第七話 五味秀一②
女遊びは数え切れないほどしてきた。一夜限りの関係から、体の相性がよくて定期的に寝る女まで。
自分が恵まれていることを、五味秀一は自覚していた。圧倒的に裕福な家に生まれた。顔立ちは、昔から整っていた。身長も平均以上で、スタイルもいい。頭の回転も悪くない。
自分で言うのも馬鹿みたいだが、子供の頃からモテた。初めて女の体を知ったのは、小学校六年のときだった。相手は、近所の中学生。それから、数え切れないほどの女と寝てきた。
それでも、心から愛している女は、一人だけだった。
美咲。彼女のことが、子供の頃から好きだった。
他の女は、簡単に言い寄ってきた。簡単に口説けた。一歩足を踏み出せば、すぐに女とベッドに入れた。
それなのに、美咲だけは落とせなかった。何度口説いても、どれだけ好きだと伝えても。自分の気持ちを、まったく分かってもらえなかった。
高校に進学した直後、美咲に彼氏ができた。村田洋平。五味と美咲の幼馴染み。
美咲達の関係を知ったとき、最初に浮かんだ気持ちは「なんで洋平なんかと」だった。
洋平は、五味より背が低い。顔立ちも、五味の方が整っている。スタイルだって、五味の方が上だ。経済力は比べるまでもない。
それなのに、どうして。
頭に浮かぶ疑問は、嫉妬混じりの怒りに変わった。仲間を連れて、何度も洋平に絡んだ。しかし、喧嘩だけは、五味より洋平の方が強かった。
どうしようもない怒りと嫉妬。どれだけ色んな女を口説いても、どれだけ色んな女と寝ても、美咲のことが頭から離れなかった。美咲への想いの強さに比例して、苛立ちが胸に募った。
どうにかして、洋平から美咲を取り戻したい。あいつは、俺の女になるべきなんだ。この俺が、こんなにも好きなんだから。
薄暗い怒りと嫉妬に満ちた、五味の心。その中に、一筋の光が走った。
美咲の父親は、機械部品製造の会社を経営している。大手携帯端末製造会社の下請けとして、部品製造を行なっている。
その請負契約を、奪ってやろう。
五味は早速、父親とビジネスの話をした。どこかの製造会社を買い取る。美咲の父親が請け負っている仕事を、奪い取る。そうすると、どうなるか。結果は一目瞭然だった。
思った通り、美咲の父の会社は経営困難に陥った。
五味は知っている。美咲が、どれだけ父親を大切にしているか。彼女達親子が、どれほど仲がいいか。
五味は美咲に持ちかけた。
「俺なら、お前も、お前の父親も助けられる。洋平には無理だろ?」
思惑通り、美咲は洋平と別れた。五味と結婚する道を選んだ。
ようやく、本来あるべき関係になった。美咲は俺の女だ。この俺が、こんなにも好きなんだから。
五味は有頂天になった。高校を卒業してすぐに、美咲と籍を入れた。父親が結婚祝いに建ててくれた家で、二人きりで暮らすようになった。
結婚してから、毎日美咲と寝た。何度も「好き」と言って聞かせた。車の免許も取らせてやったし、車も買ってやった。愛しているという気持ちを、ありとあらゆる方法で伝えた。
美咲も、五味の気持ちを分かってくれたのだろう。五味の「好き」という言葉に、応えてくれるようになった。
「私も好き」
美咲の言葉が嬉しくて、何度も何度も彼女を抱いた。
けれど五味は、美咲と結ばれるまでは、いつも女を取っ替え引っ替えしていた男だ。一年も同じ女を抱き続けたら、さすがにマンネリになってくる。どんなに旨い料理でも、毎日食べていたら飽きてしまうように。
結婚から一年を過ぎた頃から、五味は、再び、美咲以外の女と寝るようになった。
