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第六話 笹森美咲


 小学校六年の頃だった。

 コツコツと小遣いを貯めて、ネクタイを買った。


 父への、誕生日プレゼント。


 いつもありがとう。一生懸命育ててくれて、ありがとう。大切にしてくれて、ありがとう。


 目一杯の感謝を込めた、プレゼント。父がくれる愛情と同じだけの愛情を、込めたつもりだった。


 笹森美咲は、その日、誕生日プレゼントを持って父の会社に行った。父が経営する会社。時刻は午後八時。もうそろそろ、仕事も終わるはずだ。


 自分が行くことも誕生日プレゼントのことも、父には伝えていない。サプライズだ。


 外から見ると、会社の明りはまだ点いていた。まだ父がいるのだ。そっと会社のドアを開け、中に入った。何度か来たことがあるから、建物の構造は分かっている。この時間なら、たぶん、父は事務室にいる。


 会社の廊下の電気は、ほとんど消えていた。もう少しで、今日の仕事が終わるのだろう。足音がしないように、美咲はそっと歩いた。いきなり事務所のドアを開けて、驚かせたい。


『お父さん! 誕生日おめでとう!』


 そう言って驚かせて、プレゼントを渡したい。


 事務室の前まで来た。中から、人の声が聞こえてきた。父の声だけではない。もう一人いる。女の人の声。


 美咲は、事務室のドアに耳をつけた。盗み聞き。


 女の人の声には、聞き覚えがあった。父の会社で、事務の仕事をしている人だ。優しそうで、頭が良さそうな人だった。美咲の記憶が正しければ、まだ二十代中盤だったはずだ。


 事務室の中から、彼女の声が聞こえた。どこか苦しそうな、でも決意を固めた声だった。


「私を付き合っていただけませんか? ずっと、ずっと、好きだったんです」


 その言葉は、明らかに、父に向けたものだった。


 美咲の胸が、ギュッと苦しくなった。母が亡くなってから、父と二人暮らしだった。父の愛情は、美咲だけに向けられていた。自分を愛してくれる父が、美咲は大好きだった。


 でも、彼女と付き合ったら、父の愛情は美咲だけのものではなくなる。


 耳の奥で、甲高い音が鳴った。耳鳴り。キィーンという音。美咲の頭の中で、未来の生活が思い浮かんだ。彼女と父が付き合ったら、どんな未来が訪れるか。


 美咲と二人で過ごしていた休日は、三人で過ごす休日になるだろう。もしかしたら、彼女と父が二人で出かけて、美咲は留守番をすることになるかも知れない。順調に付き合って結婚することになったら、美咲に向けられる父の愛情は、今の半分になるだろう。


 もし、彼女と父の間に子供が産まれたら? 美咲に与えられる父の愛情は、今の三分の一?


 いや。違う。


 三分の一どころじゃない。生まれたばかりの弟か妹に、大半の愛情が注がれるだろう。


 未来に行けばいくほど、美咲の愛情の取り分は、どんどん減ってゆく。今は両手一杯にある、父の愛情。それが、どんどん減ってゆく。まるで、指と指の間からこぼれてゆくように。


 嫌だ、と思った。聞き耳を立てながら、声に出さずに懇願した。


 ――お父さん、断って! その人をフって! その人と付き合わないで!


 父への誕生日プレゼント。綺麗にラッピングされたネクタイ。それを持つ美咲の両手は、震えていた。ここで父が「うん」と言ったら、思い浮かんだ未来が現実のものとなる。それが、恐くて恐くてたまらなかった。


 事務室内は、しばし沈黙した。


 やがて、父の返答が聞こえた。


「ごめん」

「――!」


 美咲は目を見開いた。ごめん、という父の言葉。彼女とは付き合わないという、意思表示。


 つい、美咲は、両手を振り上げて喜びたくなった。嬉しいのではなく、安心したのだ。父の愛情の取り分が、目減りしない。それが嬉しかった。


 だが、次に聞こえてきた父の言葉を聞いて。

 美咲は、喜んだ自分を恥じた。


「今は、美咲を育てることだけを考えたいんだ。母親がいないぶんだけ、俺が、あいつを大切にしたいんだ」


 父の声は優しい。その言葉は、間違いなく彼の本心だった。父は、愛情を与えることだけを考えているのだ。美咲は、愛情を得ることだけを考えているのに。


「でも、俺は、娘も恋人もなんて器用な人間じゃない。誰かと付き合ったら、美咲といられる時間も減る。だから、ごめん」


 事務員の女性は、少し涙の混じった声で「はい」と返答していた。父は、美咲のために恋人をつくることを放棄した。彼女は、そんな父の気持ちを受け入れた。


 この場で、自分だけが、自分のことしか考えていなかった。そんな自分が恥ずかしくなって、美咲は、その場を後にした。そっと会社から出て、走って家まで帰った。何事もなかったかのように、父の帰宅を待った。


