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パンとサーカスと、自転車に乗って  作者: 常に移動する点P


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第三十話・秀一の心のコップ

『僕はどうやら、ここに幽閉されるらしい。ほとんど軟禁だ。入院費用の詐欺、片棒を担いでいることは薄々気づいていたが、最近じゃよくわからない検査も増えてきて。一体だれがグルなのか。母さんも見舞いにもこなくなったし。代わりに、秀一のおばあちゃんがよく来るんだ』

 咲江が正美の看病に行っていたこと、秀一は気づいていた。咲江を問いただしたのは、その夜だった。家に帰る途中で、バイクで轢き逃げ事故があったせいで通りを迂回しなければならなかった。後でニュースサイトで調べると、杉浦杏子という女性が轢き逃げ事故にあったと出ていた。咲江宛によく電話をかけてきた女性だったことを秀一は覚えていた。

「咲江さん、今日は誰も来ないの?」

「そうだね、今日は秀一と二人だよ」

 いつもは夕飯時になると誰かが咲江を訪ねてくる。わかっていた。宗教の勧誘だ。

「要点だけサッと言うから、咲江さんって正美のお母さんだよね」

 咲江が持っている湯呑が静かに波打った。秀一はその動揺を見逃さなかった。明らかに何かを隠している。

「どうしたのよ?」

 目を丸くした咲江が取り繕うようにして、言葉を絞り出した。その視線はすぐに背けられた。目を合わせると心が読まれるとでもおもっているのだろうか、と秀一は思った。

「いや、はい・いいえ、で答えて欲しいんだ」

 狭いキッチンに沈黙が流れる。流しの蛇口からポチャンと水滴が食事を終えた茶碗に堕ちる。小さな音が響くほど、二人の間には静寂がこれみよがしに包み込んでいた。

「そうよ、隠しても仕方ないことね」

 咲江は案外すぐに観念した。時間が十分に余っているのにもうテストの答案を提出して席を立つ学生のように。諦めが肝心とでもいいたのだろうか。

「僕のお母さんは、千賀子という人だね」

「そうよ」

「父さんは、岩城島勝一。で、千賀子という人は咲江さんの養女」

「そうよ」

 フリーダイヤルの電話案内の機械音のように咲江は、そうよ、を繰り返す。

「正美の本名は、龍一。僕は秀一。二人の父親は、同じ岩城島勝一。名前に一を付けてるあたりが親としての唯一の執着だったのだろうな」

「そうかもね。正美くんは、重野さんに養子縁組してもらったし、秀一は母親の千賀子に育ててもらったけど、彼女産後に鬱になっちゃって。私たちの信者の夫婦にしばらく預かってもらっていたのよ。ちなみに、一花さんってのは千賀子のもう一つの芸名」

 うっすらある両親の記憶自体、咲江さんが作り出したものだったのか。母さんのことを一花と記憶していたことが間違っていなくて秀一はホッとした。

「本当のお母さんに会いたいの?それなら無理よ」

「うん、もう亡くなってるって知ってる」

 秀一は静かに息を飲み、力強く吐き出しながら答えた。

「どうして欲しいの?」

「全部話してもらえるかな」

「誰に?」

「今ここで、僕に」

「いいわよ。どこから訊きたい?」

「最初から」

 咲江は観念したのか、この日を待ちわびていたのか重しのように自分に乗っかかり続けた子供たちの生い立ちを語った。その中には、咲江の最初の夫だった、林原保次郎の話も出てきた。大原甚次郎と名乗ったり、林原保次郎と名乗ったり、婿養子となり早田姓、久保隅姓、を行き来した男だった。正美こと龍一と秀一、二人の父親である岩城島勝一は早田姓だけ名乗っていたということだった。

 秀一が疑問に思ったのは、自分が血縁関係もないはずの甚次郎であり保次郎であり、晩年は保谷求堂と名乗った咲江の最初の夫の超能力が遺伝するはずもないということだった。保谷求堂の超能力は【火炎】【回復】【蘇生】【瞬間移動】【呪い】だと、咲江さんから訊いたことがあった。

