第三話 宮川翔太
物心ついた頃には、母ひとり子ひとりだった。伯母から聞いた話によると、父は、他に女をつくって母を捨てたらしい。
将来は、少しでも母に楽をさせたい。安心させたい。いつか、孫を抱かせたい。
宮川翔太は、幼い頃からそんなことを考えていた。
母は看護師。給料は悪くないし、経済的に困窮することもなかった。ただ、激務でいつも疲れていた。それでも、夕食の準備を欠かすことはなかった。着ている服はいつも洗濯されて清潔だったし、家の中も常に綺麗だった。
子育てに決して手を抜かない人。家族を大切にする人。それが、翔太が母に抱いている印象だった。そんな母だからこそ、少しでも手助けしたかった。
小学校高学年になる頃には、翔太は、家事全般をこなせるようになった。学校から帰ると家の掃除をし、夕食を作って母の帰りを待った。空いた時間は、勉強に費やした。同級生と遊んでいる時間など、まったくなかった。
母は仕事で忙しいから、自宅でひとりになることが多い。それでも、翔太の生活が乱れることはなかった。母の苦労を知っているから、道を踏み外すことなどなかった。同時に、母を捨てた父に嫌悪感を抱いていた。その不誠実な生き方に。
自分は絶対、家族を捨てるような男にはならない。自分は絶対に、妻や子を守り続ける男になる。
中学になってから、成績は常に学年で一番だった。地元でトップの高校に進学し、そこでもトップの成績を保った。当然のように、地元でトップの大学に進学した。
大学進学後は、公務員試験の勉強に励んだ。地元で公務員となり、地元で結婚し、いつか家族を持ちたい。母の近くに住んで、気軽に孫を見せに行きたい。
明確な将来の展望を描いていたが、翔太には、ひとつ気掛かりなことがあった。自分の、あまりの交友関係の薄さ。異性とまったく繋がりがない。
人とのコミュニケーションが苦手なわけではない。同級生などとはよく話す。気軽に冗談なども言い合える。だが、昔から家事と勉強に時間を費やしていたため、学校の外で遊んだことがなかった。
将来のことを考えるなら、今からでも適当に遊ぶことを覚えるべきか。それとも、交友関係を広げるのは、就職してからでもいいのか。
迷っていたところで、大学の同級生に声を掛けられた。
「合コン行かないか?」
丁度いい機会だと思った。彼女いない歴=年齢の自分が、異性と話すチャンスだ。翔太は、二つ返事で参加を承諾した。
合コンの場は、堅苦しさのないイタリアンの店だった。コースで料理が出てくる。飲み物は自由。
誘ってきた同級生と店に入り、合コンの相手と向かい合った。男女六人ずつ。男性陣は、ひとりを除いて翔太の大学の同級生。女性陣は、他の大学の人達。大学の同級生が、高校時代の友人を辿って集めたのだという。
今までほとんど遊んだことのない翔太は、すぐに気付いた。男性陣の中で、自分が一番垢抜けていない。明らかに、遊び慣れていない雰囲気を醸し出している。
とはいえ、特に尻込みしなかった。今日は、こういった場に慣れるための練習だ。
男性陣が自己紹介をしてゆく。それぞれ冗談を交え、笑いを取りながら。
自己紹介のとき、翔太は冗談など言えなかった。学校内で、男友達と冗談を言い合うことはある。だが、女性相手に親密に話したことはない。だから、無難に自分のことを話した。こういった場は初めてで、少し緊張している。今は公務員試験に向けて勉強している。楽しませることができなかったら申し訳ない、と。
この店で与えられた時間は一二〇分。合コンの幹事に聞いたところ、一時間ほど今の配置で会話をした後、席替えをする予定だそうだ。
料理を食べながら、向かいの席の女性達や両隣の同級生と話していた。会話の最中に、度々視線を感じた。離れた席にいる女性が、自分の方に目を向けている。彼女は、自己紹介で、狩野里香と名乗っていた。少し童顔で、他の女性陣に比べて大人しそうな印象を受けていた。
一時間経過して、幹事が、席替えを進めた。離れた席にいた女性が――里香が、翔太の隣りに来た。
「隣り、いいですか?」
