天使のサービス
目が覚めると、そこは見渡す限りの白だった。病院の天井ではない、そもそも人工物の存在しない世界。春真はゆっくりと体を起こすと、右に左に視線を向け、そしてため息をついた。
やはり、白い。どこまで行っても続く白。リノリウムのように無機質ではないものの、白一色の景色は春真に不安を抱かせた。
「ここは……」
春真は腕で体を掻き抱きながらぽつりと漏らす。どこか雲がかった、何もない世界を1歩1歩踏みしめていく。
ここに来る前、と言った方がいいのだろうか。あの学校での日々が春真の頭にまざまざと蘇った。
そうだ、冬弥に返事をしなきゃいけないんだった。答えは、まだ決めかねている。でも少なくともノーではない。
冬弥とは小さい頃から一緒で、時々その視線に友情を超えた何かが混ざっているのは感じていた。
その視線に対して、少なくとも不快だと思ったことは無い。だから、お断りということは、絶対にない。ただ、突然のことだったので、恋人になる、というイメージが湧かないだけなのだ。
春真は後ろを振り返った。もしかすると、ここを反対側に歩けば戻れるのではないか。1歩、元来た道へと足を踏み出す。
その時だった。
「戻れませんよ。えっと……芽吹 春真さんでしたっけ?」
春真は驚きのあまり後ろへすっ転ぶ。当然だ、誰もいないと思っていたはずなのに、急に名前を呼ばれたらそうもなるだろう。転んだ拍子に売った尻が痛い。
「うわっ……。な、なんだ?」
床に手をついたまま、声の主の姿をゆっくりと見上げる。柔らかそうなふわふわとした金色の髪。透きとおるような青の瞳。そして何よりも。
「そ、それ、背中のって……」
春真がおそるおそるその人物の背中を指さした。
そこには、鳥とよく似た、しかし真っ白い翼が生えている。翼の生えた生き物が、くすりと笑い声を漏らした。
「ふふ、私は天使です。背中のは羽ですよ、見れば分かるでしょう?」
「てん、し……」
春真はその言葉を繰り返した。どこか焦点の合わない目で目の前で浮いている彼を眺める。
「ええ。ところで芽吹春真さん。単刀直入に言うんですけど。貴方、人生をやり直す気、ありませんか?」
「……は?」
思わず漏れた声。ぽかんと間抜けにも口を開けたまま天使をじっと見つめた。
その様子に天使、と名乗った人物はぱちくりと数回目を瞬かせると、しばし腕を組み、やがて、ぽん、と手を打った。
「ああ、説明がまだでしたね! すみません、人間の理解力が思ったより低いことを忘れていました。」
理解力が低いって……いきなり失礼なやつだな。
喉元まで出かけた言葉を飲み込んで、頷くことで先を促す。しかめっ面の彼にはお構い無しで、天使は揚々と言葉を続けた。
「ここは天上界、と呼ばれる場所です。といってもまだ低層階なのでかなり地上に近いですが。ここまでは分かります?」
「いや、わかんないし。それに天上界って……それじゃあ俺が死んだみたいな……」
「やだなぁ。死んでるんですよ。じゃなきゃ人間がこんなところまで来られるはずないじゃないですか」
春真は言葉を失った。薄々そんな気がしていたが、まさか本当にそうだとは。彼が黙りこくったのを了解ととったのか、天使は言葉を続けた。
「それで、私は修行中の天使です。修行を進めるためには、人間を誰かひとり救わないといけないのです。
全くもって困りました、天上界に人間はいないし、地上なんて醜くて、降りる気すらしない。
地獄なんてもってのほかです。なぜ自業自得の罪人を助けなくてはいけないのでしょうか、私は高貴な存在だというのに」
「いや、天使だからでは……?」
思わず突っ込んでしまった。なんだろう、天使ってもう少しこう、純粋な存在じゃなかったのか?春真は思い描いていた天使像がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。
しかし天使は全く気にしていない様子で喋り続ける。
「そこで私は気づきました、入口あたりでさまよっている人間を適当に救ってしまえばいいのだと。
地獄で救おうが、入口ギリギリのところで救けようが1カウントは1カウントです。
ということで! 私は今誰かを救いたくてたまらないんですよ!