 帰宅した父に誕生日プレゼントを渡すと、彼は、心から喜んでくれた。美咲を抱き締め「ありがとう」と言ってくれた。


 父は、自分の幸せを二の次にしている。ただひらすら、美咲を大切にしてる。


 それなのに美咲は、自分のことしか考えていなかった。そして、父に対して「恋人つくりなよ」とも言えない。自分勝手な自分を恥じながらも、父の愛情が目減りすることに対して、覚悟もできない。


 だからこそ、と思った。

 それなら、自分が、父を幸せにしよう。

 一生懸命勉強して、いい高校を卒業して、高校卒業後は父の会社で働こう。可能な限り、父に恩返しをしよう。


 いつか結婚して、父に孫を抱かせよう。幸せな父で、幸せなおじいちゃんで、幸せな社長にしてあげるんだ。


 父に抱かせたい孫。その父親にしたい人が、美咲にはいた。昔から好きだった幼馴染み。


 村田洋平。


 高校生になったとき、美咲の夢は、実現に一歩近付いた。洋平と付き合い始めたのだ。彼と過ごす時間は幸せで、幸福な未来しか想像できなかった。


 しかし、全てが順調だったわけではない。洋平ではない幼馴染みに、美咲は、昔から言い寄られていた。


 五味秀一。


 五味は、大企業の社長の息子。祖父は、その会社の会長。裕福で、傲慢。外見もいいから、女に人気がある。


 でも、美咲は、昔から五味を好きにはなれなかった。何でも買い与えられ、贅沢に生きることが幸せだと語っているような五味。そんな彼を見ていると、自分と父の幸せが否定されているようだった。ささやかで、でも愛情に満ちた自分達の幸せが。

 

 美咲と付き合い始めた洋平に、五味は嫉妬していた。仲間を連れて洋平に絡むことが、度々あった。


 幸いなことに、洋平は喧嘩が強かった。五味の嫌がらせなど、気にもしていなかった。面倒そうではあったが。


 洋平は、高校を卒業したら看護学校に通うという。


「もし体調崩したり怪我したりしたら、俺を頼れよ」


 そう言って笑っていた。


 時間の経過とともに。一秒ごとに。幸せに近付いている気がしていた。高校卒業を間近に控え、法的にも結婚が可能な年齢になると、胸が躍った。


 洋平と結婚して。いつか子供ができて。父が、孫を――洋平と美咲の子を可愛がって。そんな未来が近付いている。決して遠くない未来。


 ――遠くない、と思っていた。


 だが、美咲が思い描いていた未来は、突然、粉々に砕け散った。


 父の会社が、業務委託契約を解除された。父の会社にとっては、収益の六割を超える大きな契約だった。その契約が解除されると、どうなるか。経営が一気に傾くのは、火を見るより明らかだった。


 父は、悩んでいる姿を美咲には見せなかった。笑いながら、美咲に言っていた。


「まあ、大丈夫だよ。ただ、これから少し大変になるかも知れないけど」


 それがカラ元気であることは、容易に分かった。失った利益を穴埋めできるだけの仕事を、探さなければならない。けれど、利益の六割を占める仕事など、そう簡単に見つかるはずがない。