どこか緊張が見える笑顔で、里香が聞いてきた。断る理由はなかった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
遠慮がちに、里香は翔太の隣りに座った。近くで見ると、可愛い顔をしていた。ぽってりとした唇と、どこか甘えるような声が印象的だった。
会話を切り出したのは、里香だった。恥ずかしそうに苦笑していた。
「私、実は合コン初めてで、ちょっと緊張してるんです。でも、宮川さんは真面目そうだし、なんか話が合いそうで」
そう言われたとき、翔太は、仲間を見つけた気分になった。こういった場が初めての人もいたんだ。自分と同じだ。少し気が楽になって、話しやすくなった。とはいえ、会話は少しぎこちなかったが。
自分語りをするわけでもなく、里香は、翔太のことを積極的に聞いてきた。それは、ぎこちない会話を滑らかにするためだったのかも知れない。
滅多に呑まない酒の力もあってか、翔太は自分の身の上を語った。母子家庭であること。公務員となって、安定した暮らしがしたいこと。将来は、家族を支えられる人間になりたいこと。
偉いね。頑張ってるんだね。ストイックだね。様々な言葉を使って、里香は翔太を褒めてくれた。褒め言葉が社交辞令ではないことを証明するように、連絡先を交換してくれた。
「私ね、真面目な人と一緒に過ごしたいんだ。遊び慣れた人って、なんか苦手で」
どこか悲しそうに語られた、里香の言葉。彼女の表情。
里香の姿が、翔太の心に深く根付いた。将来は、家族を守れる男になりたい。その守る対象に、里香はぴったりな気がした。
それから翔太は、里香と頻繁に会った。彼女は家事全般が出来るようで、弁当を作ってきてくれることもあった。女性経験のない翔太は、あっさりと、彼女に好意を持った。
ほどなく翔太は、里香と付き合い始めた。
付き合ってから何度目かのデートのとき、里香が、翔太の手を強く握ってきた。
「将来を考えて付き合うなら、こういうこともしないと駄目だよね」
そう言って彼女は、近くのホテルに視線を送っていた。翔太は、当然、女性経験がなかった。
ホテルに入った。シャワーを浴びて、二人でベッドに横になった。
裸で見つめ合ったとき、里香が、泣きそうな顔で告白してきた。
「私ね、初めてじゃないの」
里香は可愛い。だからこそ翔太は、彼女に経験があっても不思議ではないと思っていた。セックスの経験の有無で、好き嫌いの感情が変わるわけではない。
「気にしない。でも、俺は初めてだから、上手くできなかったらごめん」
「ううん。そういうことじゃないの」
涙が浮かびそうな目で、里香は翔太を見ていた。
「私ね。高校のとき、凄く好きな先輩がいたの。本気で好きだった。だから……好きだから、エッチしたいって言われて、断れなかった」
里香の頬を、涙が伝った。
「でも、先輩にとって、私は遊びだったの。だから、エッチしたら、すぐに捨てられたの。エッチしたときに痛がって、つまらなかったから、って」
「……」
すぐに捨てられた。里香の言葉に、翔太の胸が痛くなった。思わず、彼女を抱き締めた。肌と肌が重なる。伝わってくる体温が、心地いい。
でも、そんな心地よさ以上に、里香を愛しく感じた。どんなことがあっても守りたいと思った。
――後になって、翔太は気付く。このとき、自分は、里香と母親を重ねていたのだと。父親に捨てられた母親。先輩に弄ばれた里香。
胸の痛みが、自然と、翔太に言わせた。
「大事にする。どんなことがあっても、絶対に大事にする」
翔太は確かに、里香に好意を持っていた。付き合っているうちに好きになれる人だと思っていた。
だが、正直に言ってしまえば、その程度の好意だった。永遠を感じるような恋慕の情ではない。生涯を誓えるほどの愛でもない。
しかし、この瞬間、里香への気持ちは大きく昇華した。
ずっと守り続けたい。死ぬまで支え続けたい。もう二度と、彼女が傷付かないように。
痛いほど強い気持ちが、心の中に生まれた。気持ちのままに、里香を抱いた。
