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第四話 村田洋平①


 ずっと美咲が好きだった。笹森(ささもり)美咲(みさき)。幼馴染みの女の子。


 彼女は父子家庭だ。母親は早くに亡くなった。


 美咲の父親は、小さな会社を経営していた。機械の部品を製造する会社。工場。彼は必死に働きながら、目一杯の愛情を美咲に注いでいた。何をするにも、美咲を最優先に生きていた。


 父親の愛情を受けて、美咲は優しい女性に育った。時間があれば父親の工場を手伝っていた。仲のいい親子だった。決して裕福ではないが、幸せそうだった。


 村田洋平は、幼い頃から美咲の近所に住んでいた。ずっと彼女が好きだった。いつしか、恋心とともに思うようになった。


 美咲を守れる男になりたい。全てにおいて、支えられる男になりたい。


 洋平や美咲の近所には、もう一人、幼馴染みが住んでいた。五味秀一。彼の父親は会社を経営していた。美咲の父親とは違う、大きな会社。子供の頃から羽振りが良く、欲しい物を好きなだけ買い与えられていた。


 洋平ともまったく違う、幼馴染みの五味。しかし、彼と洋平には、ひとつだけ共通点があった。


 二人とも、幼い頃から美咲が好きだった。


 五味は、小学生の頃から美咲に言い寄っていた。自分の経済力を見せつけ、恵まれた容姿を鼻にかけて。俺の女になれば、何不自由なく楽しく暮らせる。そんな、嫌な大人のようなセリフを吐いていた。


 洋平は、五味とはまったく違う方法で美咲に接近していた。もし美咲の父の工場で怪我人が出たら、応急処置くらいできる男になりたい。父親の手伝いをしている美咲が怪我をしたら、助けたい。


 洋平の母親は、看護師だった。自分の願望と育った環境から、洋平は、自然と看護師を目指した。そんな洋平の影響を受けたのか、妹の詩織も看護師を目指した。


 洋平と美咲は、高校一年のときに付き合い始めた。何度も五味に言い寄られていた美咲だったが、その度に断っていた。付き合い始めてから聞いたのだが、美咲は、昔から洋平のことが好きだったそうだ。


 付き合い始めたことは、互いの親には秘密にしていた。幼馴染み同士で、親同士も顔見知り。付き合ったことを話すのが、なんだか照れ臭かった。


 もっとも、妹の詩織には、付き合っていることを伝えていたが。


 美咲と付き合い始めてから、五味が、洋平に嫌がらせをしてくるようになった。仲間を連れて絡んでくることもあった。自然と洋平は、生傷が絶えなくなった。絡まれるたびに喧嘩慣れしていった。


 五味が洋平に嫌がらせをしていることを、美咲も知っていた。当然のように、美咲は五味を毛嫌いしていった。洋平への愛情と、五味への嫌悪感の大きさ。それらが、比例しているようだった。


 五味は、経済力にもルックスにも恵まれている。美咲のことを本気で好きなようだが、自分の欲求を抑えない。美咲に言い寄りながら、他の女ともよく遊んでいる。体だけの関係の女もいれば、従わせて付き合っている女もいる。


 どれだけ経済力に恵まれていても、どれだけ見た目が良くても、そんな五味に美咲が惚れるはずがなかった。美咲は父親と仲が良く、愛情深い。特定の人を、深く深く愛するタイプだ。節操のない五味とは、どう考えても波長が合わなかった。