 五味に声をかけられたのは、そんなときだった。


「親父さんの会社、ヤバいんだろ?」


 どんな情報網を使ったのかは分からないが、五味は、美咲の状況を把握していた。


「でも、俺なら、お前も、お前の父親も助けられる。洋平には無理だろ?」


 五味は、美咲に救いの手を差し出してきた。まるで、天国から垂らされた蜘蛛の糸のように。


「ただ、ひとつ条件があるけどな」


 しかし、蜘蛛の糸の行き先は、天国などではなかった。


「俺と結婚しろ。そうしたら、お前の親父さんは俺の義父だ。俺の親父に言って、助けさせることが出来る」


 美咲に、断る選択肢はなかった。


 美咲の父は、男としての幸せを放棄してまで、美咲を愛してくれた。大切にしてくれた。育ててくれた。


 今でも思い出す、小学校六年のときの出来事。


 父は、美咲を大切にするために、女性の告白を断った。美咲は、父の愛情を独り占めすることしか考えていなかったのに。


 それなら今度は、自分が父を助ける番だ。


 父は、美咲のために恋慕の情を捨てた。

 だから今度は、自分が、父のために恋慕の情を捨てよう。


 高校の卒業式の前日。その夜。

 美咲は、洋平を呼び出した。


 待ち合わせ場所は、互いの家の中間地点にある公園。昔、洋平や詩織と、よく遊んでいた。


 一緒にいる時間が長くなると、未練が募る。だから美咲は、端的に告げた。


「ごめんね。別れよう」


 結論を先に伝えて、美咲は、事情を話した。


「五味と結婚すれば、お父さんの会社を助けてくれるんだって」


 洋平は、今にも泣きそうな顔になっていた。自分が美咲を助けたい。でも、五味とは違って、助ける力がない。そんな現実に、打ちのめされる顔。


 美咲は、洋平のことを誰よりも理解している。ずっと彼が好きで、彼との将来を夢見ていた。だから、彼の気持ちが分かる。


 洋平が、今、どれだけ苦しいのかも。


「洋平、ごめんね」


 涙が出そうだった。それでも美咲は、決して泣かなかった。泣いたら、余計洋平を悲しませる。余計、未練を募らせる。だから、美咲は無理矢理笑った。


「洋平はいい男だから。きっと、私よりも素敵な人に出会えるよ。だから、私のことなんて忘れて」


 洋平は美咲を見て、言葉を飲み込むように目を逸らした。やがて、ゆっくりと、こちらに手を伸ばしてきた。


 最後に、少しだけ。失ってしまう温もりを、せめて忘れないように。そんな洋平の声が聞こえた気がして、美咲も手を伸ばした。


 二人の手が重なり、指が絡まった。


 まだ寒い季節。冷たい空気。触れ合った二人の手だけが、温かかった。触れ合う肌と肌が、心地よかった。互いの感触に、幸せを感じた。


 美咲は、洋平と、まだセックスをしていない。せめて高校を卒業して、何かあっても責任を取れるようになってから。そんなふうに話し合っていた。


 自分達に別れのときがくるなんて、夢にも思っていなかった。


 手と手を絡めながら、美咲は、じっと洋平を見つめた。彼と視線が絡んでいた。彼の瞳に、美咲が映っていた。


 どうせ別れてしまうなら、せめて最後に……。


 そんな気持ちが、美咲の心に生まれた。


 たぶん洋平も、同じ気持ちを抱いている。


 けれど、互いに、自分の気持ちを伝えることはなかった。


 分かっていたから。『せめて一回だけ』という気持ちを満たすと、さらに苦しくなることを。満たされる幸せを一度でも知ってしまったら、もう、知らなかった頃には戻れない。心が繋がり、体まで繋がってしまうと、離れられなくなる。なおさら別れが辛くなる。かといって、父を見捨てることもできない。


 だから、手の感触だけで終わらせた。別れを惜しむように、指を絡めた。気持ちを伝えるように、少しだけ強く握った。愛おしむように、見つめ合った。


 そして、覚悟を決めて手を離した。


「さよなら」


 それ以降、美咲が洋平と会うことはなかった。


 高校卒業からたった三日後に、美咲は、五味と籍を入れた。


 父には、洋平と付き合っていたことを伝えていなかった。伝えていなかったのは単に照れ臭かったからだが、これが幸いした。結婚の挨拶をしたときに、父には、「五味とは高校一年のときから付き合っている」と話した。


 父は意外そうな顔をしながらも、美咲の言葉を信じてくれた。五味も口裏を合せてくれた。


 五味の働きかけにより、父の会社には、新しい契約先ができた。利益は以前よりも上がり、倒産の危機は間逃れた。


 この点に関しては、美咲は素直に感謝した。それでも、五味を好きにはなれなかったが。


 父の会社も持ち直し、平穏な日々が戻った。だが、五味との結婚生活に、幸せなど感じられなかった。


 新婚の頃、五味は毎日、美咲の体を求めてきた。最初の頃は、ただただ苦痛だった。慣れてきても、気持ちいいとも幸せだとも思えなかった。気持ち悪さと嫌悪感だけだった。


「好きだ、美咲。好きだ」


 美咲の耳元で、五味は何度も繰り返した。その言葉に、嘘はなかった。だから、色んなことをしてくれた。車の免許も取らせてくれたし、美咲専用の車も購入してくれた。


「私も好き」


 心にもない言葉を、五味の耳元で囁いた。


 こうして抱き合っているのが洋平だったなら、どれだけ幸せだっただろう。最後に、洋平と手を重ねた。肌と肌が触れ合う感触。それを、こんなふうに全身で感じられたなら、どんなに幸せだっただろう。漏れる吐息を、交わらせて。言葉を囁き合って。