大学を卒業するまで、翔太は、週に一回ほどのペースで里香と会った。大学生の恋愛としては、それほど頻繁なペースではない。
翔太は勉強や家事に忙しかったし、里香も、就職活動を必死にやりたいと言っていた。
大学を卒業し、翔太は、狙い通りに公務員となった。
対して、里香は、就職活動は全滅に終わった。気落ちした顔で、アルバイトでもしながら就職先を探すと言っていた。
翔太は社会人生活に慣れるため。里香は、改めて就職先を見つけるため。学生時代と変わらない、互いに多忙な時間を過ごした。
そのまま一年が過ぎた。
翔太は仕事にも慣れてきて、順調に過ごしていた。しかし里香は、どれだけ頑張っても就職先が決まらなかった。この一年、ずっと、就職活動と並行しながらアルバイト生活を続けていた。
「それなら、結婚しないか?」
当たり前のように、翔太は里香にプロポーズをした。彼女の就職は決まらない。けれど、翔太の仕事は安定してきている。それなら、今のままでいい。
今のまま、里香を支え続ければいい。
里香は喜び、翔太に抱きついた。ありがとう。よろしくお願いします。そう言って、抱き締め合った。
これから一生、家族を守っていく。まずは、妻になる里香を。そして、いずれ生まれるであろう自分達の子を。ずっと、ずっと、守り続けるんだ。
――母さんが、俺にしてくれたように。
両家の顔合わせも済ませ、結婚の準備は着々と進んだ。
翔太の母は、同居を望まなかった。
「せっかくの新婚なんだから、二人きりで過ごしなさい。里香さんに気を遣わせたくないしね」
母は、心から翔太の幸せを祈り、結婚を祝ってくれていた。
里香と一緒に住む家を探した。いい物件を見つけて、契約をした。賃貸の新築物件。
結婚式場も回った。予算はそれほど多くはないので、親族だけの小さな式にする予定だった。
ある日、里香からこんなことを告げられた。
「大学の友達が、結婚祝いのパーティーをしてくれるの」
翔太は笑顔で見送った。
「独身最後になるかも知れないから、思い切り楽しんでおいで」
それが、最後だった。里香と笑顔で交した、最後の言葉。
わずか三日後。里香から、婚約を破棄したいという連絡が来た。好きな人ができたから、と。慰謝料は払うし、式場のキャンセル料も必要なら払う。これからのやり取りは、全て弁護士を通じてやってほしい。
里香の言葉通り、婚約破棄のやり取りは全て弁護士を通じて行なった。里香の了承を得た弁護士が、彼女の相手のことを話してくれた。五味秀一。大手企業の代表の息子。会長の孫。親の七光りで、二十代にしてその会社の役員になっている。
翔太は、素朴で優しい里香を信じていた。彼女と付き合い始めてから、ずっと。親の七光りで地位を得た人間に、あっさり乗り換える。そんな女とは思えなかった。
けれど、本人の意思を直接聞くことはできない。裁判をしても、時間と労力がかかるだけだ。だから、別れを受け入れた。たかが婚約破棄としては破格の慰謝料が、翔太の懐に入った。まったく嬉しくない大金だった。
そんな金だから、簡単に使うことができた。
どうしても納得できない翔太は、興信所を雇い、里香のことを探った。結果として明らかになったのは、彼女の本当の姿だった。
奔放で遊び上手。表の顔と裏の顔を使い分けていた。大学在学中も卒業後も、就職活動などしていなかった。翔太がプロポーズする直前まで、他の男とも付き合っていた。
虚しさだけが、翔太の心に残った。
自分は、こんな女に惚れていたのだ。こんな嘘だらけの女に騙され、彼女の涙に心を奪われ、生涯をかけて守ると誓っていた。
なんて馬鹿な自分。なんて間抜けな自分。滑稽にもほどがある。
自虐とともに、女を見る目のなさを実感した。結婚や家庭に、まったく夢を見れなくなった。里香と結婚していたら、他の男の子供を、自分の子として育てることになったかも知れない。
それならもう、結婚なんてしなくていい。女なんていらない。母に恩返しをして、いつかしっかりと最後を看取って、最後は独りで生きよう。
孤独を噛み締めながら、黙々と働いた。仕事は順調だった。昇格の話も出た。
