第6話 正しいプロローグの作り方
夕食後のリビング。
バラエティ番組の笑い声がBGMとして流れる中、私は食後の茶碗を洗っていた。
──つもりだったのだが、手は完全に止まっていたらしい。
「ねぇ、お姉ちゃん。さっきから同じ皿、五分くらい撫でまわしてるけど」
呆れたような声に、ハッとして顔を上げる。
テーブルでスマホをいじっていた妹の美波がジト目でこちらを見ていた。
「え、あ。ごめん。考えごとしてて」
「ふーん。なんか珍しいね。嫌なことでもあった?」
「いや全然そんなことじゃないよ」
私は皿をすすぎ、水切りカゴに置いた。
脳裏に焼き付いているのは、数時間前の出来事。
月江さんという嵐が去った後の、あの手の感触。
──ひんやりとして、柔らかくて。指と指が絡み合った時の、吸い付くような密着感。
……初めての感触だった。
感触というか感覚?
もう一度、あの感覚を思い出したい。
私はタオルで水気を拭き取ると、美波の元へ歩みを向ける。
「美波、ちょっと手かして?」
「いまゲームしてるから待って」
「片手でいいから」
「はーい」
私は美波の隣に座り、彼女の右手を掴む。
「えっなに!? てかつめたっ!」
「ちょっとじっとしてて」
私は自分の指を、美波の指の間に滑り込ませた。月江さんにされたような恋人繋ぎ。
「…………」
美波の手は、部活でサックスを吹いているせいか指先が固い。
体温は高くて、指先以外はすぷにぷにしててスクイーズみたいで楽しい。
でも、それだけだ。
「んー……ちがう」
あの時の、高揚感は無い。
心臓が脈打つこともなければ、顔が熱を帯びることも無かった。
「お姉ちゃんなんかキモくない!?」
美波が感電したかのように手を振り払う。
まって、露骨にドン引きしないで!
たしかにちょっとキモかったかもだけど!
「なになに、私と手繋いで。お姉ちゃん春きたの? 高校デビュー? 彼氏できた?」
「いやそんなんじゃないけどさ……」
「えー? じゃあ何その『確かめちゃいました』みたいな顔。絶対好きな人と手ぇ繋いだりしたんでしょー。っていうか、むしろ言われ待ちしてた? 私、察し良すぎ?」
にやにやとゲームしながら器用に肘で付いてくる。
私に彼氏ができるわけないだろ!
手は繋いだけど、女の子だし。お姉ちゃんのファンってだけだし。
あれ。文字にすると、私ファンの子に手を出す激イタ作家になってないか!?
「小説のネタ! そんなんじゃありません!」
私は美波のニヤニヤ顔から逃げるように、リビングを後にした。
階段を一つ飛ばしで駆け上がり、自室へと飛び込む。
部屋の鍵をかちゃりとかけて、私はふぅと溜息を吐いた。
静まり返った部屋には、まだ月江さんがいた余韻が残っている。
微かに残る甘い香り。私は自分の右手をぎゅっと握りしめる。
美波の手で上書きしたつもりだったけど、やっぱり消えていない。
あの震えるような緊張と、溶けるとうな温度。
「……書かなきゃ」
今しか書けない気がする。
この熱が冷めてしまう前に。
「よし……!」
私は机に向かい、ノートPCを立ち上げる。
画面には、書きかけのプロローグが表示されていた。
『ごきげんよう。わたくしは──』
テンプレートなお嬢様口調。
ステレオタイプの箱入り娘。
これを読んだ担当の伊織さんは「生の反応がない」と言った。
なんとなく、今ならその意味が分かる気がする。
「……うん。消そう」
私は躊躇なくバックスペースを押した。
文字が消えていく。今までの構想が白紙に戻る。
でも、不思議と怖くは無かった。
代わりにその白紙に浮かぶのは月江さんの姿。
彼女は完璧なお嬢様のようで、普通の女の子だった。
マニアックな趣味があって、少し変わってて、でも好きなものには一直線。
私はキーボードに指を置く。
ヒロインの設定を変えよう。
一人称はもっと普通で、口調も普通に。
高嶺の花のようで、実は普通の感性を持った女の子。
そして主人公。
今までは男らしさとか、王子様っぽい女子をイメージしていたけどこれもやめ。
もっと、私に近い人間にしよう。クラスの隅っこにいて、根暗で、でも何か一つだけ誰にも譲れない『小説家』という秘密を抱えているような──。
カタカタ、とキーボードを叩く音が部屋に響く。
リズムが生まれて、指が踊る。
──出会いのシーン。
もっと日常的な場所がいいかもしれない。
でも、インパクトは必要だ。
私は思い出す。
夕暮れの校舎裏。
逆光の中で揺れる三つ編み。
彼女が真っすぐ私の本を差し出してきた、あの瞬間。
私のファンだと言ってくれた、あの熱を帯びた瞳を。
指が動く。動く。動く。
スランプで泥沼のようだった思考が、嘘のように透き通っていた。
頭の中で、ヒロインが勝手に動き出す。
主人公が彼女に翻弄されながらも惹かれていく様子が、今の私になら分かった。
「…………よし」
気付けば数時間が経過していた。
私はエンターキーを強く叩き、大きく息を吐いた。
画面には書き直されたプロローグ。
まだ粗削りだけど、そこには確かに体温があった。
記号ではない、生きたキャラクターたちの息遣いがあった。
「……悪くない、かも」
私はモニターに映る文字列を見つめ、小さく呟いた。
もちろん明日読み返したら、直したいところはたくさん出てくるだろうけど……。
それでも今は、ここまで書くことができた。今の私にとってはそれで充分!
これを直していけば、伊織さんも文句は言わない、と思う。
でも、今はそれ以上に。
月江さんが読んだら、喜んでくれるかな。