 何度も何度も考えた。想像した。洋平だったら。洋平だったら。洋平だったら。


 二度と叶わない、昔夢見た未来。

 美咲は、一日の半分以上を、決して叶わない夢を見て過ごした。


 結婚から一年も過ぎた頃から、五味が、頻繁に外泊するようになった。彼は仕事だと言っていたが、見え見えの嘘だった。お飾りの役員である彼に、泊まり込みの仕事などない。


 他の女のところに行っているのだ。


 五味の、美咲に対する愛情は本物だ。でも、色んな女と寝たいという欲望は、我慢しない。彼はそういう男だ。


 そんな五味を責める気など、美咲にはなかった。むしろ、ありがたかった。一人で家にいるときは、好きなだけ夢を見られる。夢想できる。


 ――洋平と結婚して、一緒に住んで。私のお腹は、大きくなっている。今は七ヶ月。仕事から帰ってきた洋平は、美咲のお腹を圧迫しないように抱き締めてくる。抱き合う腕を放すと、美咲のお腹に耳を当てる。もうすぐだな。楽しみだな。嬉しそうに、幸せそうに繰り返す。


 そんな、決して叶わない夢。


 一人で夢想しているときだけ、心地よくなれる日々。そんな日々が数年続いて。


 パンデミックが起こった。医療現場は逼迫し、経済は大きく揺らぎ、世界中でたくさんの死者が出た。


 こんなときでも、五味は、女のところに通っていた。いや。むしろ、こんなときだからこそ、か。明日の命をも知れないからこそ、好き勝手に生きているのだ。あるいは、死の予感を覚えて懸命に子孫を残そうとする、雄としての本能か。


 結婚直後から住み始めた家で、美咲は、ほとんどいつも一人になった。それでも、こんな状況でも、この家を出ることはできない。


 もしパンデミックが収束しでも、経済の復旧には時間がかかるだろう。息を吹き返すのが早いのは、大きな会社だ。五味の会社のような。だが、小さな会社が息を吹き返すのは難しい。父の会社のような。


 その場合、父の生活は誰が支えるか。誰が彼を守るのか。


 美咲一人では、父を助けられない。五味の力がいる。だから、五味の妻を続ける。一人で虚しく、幸せな夢想に浸りながら。


 そんな、ある日。


 父の会社の従業員が、美咲の家を訪ねてきた。彼に伝えられたのは、父の訃報だった。


 パンデミックの要因となっている病で、父が亡くなった。会社の休憩室の椅子で、眠るように息を引き取っていたそうだ。


 父の訃報を聞いた瞬間、美咲の頭の中で、何かが弾けた。


 父に、幸せになってほしかった。父が与えてくれた愛情を、返したかった。恩に報いたかった。笑って生きて、悔いのない生涯を過ごして、いつか、安らかに息を引き取って欲しかった。


 涙がこぼれた。ボロボロと。まるで、せき止めていた水が溢れるように。


 同時に、父の死を知って痛感した。自分の命も、いつ失われるか分からない。明日にはもう、この世の人ではないかも知れない。


 死を身近に感じたとき、強い望みが生まれた。


 父と住んでいた実家に戻りたい。戻って、洋平に会いに行きたい。


 命には限りがあると実感した。だから、美咲の行動は早かった。幸い、五味は女のところに行っている。美咲を止める者は、誰もいない。


 美咲は車に乗り込み、実家まで走らせた。距離にして一時間弱。その距離が、やけに長く感じた。信号機はほとんど機能しておらず走り抜けることができたが、それでも長く遠かった。


 実家近くまで来た。見慣れた風景。洋平の実家の、マンション付近。車を停めた。降りて、マンション内に入った。洋平は、まだここに住んでいるのだろうか。そんなことを思いながら、足を進めた。