「僕の火炎の超能力って、これはいったいどういうことなの?」

「ハハハッ、ハハハァッ、苦しいアハハははhhh」

 咲江が狂ったように笑う。

「それはね、学校の先生に頼んで、仕込んでもらったの。あの先生、教団の信者なのよ。親子二代の熱心な」

 だろうなと思っていた疑問がはじけた。出したい時に出せない超能力、咲江が仕込んでいたことに秀一はがっかりするどころか、穏やかな気持ちになり胸をなでおろした。自分はただの普通の人間だということに安堵した。



 全て動画に納め、秀一は正美のチャンネルで限定公開で共有した。正美の反応は意外にも落ち着いていて、秀一と異父兄弟だという確たる証拠を手に入れて喜んでいるようだった。そして、正美から最後の限定公開の動画がアップされた。二つの殺害について計画されたものだった。

 ひとつは、一ツ橋要の殺害。正美は母が懇意にしていたニセ弁護士一ツ橋をずっと怪しいと睨んでいた。自分をバイクではねたのは一ツ橋だとアタリをつけていた。


 秀一に頼んで病院のトイレで入れ替わり、一ツ橋のアパートの駐車場を確認した。事故を起こしたとみられるバイクを持ち去る不審な男がいた。正美は一ツ橋のボロアパートのドアを三度ノックし、二度チャイムを鳴らした。

 一ツ橋は出てきそうになかったので、正美は、下の二〇二のものですが、バイクどけてもらえませんか?と言った。すぐにドアが開いた。サバイバルナイフを持った正美は、そのまま一ツ橋を室内に入れるように促し、ロープで吊るして自殺に仕立てた。自身をバイクで轢いたことを確認してのことだ。母、英子が全部しゃべったとカマをかけると、正美を轢いたことは英子と咲江に依頼されてのことだと白状した。杉浦杏子のことは事故だと抗弁したが、正美にはどうでもよかった。


 もう一つの殺害は、咲江だった。正美は一晩で二人の殺害をおこなった。一ツ橋を自殺に見せかけて絞殺したあと、正美はその足で秀一の家に向かう。咲江は昨日、秀一に全てを告白したことでどこか晴れ晴れとしていたのだろう。そして、油断していた。風呂場の咲江はいつも鍵をかける。だが、その日は鍵をかけていなかった。秀一の帰宅に見せかけて正美は侵入した。靴裏にビニールをかぶせて、二重に手袋をした。シャワーの音が聞こえる浴室へと向かい、咲江を問いただそうとした。実母に訊きたいことは山ほどあった。だが、咲江は浴槽に沈んでいた。近くには遺書があった。正美は冷静に脈を取ってみたが、既に瞳孔が開いていたのであきらめた。遺書に書かれていたとおりに、粗末な服を着せた。

 宇治川の河川敷に捨てて欲しいとも書かれていた。正美は秀一に電話をかけ、病院から抜け出すように言った。理由は言わなかった。病院の警備の隙を見計らって、抜け出し自宅へと戻った秀一は咲江が殺害されたとばかり思っていた。正美から自死だったことを告げられ簡潔すぎる遺書を読んだ。昨日の潔い咲江の姿にどこか覚悟めいたものがあったのだと思い返した。

 二人は亡くなった咲江をガレージの車に乗せて、宇治川の河川敷近くまで運んだ。免許は持っていなかったが、見よう見まねの無免許運転でもどうにかなった。


 咲江の遺書にはひとこと、千賀子への詫びが書かれていた。秀一は正美の恨みに付き合っただけだが、自分の人生を狂わせた咲江に深い感情が湧いてこなかった。この人はどうして、こんな生き方しかできなかったのだろうか、考えても無駄だと思ったが自宅に車を戻し、正美は、「ごめん、でもありがとう」とだけ言って走り去った。秀一は追いかけることはなかった。そのまま、陽子と紗智に連絡し咲江が以前契約していた別宅に二人を狂言誘拐することで正美の逃亡の時間稼ぎを画策した。


 秀一は正美への連絡手段としてなお、Zユーブの限定公開という方法を利用していた。

そして、秀一は陽子と紗智に正美逃亡のための手助けのための狂言誘拐に付き合って欲しいとすべてを吐露したのだった。十七歳には重すぎる現実をまた、秀一も受け止めきれなかったのだ。コップギリギリまで注がれた水。表面張力で保っていた秀一の心は、陽子と紗智といった年齢こそ大きく違う二人の女性によって決壊したのだ。


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