 けれど、美咲と波長が合わなくても、毛嫌いされていても、五味は恵まれていた。美咲達親子が危機に陥ったときに、手を差し伸べる力があった。


 親の威光という力。経済力という力。


 高校卒業間近の冬。洋平は看護学校に進学が決まり、美咲は、父の会社で働くことが決まっていた。


 そんな、ある寒い日。


 美咲の父の会社が、携帯部品製造の請負契約を解除された。会社の利益の六割以上を占める、大きな契約だった。その契約の解除は、一気に経営が傾くことを意味していた。


 五味は、その情報を掴んでいた。その情報を武器に、美咲に言い寄ってきた。


「俺なら、お前も、お前の父親も助けられる。洋平には無理だろ?」


 五味は、美咲にそう言ったという。


 美咲の父の会社が倒産すると、十名ほどの従業員が職を失う。美咲の父は路頭に迷う。美咲も、卒業後の職を失う。


 洋平には、美咲達を助ける力などない。五味の言う通りだった。


 美咲は父と仲が良く、互いを大切に思っている。男手一つで必死に育ててくれた父に、心から感謝している。そんな彼女に、選択肢はなかった。


 高校の卒業式前日。夜の十時過ぎに。

 洋平は、美咲に呼び出された。彼女の要件が何か、もう分かり切っていた。


「ごめんね。別れよう」


 互いの家のちょうど中間地点にある、小さな公園で。街灯と月明りに照らされながら。

 

 美咲は、悲しそうに笑っていた。今にも涙がこぼれそうなのに、無理矢理笑っている。そんな彼女の心情を、洋平は見透かしていた。


「五味と結婚すれば、お父さんの会社を助けてくれるんだって」


 五味は軽薄で、女癖が悪く、多数の女と関係を持っている。女に対して甘い嘘をつくことなど、日常茶飯事だろう。


 けれど、五味の美咲に対する気持ちは本物だ。彼は、心底美咲に惚れている。たとえ、他の女と遊んでいても。五味の言葉に嘘はないだろう。


 親のために、好きでもない男と結婚する。まるで、大昔の話のようだ。あるいは、物語の中の話。


 そんなことが現実になって、ただただ胸が痛かった。悔しさと悲しさと惨めさで、洋平は、頭がおかしくなりそうだった。


『好きでもない男と結婚しても、幸せになんてなれない』

『親父さんの生活は俺がなんとか支えるから、五味なんかと結婚するな』


 喉まで出かかった言葉。その声が美咲に届くことはなかった。突き付けられた現実が、洋平の口を止めた。


 高校を卒業したばかりの自分が、どうやって人の生活を支えられるというのか。会社が潰れて父親が路頭に迷ったとき、美咲はどう思うのか。


 五味の誘いを蹴って洋平と幸せになったとしても、美咲の心には、ずっと後悔が残るだろう。自分だけが幸せになってしまったと、罪悪感を抱くだろう。父親に手を差し伸べなかったことを、忘れることはできないだろう。


 洋平は、美咲という人間を理解している。誰よりも好きで、誰よりも大切だから、理解している。


「洋平、ごめんね」


 涙声だったが、美咲は、決して泣かなかった。決して、笑みを消さなかった。


「洋平はいい男だから。きっと、私よりも素敵な人に出会えるよ。だから、私のことなんて忘れて」


『無理だ。忘れられるはずがない』


 言葉になりそうな気持ちを、再度、洋平は飲み込んだ。無言で、美咲に手を伸ばした。


 洋平の心情を悟ったように、美咲も手を伸ばしてきた。

 二人の手が重なり、指が絡まった。


 まだ寒い季節。冷たい空気。触れ合った二人の手だけが、温かかった。触れ合う肌と肌が、心地よかった。互いの感触に、幸せを感じた。


 洋平と美咲は、まだセックスをしていない。せめて高校を卒業して、何かあっても責任を取れるようになってから。そんなふうに話し合っていた。


 自分達に別れのときがくるなんて、夢にも思っていなかった。


 手と手を絡めながら、洋平は、じっと美咲を見つめた。彼女と視線が絡んでいた。彼女の瞳に、洋平が映っていた。


 どうせ別れてしまうなら、せめて最後に……。


 そんな気持ちが、洋平の心に生まれた。

 たぶん美咲も、同じ気持ちを抱いている。


 けれど、互いに、自分の気持ちを伝えることはなかった。


 分かっていたから。『せめて一回だけ』という気持ちを満たすと、さらに苦しくなることを。満たされる幸せを一度でも知ってしまったら、もう、知らなかった頃には戻れない。心が繋がり、体まで繋がってしまうと、離れられなくなる。なおさら別れが辛くなる。かといって、家族の不遇に背を向けることもできない。


