




