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第五話 村田洋平②


 妹の詩織と、美咲のもとへ行く途中に。

 洋平達は、案の定、柄の悪い男達に絡まれた。

 治安の悪化に乗じて、欲望を満たそうとする男達。奴等の狙いは、明らかに詩織だった。彼女の体。


 詩織を連れて、洋平は全力で逃げた。だが、過度の睡眠不足と疲労のせいで、簡単に追いつかれた。ビルとビルの隙間に追い込まれた。


 洋平は必死に戦った。もし体力が万全なら、簡単に撃退できただろう。その程度には喧嘩慣れしている。しかし、今は体力がなかった。体に全然力が入らない。


 何度も殴られた。顔が火照り、腫れ上がってゆくのを感じた。


 どうにかして、詩織だけでも逃がさないと。いっそこと、詩織が持ってきた包丁でこいつらを刺し殺すか? こいつらだって、俺達を殺す気かも知れないし。


 抵抗しながら、考えを巡らせた。


 そんな洋平の耳に、突如、ゴンッという鈍い音が届いた。


 襲ってきた男の一人が(うずくま)り、頭を押さえていた。頭を押さえた指と指の隙間から、血が噴き出している。近くに、物干し竿を持った男が立っていた。


 すぐに理解した。この物干し竿を持った男が、助けてくれたのだと。


 物干し竿の男は、別の男の頭も殴った。再び、ゴンッという重い音。先ほどと同じように、殴られた男が倒れた。


 チャンスだ。洋平は、残っている男の髪の毛を掴んだ。全力で振り回して抵抗する隙を与えず、そのまま、顔面をビルの壁に叩き付けた。重い手応えとグシャッという音。恐らく、叩き付けた男の鼻が潰れた。


 壁に叩き付けられた男は、顔面を押さえて倒れ込んだ。念のため、頭に蹴りを追加しておいた。さらにダメージを与えて、戦意を削ぐために。


 一応、撃退はした。とはいえ、こいつらはまだ生きている。倫理観を失った人間は、何をしてくるか分からない。


 それなら、ここで取るべき行動はただ一つだ。

 洋平は詩織の手を取った。


「詩織! 今のうちに逃げるぞ!」

「ちょっ! お兄ちゃん!」


 詩織の手を引きながら、洋平は、助けてくれた男を見た。どこか呆然としていた。暴力沙汰に慣れていないのだろう。見るからに真面目そうな男だ。


 彼をここに置いていったら、たぶん危ない。洋平達が叩きのめしたチンピラ達は、しばらくすると戦意を取り戻すだろう。そうしたら、彼は、奴等に(なぶ)り殺しにされるかも知れない。


 洋平は、助けてくれた男の服も掴んだ。


「助けてくれたアンタ! あんたも逃げるぞ!」


 右手で詩織。左手で、助けてくれた男。二人を引き連れながら、洋平は必死に走った。両腕に、二人を引く重み。かなりの重労働だったが、すぐに、手にかかる重みはなくなった。二人が、自力で走るようになったのだ。


 洋平は二人から手を離し、目的地に向かってしばらく走り続けた。


 途中で、ガラスが割れたコンビニを見つけた。


 あそこで少し休憩しよう。実のところ、洋平の体力も限界に近かった。近くを走る二人も、激しく息を切らしている。


 二人とともに、洋平は、コンビニの前で立ち止まった。


「少し、休もう。さすがに、もう、限界だ」


 息を切らしながら伝えると、二人は、無言でコクコクと頷いた。相当疲れているようだ。


 洋平は、コンビニのドアに手を掛けた。鍵はかかっていなかった。ドアを開けて、店内を見てみる。荒らされた形跡がある。品物もかなり盗まれてるようだ。人の気配はない。


「中に入ろう。少しだけど、飲み物もありそうだ」


 洋平の言葉に再度頷いて、詩織と男はコンビニの中に入った。


 店内には、ペットボトルの飲み物が数本だけ残っていた。電気が通じていないから、冷やされていない。キャップを開けて飲んだ。ぬるいが、喉の渇きは潤った。


 洋平は、店内の飲み物コーナーの近くに座り込んだ。洋平にならうように、詩織と男も腰を下ろした。二人とも、ペットボトルの水を手に取っている。全力で逃げてきたから、やはり喉が渇いたのだろう。


 男に向かって、洋平は頭を下げた。


「遅くなったけど、礼を言う。ありがとう。本当に助かった」


 洋平は、自分の命に未練などなかった。正確に言うなら、死にたいとさえ思っていた。美咲とあんな別れ方をしたときから。それでも死ななかったのは、詩織がいたからだ。彼女が洋平を見ていたから、死ねなかった。今まで生きてきた。