 だから、手の感触だけで終わらせた。別れを惜しむように、指を絡めた。気持ちを伝えるように、少しだけ強く握った。愛おしむように、見つめ合った。


 そして、覚悟を決めて手を離した。


「さよなら」


 それ以降、洋平が美咲と会うことはなかった。


 人伝に聞いた話によると、高校卒業からたった三日後に、美咲は五味と籍を入れたそうだ。


 約束通り、五味は、美咲の父の会社を救った。彼は、美咲の望みを叶えたのだ。彼女の父を救ったのだ。洋平には絶対に不可能な方法で。


 その事実が、洋平の心をさらにえぐった。好きな人を手放した自分。好きな人の大切なものを、守れない自分。好きな人との関係を、維持できなかった自分。惨めで、情けなくて、行き場のない感情を持て余した。


 全てを忘れるように――あるいは、現実から目を背けるように。洋平は、勉強に励んだ。看護学校を卒業し、看護師となった。二つ年下の詩織も、洋平の翌々年に看護師になった。


 実家を出て、洋平は、職場の病院の近くに住んだ。両親は、洋平と美咲が付き合っていたことを知らない。惨めな理由で別れたことも、もちろん知らない。だから、単に洋平が一人暮しをしたいだけだと思ったようだ。


 しかし、事情を知っている詩織は、洋平との同居を希望した。後から彼女に聞いた話によると「一人にしたら死ぬかも知れないと思ったから」らしい。


 兄妹揃って同じ家に住み、同じ病院で働いた。


 人の命に関わる現場。人の生死を目の当たりにする現場。喜びや悲しみに支配されるような現場で、それでも洋平は、感情を失ったように生きていた。どうしても、美咲のことが忘れられなかった。


 そんなときに、世界的なパンデミックが起こった。


 医療現場は逼迫した。同僚の看護師や同じ病院の医師にも死者が出た。職場放棄する医師や看護師もいた。それでも洋平は、現場から離れなかった。


 病に怯える人々を、助けたい。そんな気持ちではなかった。ちょうどいい死に場所を見つけた気になっていた。


 現実から目を背けるように働いた。苦しさも辛さも、無視していた。激務で体を限界まで追い込めば、感情は自然と薄くなる。感情を失えば、大切な人と別れたことも、辛いとは思わない。たとえ、その事実を忘れられなかったとしても。


 そんな、ある日。

 洋平の耳に、訃報(ふほう)が届いた。


 美咲の父が、今回の感染症で亡くなった。感染による死亡者の情報は、洋平が勤務する病院にも入ってくる。


 連日の激務で、洋平の体は、限界を超えた疲労に包まれている。本来であれば、頭なんて働く状態ではない。感情なんて、希薄になっているはずだった。


 それなのに、強く、強く思った。


 ――俺達は、何のために別れたんだ?

 ――俺は、何のために生きてるんだ?

 ――美咲は、何のために五味なんかと結婚したんだ?


