魔女と珈琲 ― ボール・ドゥ・メールへようこそ ―
かつての魔女も、きっと同じだったのだろうと、本条渚は思う。カウンセラー、セラピスト、占い師……、現代の魔女はそれぞれの術を活かした仕事をしている。魔法といっても、だいたいその程度なのは今も昔も、おそらく変わらないだろう。
それは時に不可思議なこととして、時に確率の問題として、時には作為の結果として、魔法でも使ったかのように見えるだけ。
本条渚もまた、そんなありふれた、自称現代の魔女のうちの一人にすぎない。人と変わった何かがあるとすれば、相手の声を色として感じるという、いささか個性的に過ぎる共感覚者であるということだった。
その言葉が喜びに包まれていれば橙色に、嘘に塗れていれば灰色に、疲れていれば黒色に、悲しければ青色に、優しさであれば赤色に、そうやって感じ取ってしまう。それが渚の共感覚。
仕事はといえば、ただの喫茶店の店主に過ぎない。この国とも異国ともつかない、半端な古民家を改装した喫茶店「ボール・ドゥ・メール」。店名は渚を意味する異国の言葉、特に波打ち際を指す言葉から取っていた。深い意味はなく、ただ語感が気に入ったからつけた名前。もちろん波のように寄せるほど客が来ることはなく、この街の無機質な大海の中にポツンと浮かぶ、ありふれた店でしかない。
◇◆◇◆◇
短すぎる秋が終わり、いつの間にか冬になっていたこの日、一人の客が来ていた。背格好は平凡で、どこかやつれた顔をした青年。真昼間からスーツも着ないで喫茶店に足を運ぶくらいだから、ろくな仕事をしているわけではないだろうと、渚は思う。思いはするが口には出さない。その程度の分別は持ち合わせていた。
「コーヒーを一つ、できれば苦いやつを頼むよ」
青年は注文を済ませると、やたら厚みのあるショルダーバッグからノートパソコンを取り出す。使い古されて傷や汚れがそのままにされたその表面は、青年と同じくらいくたびれて見える。
注文の声は、深藍色。あまり見かけない声の色だった。渚はコーヒーを淹れる準備をしながら、その色はいったいどんな感情なのだろうかと、少しだけ興味が湧いた。
「お仕事ですか?」
カウンター越しに、背を向けたまま青年に声をかける。厨房と呼べるようなものですらない小さなキッチンではコーヒーメーカーを置くことができず、渚は仕方ないので壁に据え付けられた収納のうち、一番低い位置に無理やりそれを置いていた。それゆえ、コーヒーを淹れる時は客の顔を見ることができない。
「仕事と呼べるものかは、わからないけどね」
今度はうっすら黒い言葉。きっと疲れているのだろう。何に疲れているのかはわからないが。仕事なのかそうなのかすら曖昧な青年の返事に、渚の好奇心がまた刺激される。
「このお店、だいぶ古そうだね」
赤い色の言葉が続く。この店の佇まいを気に入ったのだろうか。それとも人で溢れかえった東京の中で、ここは客足がすっかり遠いことに安心でもしたのだろうか。人疲れという言葉もある。この街は、歩いているだけでも疲れる街であることは間違いない。どこを見ても人がいない場所がない。
「居抜きです。取り壊すよりは有効活用する、古民家のリサイクル」
渚は、いつもよりは丁寧に、しかし相変わらず背を向けたまま答えを返す。この街は古くなれば更地にして新しい物を立て直す。そんなことを繰り返して貪欲に成長し続けている。しかし、自治体のなけなしの予算を使って古民家を残そうという施策が試みられることもある。一つや二つ残したところで街並みは変わり果ててしまうだろうにと渚は思う。その一方で、その恩恵もあって、この奇妙な作りの年季の入った風情ある喫茶店が開店できたのも、また事実だった。
「きっとここに住んでいた人は、大切に使っていたんだろうね」
赤色と橙色を混ぜたような声。ようやく淹れ終わった珈琲を出すべく、茶菓子の準備をしながら青年を見ると、一つの柱を見つめていた。古ぼけた、いくつか刻み込んだような傷のある焦げ茶色の木の柱。
「あの線、子どもの成長に合わせて刻んだ跡だよ。随分と背が伸びるのが早かったんじゃないかな」