 一緒に暮らし始めてしばらくしたとき、詩織が言っていた。


『一人にしたら死ぬかも知れないと思ったから。だから、お兄ちゃんと一緒に暮らしたの』

 

 詩織の考えは、見事に当たっていたわけだ。


 そんな妹だからこそ、絶対に守らなければならなかった。目の前の男のお陰で、守ることができた。


「俺は村田洋平。こっちは、妹の詩織。あんたのお陰で、詩織を守れた」


 下げた頭を上げて、洋平は男を見た。

 彼は、少し困ったように笑っていた。


「俺は宮川翔太です。助けられてよかったけど、でも、礼を言われるのは少し違うんですよね」

「?」


 洋平には、男の――翔太の言葉の意味が分からなかった。


「もしかして――」


 詩織が、翔太の顔を覗き込んだ。

 困った顔のまま、翔太も詩織を見ていた。

 視線を交し合ったまま、二人は、しばらく無言だった。


 先に口を開いたのは、詩織だった。


「――死にたいとか思ってた?」


 翔太が目を見開いた。図星だったらしい。


「やっぱり」


 フフンと鼻を鳴らして、詩織は笑った。

 偉そうに笑う詩織に、洋平は溜め息をついた。


「何偉そうにしてんだよ?」

「見事でしょ? 私の観察眼」

「否定できないのがムカつく」


 翔太は驚いた顔のままだ。驚いた顔のまま、詩織に聞いた。


「どうして……?」


 詩織は洋平を指差した。


「お兄ちゃんもね、ずっと同じような顔してたの。ここ何年も、ずっと。だから、すぐにわかった。お兄ちゃんと同じ顔してるな、って」


 翔太は洋平を見た。洋平も、翔太を見た。


 当然ながら、顔立ちはまるで違う。やや彫りの深い洋平に対し、翔太の顔は彫りの浅い童顔。洋平は見た目から気が強そうだが、翔太は真面目で優しそうな顔だ。


 似ても似つかない二人の顔。


 でも、と思う。瞳に生気がない。希望も期待もない目の色。


「そっか。そう……かも知れないですね」


 今度は苦笑して、翔太が呟いた。どうやら彼も、洋平と同じことを思ったようだ。


 生きることに希望を持てない目が、似ている。


「ここで少し休むならさ、少し話さない? 自己紹介みたいな感じで」

「まあ……いいか。休憩がてら」

「そうですね」


 詩織の提案に、洋平も翔太も頷いた。


「って言っても、俺の話は案外ありがちで、そんなに面白いものでもないんですけど」


 最初に話し始めたのは、翔太だった。真面目で優しそうな童顔。見た目通りの、真面目な人生を送ってきたのだろう。先ほどチンピラ達を殴った様子から、喧嘩などしたことがないと分かる。


 翔太は、淡々と自分のことを語り始めた。母子家庭で育った。母は看護師で、いつも疲れていた。それでも、子育てに手を抜くことなく、愛情を注いで育ててくれた。

 

 途中で詩織が「私達も看護師なんだ」と口を挟んだが、洋平は彼女を黙らせ、翔太に続きを促した。


 安定した職業に就いて、母に楽をさせたい。いつか結婚して、母を安心させたい。孫を抱かせたい。そんなことを将来の目標にしていた。妻となる女に出会うこともできた。彼女と結婚し家族となったら、生涯を賭けて守り抜こう。そう誓っていた。


 だが、翔太は裏切られた。結婚の約束をし、婚約までしていた女に。その女は、遊び慣れた大企業の社長令息に落とされた。簡単に、翔太から乗り換えた。それまで真面目で優しいと思っていた彼女の姿は、すべて嘘だった。彼女にとって、翔太は、安定した生活を送るための道具に過ぎなかった。


 もう、結婚はいい。女はいい。ただ母に恩返しをして、いつか母の最後を看取ったら、孤独に死のう。そう思った矢先に、パンデミックが発生した。流行病で、母はあっけなく逝った。


「ね? そんなに面白い話じゃないでしょう?」


 そんな言葉で、翔太は話を締めくくった。真面目であるが故に、欠けてしまった人生経験。人は人の中で揉まれ、人を見る目を養ってゆく。彼は真面目で必死だったせいで、そんな経験を積めなかったのだ。