パンデミックが起こったのは、そんなときだった。
母は看護師。当然ながら、感染のリスクは一般人よりも遙かに高い。それが、現実のものとなった。未知の病の存在が明らかになってすぐ、母も発病した。あっさりと、この世を去った。
楽をさせてやれなかった。親孝行らしい親孝行もできなかった。
不思議と、涙は出なかった。ただ、何もかもどうでもよくなった。生きる理由も目的もなくなった。今すぐ死んでもよかった。
翔太は、仕事に行かなくなった。病が蔓延していても、ロックダウンにならない限り出勤義務はある。しかし、全て放棄した。欠勤連絡もしなかった。無断欠勤を繰り返した。
病は世界中に広がり、次々と死者が出た。やがて、翔太と同じように、仕事を放棄する人が続出した。ライフラインは不安定になり、情勢は不安定になった。当然のように、治安は悪くなった。
不思議なもので、死んでもいいと思っているのに死ねなかった。母はあっさりと感染したのに、翔太はまったく感染しなかった。毎日、「明日には死んでるかな」と考えながら眠りにつく。それなのに、いつも生きて目が覚める。
ある日、天啓のように気付いた。警察も含めたあらゆる行政機関が正常に機能せず、治安は悪くなっている。つまり、発病しなくても死ねる状況のだ。
そうだ。せっかくだから、最後は好き勝手やって死のう。今まで真面目に生きてきて、大暴れをしたことなど一度もない。外には、たくさんの犯罪者がいるだろう。そんな奴等を相手に大暴れして殺されるのも、悪くない。真面目一辺倒に生きてきた自分がそんな最後を迎えるなんて、ある意味では笑える。
せっかく暴れるなら、武器を持ってみようか。自宅の中を探して選んだのは、長さ二メートルほどの物干し竿だった。変形しないように、中に鉄柱が入っている。なかなか重く、威力もありそうだ。
陽が落ち始める午後五時。
どこかワクワクしながら、翔太は家を出た。
外にはゴミが散らばり、乗り捨てられた車やバイクが多数あった。コンビニやスーパーの窓は割られていて、荒らされていた。営業している個人商店もあったが、覗いてみると、品数が驚くほど少なかった。
当てもなく、翔太は外を歩き回った。目的地などない。死に場所を探す散歩。あえて言うなら、目的地はあの世だ。
しばらく歩いていると、争う音が聞こえてきた。
翔太は、音の方に足を運んだ。ビルとビルの間で、一組の男女が、三人の男に絡まれていた。男女の男の方が、女を守るように必死に戦っている。恋人同士だろうか。あるいは、兄妹か。男の顔が腫れている。
見ず知らずの男女を格好良く助け、身代わりとなって殺される。そんな死に方も悪くない。
物干し竿を握り締め、翔太は駆け出した。男女に絡んでいる男の一人が、翔太の接近に気付いた。
翔太は物干し竿を振り下ろした。男の頭に向かって。加減などせず、思い切り。
ゴンッという重い音が、耳に届いた。衝撃が、翔太の両手に伝わってきた。喧嘩らしい喧嘩をしたことのない翔太は、想像もしていなかった。鉄柱の入った物干し竿に、どれくらい威力があるのか。
物干し竿で殴られた男の頭から、血が噴き出した。男は頭を押さえ、その場に蹲った。
多少驚きながらも、翔太は手を止めなかった。先ほどと同じように物干し竿を振りかぶり、もう一人の男に振り下ろした。
ゴンッという重い音。手に伝わってくる衝撃。吹き出す男の血。
――あと一人!
再度、翔太は物干し竿を振りかぶった。しかし、再び振り下ろすことはなかった。絡まれていた男が、残った奴の髪の毛を掴み、顔面をビルの壁に叩き付けた。おまけとばかりに、頭に蹴りを追加していた。翔太と違い、喧嘩慣れしている様子だった。
絡まれていた男は、連れの女の手を握った。
「詩織! 今のうちに逃げるぞ!」
「ちょっ! お兄ちゃん!」
「助けてくれたアンタ! あんたも逃げるぞ!」
男に服を掴まれ、翔太は、ビルとビルの間から連れ出された。
――逃げ伸びた後、助けた男女が名乗ってくれた。村田洋平と村田詩織。二人は兄妹だという。