それでも、美咲のことを本当に愛していた。週に二、三日は自宅に帰っていた。家に帰る度に、美咲に「愛してる」と伝えていた。
そんな日々が何年か続いて。
パンデミックが起こった。
経済は破綻に向かい、情勢は乱れ、医療現場は逼迫した。世界中で多くの人が死んだ。誰もが、明日には死ぬかも知れない予感を抱いていた。
五味は、高校卒業後は、父の会社で役員となっていた。仕事などほとんどしない、お飾りの役員。それでも給料は入っていたし、贅沢な生活をしていた。
しかし、それも過去になった。従業員の四分の一が命を落とし、半分が出社を拒否し、会社は傾いた。そもそも、経済が破綻に向かい金の価値が地に落ちているから、働く意味が薄れていた。
きっと、このまま世界は終わるのだろう。人類は、このまま滅亡に向かうのだろう。
人生の終幕を感じて、五味は、今まで以上に好き勝手に生きようと決めた。色んな女のところを周り、好き放題に抱く。より一層、情欲に溺れた生活をするのだ。
今まで関係を持った、色んな女のところに行った。色んな女と寝た。しかし、最終的に、体の相性が一番よかった女のところに居座った。
狩野里香。
何年か前に、合コンで知り合った女だ。五味は美咲と結婚していたが、そんなことなど気にしなかった。甘い言葉で口説いた。
里香には婚約者がいたらしいが、簡単に落ちた。ベッドで互いに裸になるまで、そう時間はかからなかった。
ベッドの上でも、五味は、甘い言葉を囁き続けた。
『可愛い』
『実は一目惚れだった』
『今までの女の誰よりも気持ちいい』
ベッドの上での甘い言葉は、セックスを楽しむためのスパイス。本気であるはずがない。そのスバイスは、事後でも欠かすことはない。
『こんなに気持ちよかったの、初めてかも』
里香が、五味の言葉にうっとりしていた。この言葉は、半分は本当だった。体の相性は、五味の記憶にある限り、誰よりもよかった。妻の美咲よりも。もっとも、美咲ほど気持ちが入らないから、その分でマイナス評価になるが。
それでも五味は、甘美な嘘を吐き続けた。
『妻と別れて、一緒になりたい』
もちろん、そんなつもりなど微塵もない。ただ体の相性がいいから、手放したくないだけの女。
体の相性がいいから、いつ死ぬか分からないこの状況で、ひたすら抱いた。どうせ死ぬなら、快楽に包まれて、満足して死にたいと思った。
だが。
何日も何日も、そんな爛れた生活を続けて。いくら相性がよくても、さすがに飽きがきて。冷静になった頭で、考えた。
これでいいのか。死ぬ瞬間に一緒にいる女が、里香でいいのか。
いや、よくない。
美咲と一緒にいたい。死ぬときは、彼女と――妻と一緒にいたい。この世の誰よりも愛している女と。
里香に「ちょっと取ってきたいものがあるから、一旦家に帰る」と伝え、五味は彼女の家を出た。当たり前だが、戻ってくる気などなかった。家に帰って、死ぬまで美咲と一緒にいるつもりだった。
車を飛ばして自宅に帰って。
家の中には、誰もいなかった。
家の中を歩き回り、美咲の名を呼んだ。何度も、何度も。けれど、彼女はどこにもいなかった。
もしかして、病で死んだのか。そんな疑問が浮かんだが、その可能性は低いと思った。自宅で死んだのなら、死体があるはずだ。
どこに行ったんだよ。泣きそうな気持ちを抱えて、五味は蹲った。茫然自失としながら、ただひたすら美咲の帰りを待った。どこに行ったのかは分からない。だけど、美咲は必ず帰って来てくれる。
――この俺が、あんなに好きだと伝えたんだから。