 だから、婚約者の裏の顔を見抜けなかった。人生の決定的な場面で、醜悪な裏切りに遭ってしまった。心の痛みは、癒えない傷となった。


 翔太の自暴自棄の理由を、洋平は、はっきりと理解できた。しかし、それ以上に、気になることがあった。


「なあ、翔太君」

「はい?」

「翔太君の地元って、この辺なのか?」

「ええ、はい。生まれも育ちもこの辺です。子供の頃から、転校とかも一回もしてないですし」

「……」


 洋平は詩織を見た。どうやら彼女も、洋平と同じ事を考えたようだ。


 地元の人間で、大企業の社長の息子で、遊び慣れていて女癖が悪い奴。もちろん、そんな奴はたくさんいるだろう。しかし、洋平の頭の中に浮かぶ人物は、ただ一人だった。


 洋平の視線の先で、詩織が小さく頷いた。洋平も頷き返した。自分達兄妹の想像が正しいか、翔太に確かめる。


「なあ、翔太君」

「はい?」

「その、君の婚約者を寝取った男の名前、分かるか?」

「まあ、調べたんで」

「教えて貰っていいか?」


 わけが分からないという様子で、翔太は首を傾げた。童顔に、その仕草が妙に似合う。彼の姿は微笑ましいが、今は笑える気分ではない。


 翔太が、洋平の質問に答えた。


「五味って男です。五味秀一」


 想像通りだった。洋平の側で、詩織が「やっぱり」と呟いた。目元を押さえて、溜め息をついている。


「もしかして、知り合いですか?」


 翔太の問いに、洋平と詩織が同時に頷いた。


「知り合いっていうか、私とお兄ちゃんの幼馴染み。もちろん仲は良くないけど。ってか、最悪だけど。もう、今日中に死んで欲しいレベルで」


 詩織の言葉に、洋平は苦笑した。洋平と美咲が別れた事情を聞いたとき、詩織は怒っていた。洋平以上に。「女の恨みを買って、滅多刺しにでもされればいい」とまで言っていた。


 洋平は、ペットボトルに口をつけた。水を一口。喉を潤して、小さく溜め息をついた。


 五味は、美咲に本気で惚れていた。高校を卒業してから、すぐに結婚していた。つまり、五味にとって、翔太の元婚約者はただの遊び相手だ。だが、五味は、翔太の元婚約者に対して「遊び」などとは言っていないだろう。でなければ、生活の安定のために翔太と付き合っていた元婚約者が、彼を手放すはずがない。


 洋平は立ち上がった。


「もう行かないか? たぶん、あと三十分くらい歩けば着くし。俺の話は、歩きながらするから」

「そうですね。もう大分休めましたし。水も飲めましたし」

「ってか、翔太さん、一緒に来てくれるんですか? 私達としては、一緒に来てくれると助かるんですけど。さっきみたいな奴等に絡まれたら、助かりますし」

「ええ。乗りかかった船ですし。さっきも話した通り、生きる気力もない人間なんで」

「ありがとうございます。助かります」


 詩織は翔太に頭を下げた。

 翔太は、どこか照れ臭そうだ。女慣れしていないせいもあるのだろう。


「それでさ、お兄ちゃん。実際のところ、どこに向かってるの?」

「は?」


 間の抜けた声を漏らした後、洋平は思い出した。そういえば、詩織に目的地を伝えていなかった。


「いや、でも。この方角と距離で、分からないか?」

「分からないから聞いてるんだけど」

「まあ、そうだな。悪い」


 美咲の父が亡くなった。彼女がそれを知ったら、どんな行動を取るか。


 洋平は、美咲のことを理解している。だから、彼女のすることが分かる。


 美咲は五味を愛していない。むしろ、毛嫌いしている。彼女の父が亡くなれば、五味との結婚も意味を成さなくなる。当然、五味との生活を捨てて、家を出るだろう。


 では、家を出てどこに向かうのか。


 美咲は思うはずだ。最後は、父のもとにいたいと。父が亡くなってしまったなら、せめて、親子の思い出が詰まった場所にいたいと。

 

 同時に、望むはずだ。最後に洋平に会いたいと。このパンデミックで、明日の命すら知れない。いつ死ぬか分からない。だからこそ、人生最後の日は。


 最後の瞬間は、最愛の人のもとにいたい。


 つまり、美咲は、自分の実家に向かう。


 先ほど詩織は、洋平と翔太が似ていると言った。生きることに希望をなくした様子が、似ている。


 ――でも、悪いな。


 歩きながら、洋平は胸中で呟いた。謝罪の言葉。


 今の俺には、希望があるんだ。亡くなった美咲の父には申し訳ないが、命があることを喜べるんだ。


 高校卒業の前日以来、何年振りだろうか。


 これから、美咲に会える。

 

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