 洋平の実家の前まで来て。


 たぶん、インターホンは鳴らない。でも、それなら、ドアをノックして呼べばいい。幼い頃、遊んでいたときのように。付き合っていた頃のように。


『洋平』


 五味との結婚が決まるまで、何度も何度も呼んだ名前。大好きで、いつも呼んでいたかった。いつも口にしたかった。一生、彼を呼んでいたかった。


 ゆっくりと息を吸い込んで。声を出そうとして。


「……」


 でも、声を出せなかった。呼べなかった。大好きな人の名前を、口にできなかった。


『今さら、どの面下げて』


 蔑むような言葉が、美咲の心に響いた。


 自分は、洋平を捨てたんだ。お金のために。彼を裏切って、五味と結婚したんだ。その事実が、今さらながらに胸にのし掛かった。重く、胸が潰れるほど重く。


 声を出そうと開いた唇は、キュッと結ばれた。体が震えて、涙がこぼれた。声が出ない。出せない。悲しくて、苦しくて、辛くて。


 でも、これが、自分の選択した道だった。


 自分は、洋平を捨てた。捨てた人が戻ってくることなど、絶対にない。


 美咲は、洋平の家に背を向けた。トボトボと歩いて、マンションから出た。そのまま車に乗って、実家に向かった。築何十年も経つマンション。適当に車を停めて、実家に帰った。


 久し振りに帰った実家は、昔のままだった。父の匂いがした。懐かしい匂いだった。父の部屋に行くと、彼が使っていたベッドがあった。


 美咲は、父のベッドに身を投げ出した。


「お父さん」


 決して返事のない、呼び掛け。


「たぶん私も、もうすぐそっちに行くね」


 父に語りかけながら、同時に祈った。もう会えないだろう、大切な人の幸せを。このパンデミックが収束して、彼が生き残ってくれることを。彼が幸せになれることを。


「お父さん。そっちに行ったら、いっぱい謝るから。たくさんお礼を言うから。だから、お父さんも祈ってあげて」


 結婚後に住んでいた家から出て、どれくらい経っただろうか。一時間か。一時間半か。たったそれだけの間に、ずいぶん気持ちが揺れ動いた。父の訃報を知って心が痛み、死期を感じて決意をし、運転しながら胸を高鳴らせ、洋平の家の前で泣きたくなった。


 気持ちが急上昇と急降下を繰り返した。そのせいか、急激に眠くなってきた。


 美咲はゆっくりと目を閉じた。このまま眠ったら、目覚めることはないかも知れない。でも、それでもいい。望んだ未来は手に入らなかった。けれど、父の匂いに包まれながら眠れる。


 もう、それでいい。

 自分は、望んだ未来を捨ててしまったのだから。


 意識が薄れてきた。なんだかとても心地いい。とてもいい夢を見られる気がする。自分が捨ててしまった、未来の夢。幸せな未来の夢。


 美咲。


 洋平の声が思い浮かんだ。彼が呼んでくれる。幼い頃からそうだった。いつも一緒にいた彼は、高校に入った頃から恋人になった。


 美咲。


 気が強くて喧嘩も強いが、彼は優しかった。優しい声で、美咲を呼んでくれた。


「美咲!」


 もっと呼んで。ずっと側にいて。現実でなくてもいいから。夢でもいいから。


「美咲!」


 夢でいい。幸せな夢だ。あまりに幸せで、現実のようにすら感じる。


「開けてくれ! 美咲!」


 ――? 開けて?


 薄れかけていた美咲の意識は、突如、現実に戻された。夢ではなく、現実の声が聞こえた。ずっと聞きたかった声。捨ててしまったはずの、大好きな人の声。


「美咲! いるんだろ!? 開けてくれ!」


 美咲はベッドから起き上がった。駆け出した。慌てたせいで足がもつれたが、構わず玄関に向かった。チェーンロックを外して、鍵を開けて。家のドアを開いて。


 ドアの向こうには、人が三人いた。ひとりは、知らない男だ。童顔の、優しそうな男。もう一人は、見知った顔だ。幼馴染みの女の子。好きな人の妹。


 そして、もう一人は――


「……洋……平……?」


 一瞬、幻だと思った。でなければ、自分はすでに死んでいて、天国にいるのか。天国だから、偽りでも願いが叶ったのか。


 洋平は目を細めた。なぜか顔が腫れていて、痛々しい。それなのに、嬉しそうだった。泣きそうなほど、嬉しそうだった。


「美咲。やっと会えたな」


 ここが死後の世界でもよかった。偽りでもよかった。幻でもよかった。なんなら、自分を食べようとしている化け物が見せた、幻覚でもよかった。


 美咲は洋平に飛びつき、思い切り抱き締めた。


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