美咲を待ち続けて、どれくらい経っただろうか。二日か。三日か。時間の感覚が曖昧だった。そんな状態で、五味は、自宅の玄関で美咲を待っていた。待ち続けるうちに疲れ、何度か気を失い、意識が朦朧としながらも。それでも、玄関の前で待ち続けた。
美咲が、このドアを開けて帰ってくるのを。
ただただ待ち続けて。もう何度目か分からないくらいの、寝落ちの後。
コン。コン。
この家のドアがノックされた。
五味の意識は、一気に覚醒した。とはいえ、疲労と寝不足で、判断力は皆無に等しかったが。
五味はすぐに、玄関のドアを開けた。
「美咲!」
大声で、最愛の人の名を口にした。
だが、ドアの向こうに立っていた女は、美咲ではなかった。
「秀ちゃん」
衣服はボロボロで、肩がはだけている。頬は腫れていて、履いているジーンズはところどころ破れている。男に乱暴された形跡が明らかな女。かつて、婚約者がいた女。婚約者を捨てて、五味に落ちた女。体の相性が抜群によかった女。
里香だった。
「秀ちゃんが遅いから、来ちゃった」
よほどひどい目に合ったのか、里香の目は虚ろだった。虚ろながら、どこか狂気を秘めていた。
「ねえ、抱いて、秀ちゃん。私、ずっと待ってたんだよ」
五味は、美咲をずっと待っていた。この世で一番愛している女を、待っていた。ドアがノックされたとき、美咲が帰ってきたと思い、喜びに満ちた。
だが、来たのは美咲ではなかった。
低下した判断力がそうさせたのか。それとも、元々の性格か。
五味は、的外れな怒りを覚えた。
――美咲だと思ったのに、美咲じゃなかった! 期待させやがって!
「お前のことなんて待ってないんだよ! 邪魔だ! 帰れ!」
怒り感情そのままに、五味は怒鳴り散らした。
「ここは俺と美咲の家だ! お前なんかが来るところじゃないんだよ!」
里香は目を見開き、小さく声を漏らした。その声は聞き取れない。五味の怒鳴り声でかき消された。目を見開いたまま、里香は、その場に立ち尽くしていた。
なかなか立ち去ろうとしない里香に、五味は、さらに苛立ちを覚えた。なおも口汚く罵った。里香の目から涙がこぼれ、泣き崩れても、手加減しなかった。
「……ひどいよ……」
里香の声は、五味には届かない。彼女が帰るまで怒鳴り散らすつもりだった。美咲との再会に、邪魔なのだから。
里香が、鞄から何かを取り出した。タオルに包まれた物。包んでいるタオルを取った。
出てきたのは、包丁だった。刀身が光っている。
「……え……?」
五味は怒鳴り声を止めた。驚いて、止まってしまった。ここは台所ではない。それなのに、どうして包丁など持っているのか。
里香は包丁を両手で持ち、その先端を五味に向けた。
「ひどいよ、秀ちゃん。奥さんとは別れるって言ったのに」
ようやく、里香の声が耳に届いた。そんなこと言ったか、と疑問が浮かんだ。言ったかも知れない。ベッドの上でのスパイス代わりに。
里香が、五味に駆け寄ってきた。包丁の先端を、五味に向けたままで。
ドンッと、里香の体が五味にぶつかった。五味よりも小柄な、彼女の体。密着すると、彼女の頭頂部が見えた。
腹に違和感を覚えた。何か、異物が入り込んだような感触。直後、目まいがした。貧血のように。腹から股間にかけて、生温い何かが流れてきた。
体の力が抜けて、五味はその場に倒れた。仰向け。里香の姿がよく見える。彼女の手には、包丁。真っ赤に染まった、包丁。
「私は、秀ちゃんと一緒になりたかったのに。だから翔太と別れたのに」
涙声の、里香の言葉。でも、意味が分からない。何のために誰と別れたって?
里香が、五味の腹の上に乗った。馬乗り。
「ひどいよ、秀ちゃん」
血まみれの包丁が、振り上げられた。




