閑話 月江梓の隠し事
【梓視点】
月江家の玄関の扉を開けた瞬間、冷ややかな声が飛ばされた。
「お姉様。四十五分の遅刻です」
仁王立ちしていたのは、二つ下の妹、雫だった。
私とよくに似た顔立ちをしているが、眼鏡はかけていない。
そのジト目が、逃がさないと言わんばかりに私を射抜いて、少し委縮してしまう。
「ご、ごめんね。電車の乗り継ぎがうまくいかなくて……」
「嘘ですね。GPSのログは見ました。お姉様はどこかで油を売っていましたね。あれはどこですか? 誰かの家だったように見受けられましたが」
その通りだった。
GPSがある以上、言い訳は聞かない。
私は俯き、処刑を待つ罪人のような心地でいると、雫は長い溜息を吐いて私の顔を覗き込んだ。
「……お母様には図書館での調べものが長引いたと伝えてあります」
「雫……! ありがとう、助かります!」
顔を上げると、雫はふいっと視線を逸らした。
「お礼には及びません。私の管理不行き届きだと思われたくないだけですから」
ツンと顔を背ける雫だが、その耳は少し赤い。
厳しいけれど、雫は私想いの優しい子。
でも今度からは気を付けないと……!
私はホッとして靴を脱ぐと、雫から不思議そうな調子で声が投げられた。
「……何がそんなに嬉しいんですか?」
「え?」
「さっきから顔がにやついています。いいことでもあったのかなと」
雫が怪訝そうに眉を寄せる。
あれ。私、にやにやしているつもりじゃなかったのに。
今日のことが嬉しくて、自然と緩んでいたのかな?
と、ともかく。こんなだらしない顔をこの家で見せる訳にはいかない……!
私は慌てて表情を引き締めた──つもりだったが、頬の熱が隠せてないことに気付く。
私は平静を装いつつ、その場を取り繕った。
「な、なんでもないよ。ただお友達と、少しお話ができただけで……」
「ふーん。お友達、ねぇ……」
雫はいまいち腑に落ちてない様に「まぁいいでしょう」と踵を返した。
どうやら、それ以上の追及は免れたようだ。
私は胸を撫で下ろし、自分の部屋へと足を急がせた。
◆◆◆
自室に入り、鍵をかける。
その瞬間、張っていた緊張の糸がぷつりと切れて、私はベッドに飛び込んだ。
「~~~~~~~~っ!!」
枕に顔を埋め、足をばたばた。
声にならない叫びが、喉の奥で爆発する。
やった。やってしまった。
憧れの佐倉先生──来栖若菜さんの家に上がり込んで。いやそれ以前に「小説のネタにしてください」なんて大胆な提案をしてしまった!
仰向けになり、天井を見上げる。
右手をかざせば、そこには来栖さんの指の感触が残っているような気がした。
『恋人繋ぎ、じゃないですこれ?』
『そうとも言うらしいですね』
──らしいじゃないよ私。さすがに恋人繋ぎの存在は知っている!
なんであの場面でとぼけるようなこと言っちゃったんだろう……!
「うわぁぁぁぁ……!」
思い出して、恥ずかしさが津波のように押し寄せてくる。
それに私、えろいって言われちゃった。
そんなつもり無かったのに……。
そんなつもり無かったのに!
「恥ずかしい……けど」
それでも。今は。
「……よくやったよね、私」
今は自分の頭を撫でてあげたい気分だった。
来栖さんのこと、私はいつも遠くから見ているだけだった。
教室の隅、光の当たらない場所で物語を紡ぐ彼女こそが、私にとって一番の光だった。
その光に、私はついに自分から手を伸ばすことができたのだ。
「友達……」
別れ際に言われた言葉を反芻する。
胸が温まる。私はもう一度、枕に顔を埋めて、今度は静かに喜びを嚙みしめた。
ひとしきり悶えた後、私はむくりと起き上がりスクールバッグからハンカチに包まれた二冊の本を取り出した。震える手でそれを開く。
『月江梓さんへ 佐倉わか』
少し線が震えているサイン。
それがまた、彼女の緊張を伝えてくれているようで愛おしい。
私はその文字を指でなぞり、うっとりと溜息をついた。
「さ……」
問題はこれを隠さなければならないということ。
私の部屋の大きな本棚には難解な哲学書や、歴史の専門書が並んでいる。
母が推奨する教養のための本たち。ここにラノベなんて並べられない。
見つかれば即座に没収、最悪の場合は処分されてしまうだろう。
私は本棚の一番下段に向かった。
分厚いハードカバーの本を数冊、慎重に取り出す。
するとその奥に空間が現れた。
さらに奥の背板に見える部分は、実はダミーのカモフラージュ。
「ここなら、安全」
私はサイン本を一番目立つ特等席に飾った。
まるで祭壇に御神体を奉納するような厳かな気持ちで。
「……えへへ」
これを見るたび、私は今日の勇気を思い出せる。
また明日、来栖さんに話しかけよう。
今日できなかった話をたくさんして、もっと来栖さんのことを知ろう。
想像するだけで、私の胸は高鳴って、そしてまた顔が熱くなった。
それに今日は。
来栖さんの家族がいなくて、ちょっと安心した、な。