再び赤色の声。その声に、渚はこの青年が、見た目はくたびれた顔をしていても優しい性格なのだろうと思った。柱にある刻み傷のことなど、渚は気にしたこともなかったので、驚きもした。
この古民家は、最後の老夫婦が亡くなって十年後、誰も引き取り手がおらず、とはいえ趣きだけはあるので残して欲しいという声があり残されたという話だった。こじんまりした庭には一本の大きな桜の太い木があり、春の訪れとともに通りに張り出した枝に見事な花を咲かせることで地元には愛されている。
おそらく近隣の人々が残したかったのはその桜なのだろう。だから古民家が喫茶店になった時も、最初こそ物珍しさに客は多かったものの、それはたった数か月で終わり閑散とした店だけが今もこうして残っているというわけだった。桜が咲く頃だけはスマホで写真に撮ろうと壁の外には人が集まりはする。しかしそれだけ。冬ともなれば訪れる人はむしろ稀だった。
「はい、ご注文の珈琲。お茶受けはサービスで」
渚はそう言ってカウンターの上に珈琲と茶菓子を乗せた小皿を並べる。ロブスタ種のフレンチロースト。豆そのものの苦味を引き出す深煎りのそれは、独特の酸味と苦味が入り混じった香りを漂わせている。
「こいつは、なかなか美味しそうだ」
橙色の声で青年が呟く。珈琲を褒められるのは悪い気はしない。豆も焙煎も拘っていたし、この店で売りになるものといえばそれしかない。
青年はゆっくりと味わうように珈琲に口をつける。その所作に無駄はなく、他の客と比べるとこういう機会を過ごすことが多いのだろうと、渚は思う。珈琲一つとっても、立ち居振る舞いというものは表に出る。それを知らない人は、大抵カップの扱いや飲み方、そういったところに雑さが残るのだ。
「ずいぶんと手慣れてますね」
不意にかけられた渚の言葉に、青年はハッとした顔になる。珈琲の飲み方くらいで手慣れているなどと言われることは、そうそうある話でもない。そんな驚いた顔はすぐに消え、今度は憂鬱な顔になる。小さな喫茶店には似合わない、しかし雰囲気はよくマッチしている大時計が十六時を告げる。今時珍しい振り子時計の鳴らす音は、見た目通りの古風なそれ。
「もうこんな時間ですか……」
青色と黒色が混交した声で、青年が溜息を漏らす。先ほどから開いたノートパソコンは一切触れられることなく、いつの間にかスリープモードに入っていた。その画面は珈琲のように黒い。
「実は、作家なんですよ。十六時、今日のその時間が締切でした。まだ何も書けていないんですけどね。駄目なやつです、僕ってやつは」
苦笑を浮かべて吐き出した言葉は黒緋くろあけ色。どこか疲れていて、同時にそんな自分を許してやりたい気持ちが残る色だった。
「それじゃ、私のことでも、書いてみます?」
渚はつい口に出た言葉に、内心驚く。作家の書く作品のモデルになるなど、もちろん考えたことなど無かったし、今の仕事はただの喫茶店の店主。物語になるようなドラマチックな人生を歩んできたわけでもない。
「私、言葉が色でわかるんですよ」
そう切り出した後は、ひとしきり共感覚者特有の言葉の色についての話で盛り上がり、気づけば夜も二十一時。青年は遅れに遅れた原稿を仕上げてメールを送る。
「今日はずいぶんと長居しちゃいましたね。今度改めてお礼を持ってきますから」
赤色の言葉は、少しだけ紅色に近かった。紅色の感情が何だったか、渚はそれを考えることを止め、軽く一礼して青年を見送った。
◇◆◇◆◇
いつもよりだいぶ遅めの帰宅。家では黒猫のネネが待ってましたと鳴き、餌をねだる。太るからと置き餌をしていない渚も、この日ばかりは遅くなった晩御飯を申し訳なく思いつつ、ふと呟いた。
「ネネ、今日のあれは、魔法だったのかしら?」
寝巻に着替える渚に、黒猫のネネはただ一言にゃぁと鳴いて答えると、再び食べかけの猫餌を食べ始める。
その日、宵闇を照らす満月は、満ち足りた心を映したかのように、いつになく輝いて、東京の空を彩っていた。冬の夜空は、少しだけ澄んでいて、それが渚の気持ちを心地よく包み込んでいく……。
本作はカクヨムでも公開しております。
本文を一部を改変していますが、おおむねほぼそのままです。
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