貴方、実は現世でやり残したこととかあったりしません? 今なら出血大サービス! ほら、何かあるでしょう?」
「いや…………」
急にそんなことを言われても、困る。自分が死んだらしいってことですら頭が追いつかないのに。というかなんだこの天使は。私利私欲にもほどがあるだろ。
それに加えて天上界やら修行やら、情報過多で頭がこんがらがりそうだ。
天使は、悠然と春真の周りを飛び回り、その回答を今か今かと目を輝かせて待っている。
「ねえ、やり残したこと、あるんでしょう? 僕、知ってるんですから。ほらどうです?
もう1回現世に、なんて滅多にない機会ですよ?せっかくの機会なんだからここはノリでいっちゃいましょうよ。」
天使は春真にすいっと近づくと、耳元でそんなことを囁いた。
うるさいやつだな。春真はじっとりとした目を天使に向ける。それの何がおかしいのか、天使はからからと笑い始めた。
「ああおかしい。やっぱり人間って面白いですね。叶えたい願いなんて、僕からは丸見えなのに。どうしてそんな顔をするんです?」
「うるさいな、だいたいなんなんだよお前。急に現れて失礼だしうるさいし。俺いまそれどころじゃないんだっての、だいたいやり直したいことなんて今聞かれたって……」
「ええっ、トウヤとかいうのはどうでもいいんです?あんなに想ってい……ちょっ、痛い!」
冬弥? なぜこいつが冬弥の事を知ってるんだ?いや、そんなのはどうでもいい、冬弥は今どうしてるんだ?
春真は思わず天使の肩に掴みかかる。がっしりと掴んだ肩を前後に揺さぶり早口で捲し立てた。
「冬弥? なんだ、あいつに何かあったのか? おい、なぁ、冬弥は生きてるのか、なぁ、冬弥は、あいつは今、どこに」
「ちょ、どうどうどう。わかった、分かりましたから!とりあえず、手を離してっ……!」
春真に揺さぶられ、天使は先程の余裕はどこへやら焦ったように春真の腕を掴む。
春真がはっとなって手を離すと、天使が着ている、白く滑らかな生地には皺が寄っていた。天使はため息をつくと、生地を引っ張って皺を伸ばす。
「はぁ、全く乱暴なんですから。これでもこの服一応制服なんだからやめてよね。怒られるのは僕なんですから」
「わ、悪かったよ……。でも冬弥って……冬弥は生きているのか?」
「ええ。コガレトウヤ、でしたっけ? 彼ならまだ現世の方で暮らしていますよ。といっても遠くから見ただけなので存在確認までしかできていませんが」
「そっか……」
春真は制服のズボンのポケットを探る。幸いなことに、落ちる直前に見ていたスマホがあった。
液晶に指を滑らせ、壁紙の設定をプライベートモードに切り替えると、そこには黒髪の少年が映し出されていた。
星蘭高校、小さくその文字が掘られた校章に、いま春真が着ているのと全く同じ制服。中に着ているベストだけは色が異なるがあとは同じ服装をしている。
天使がすいっと近寄ってきては春真の持つスマホを覗き込む。
「へぇ、この人がトウヤくんですか。なるほどー。遠くから見た時は分からなかったけど、なかなか綺麗な顔立ちですねぇ。天使は美しいものが好きですから、これはプラス評価です」
「だろ?冬弥ってけっこう綺麗な顔してるんだけどあんま自信ないみたいでさ……って。なんでそんな上から目線なんだよ。腹立つな」
「まぁまぁいいじゃないですか。それより、今ならまだぎりぎり、そのトウヤって人見に行けると思いますよ。行きます?」
春真は一瞬言葉を詰まらせたが、次の瞬間には力強く頷いた。断る理由なんてどこにもない。冬弥はいま、何をしているのだろうか。
またゲーム実況でもしているのか、それとも気を紛らわそうと趣味のフィギュア塗装でもしているのか。それとも、自分との思い出の写真でも見返してくれているのだろうか。
春真は爪先で床をとんとんと叩いて靴を整えた。冬弥にもう一度会える。不安半分、期待半分がない混ぜになった心地で春真は幼なじみの顔を思い浮かべるのだった。