 心の中で繰り返される疑問。鮮明になってゆく意識。湧き上がってくる感情。強くなってゆく気持ちと反比例するように、体は疲労で弱ってゆく。


 洋平は、現場の看護師長から帰宅指示を出された。


「働き過ぎだ。感染症の前に、過労で死ぬぞ」


 街の治安は、すっかり悪くなっていた。徒歩で外を歩く人など、ほとんどいなくなっていた。病院からも、送迎車が出ていた。


 送迎されて、洋平は、三日ぶりに自宅に帰った。


 家に帰ると、妹の詩織がいた。彼女は、昨日、二日ぶりに帰ってきたそうだ。


「お兄ちゃん、聞いた?」


 洋平が帰ってすぐに、詩織が聞いてきた。


「何をだ?」

「美咲ちゃんの、お父さんのこと」


 無言で、洋平は頷いた。


「どうするの? お兄ちゃん」


 詩織の質問の意図は、分かっている。


 美咲の父が亡くなったのなら、彼女が五味と結婚した意味はなくなる。そして、今の状況では、明日生きているかも分からない。


 美咲と再会し、復縁するとしたら、今しかない。今のところ、美咲が亡くなったという報告は入ってきていない。


 疲労で体は重い。反面、美咲と別れてから初めて、感情が鮮明になっている。自分の心の声に、耳を傾けることができる。


 この三日間での睡眠時間は、わずか四時間。職場の仮眠のみだった。過度の睡眠不足。疲労困憊。体調は最悪。だが、疲れを取るために眠ったとして、生きて目覚める保証はない。医療現場に従事している洋平は、すでに感染している可能性が高い。


 だから、この気持ちがあるうちに――命があるうちに、動き始めなければならない。


「美咲のところに行く」


 結婚後、美咲がどこに移り住んだのかなんて知らない。だが、断言できる。美咲はもう、五味と住んでいた家にはいないはずだ。父親の訃報が、彼女の耳に入っていたなら。


 では、美咲はどこにいるのか。どこに行ったのか。


 洋平は、当然、美咲と連絡など取っていない。卒業式の前日に言葉を交し、手と手を絡ませた。それが、彼女と会った最後。


 でも、分かる。美咲のことなら分かる。彼女が何を思い、何を考え、どんな行動をするのか。


 あとはただ、祈るだけだ。美咲が、無事であることを。自分が、無事に彼女のもとに行けることを。


 職場が近かったから、洋平は、車を購入していない。詩織もだ。だから、美咲のもとへは、徒歩で行かなければならない。この、治安が悪化した状況で。


 美咲と付き合い始めてから、洋平は、何度も五味達に絡まれた。数人を相手に喧嘩をすることも、度々あった。暴力沙汰には、多少は慣れている。


 だが、今は、あのときとは状況が違う。五味は、ただ単に洋平を痛めつけようとしただけだ。しかし、今の世の中で絡んでくる奴等は、相手の命すら奪おうとするだろう。治安の悪化は、人の倫理感を崩壊させる。


 美咲の居場所は分かる。問題は、そこまでたどり着けるのか、だ。


 そこまで考えて、洋平は苦笑した。どうせ、明日をも知れない命だ。美咲に会えたなら、今までの不遇を帳消しにできるほどの幸運。途中で死んだら、それまでの人生。ただそれだけだ。


 すぐに洋平は、出かける準備をした。


「それじゃあ、行ってくる」

「うん。私も行く」


 帰ってきた詩織の言葉に、洋平は目を丸くした。


「……は?」

「だから、私も行く」

「いや、馬鹿かお前」

「なんで?」

「今の状況で女が外を歩いたら、どんな目に合うか。それくらい、分かるだろ」

「大丈夫。包丁持って行くから」

「いや、それでどうにかなるものでも……」

「いざとなったら、相手の男のアレを切り飛ばしてやるから」

「……」

「それに、お兄ちゃんを一人にするの、心配だしね」

「……」


 洋平は顔に手を当て、大きく溜め息をついた。


「どうなっても知らないからな」

「大丈夫。いざとなったら、私がお兄ちゃんを守るから」


 会話が噛み合っていない。


 洋平は再度溜め息をつくと、詩織と目を合せた。


「もし絡まれたら、基本的には逃げる。戦うのは、どうしても逃げ切れないときだけだ」

「うん。分かってる」

「じゃあ、行くぞ」

「うん」


 詩織を連れて、洋平は自宅を出た。


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