第二話 狩野里香
結婚に夢など見ていなかった。
学生時代のうちに好みのタイプの男と遊び、並行して結婚相手候補を探す。
恋人は、ルックスとセックスの相性を重視。
結婚相手は、経済力と安定性を重視。
狩野里香は、そんな人生設計を立てていた。
大学時代の合コンで、結婚相手の候補と言える男と出会った。宮川翔太。地元ではかなり優秀な大学に通い、卒業後は公務員になるつもりだという。里香と同じ歳。
結婚相手としては優良物件だ。合コンの席で、里香は翔太に接近した。
里香は、自分の武器を熟知している。男を落とす武器。この甘ったるい声と、ぽってりとした唇。男好きのしそうな、豊満な体。とはいえ、真面目なタイプの翔太に、いきなり色仕掛けは通じないだろう。むしろ、いきなり色気を見せつけたら、警戒されるかも知れない。
だから、遊びとは無縁の女を演じた。
「私、実は合コン初めてで、ちょっと緊張してるんです。でも、宮川さんは真面目そうだし、なんか話が合いそうで」
甘ったるい声を出しながら、緊張している演技をした。どこかぎこちなく始まった、翔太との会話。二人で、将来どんな家庭を築きたいかを話した。
翔太は母子家庭で育ったという。早くに父と別れた母が、一生懸命働いて育ててくれた。だから、公務員という安定した職業について、母や未来の妻を幸せにしたい。できる限り出世して、金銭面で苦労をさせたくない。
人の良さそうな翔太と話していて、理想の結婚相手だと思った。人畜無害で、家族を思いやり、恋人や妻を大切にする。里香は、彼からそんな印象を受けた。
その場で連絡先を交換し、二人で何度か会った。翔太に合せて、里香は家庭的な女を演じた。料理は苦手ではなかったし、家事も概ねできる。案の定、翔太は、里香を純粋な女だと信じたようだ。
ほどなく里香は、翔太と付き合い始めた。
初めて翔太とセックスをするとき、里香は、涙ながらに自分の過去を語った。高校時代にひどい先輩に遊ばれた。本気だったから、セックスもした。でも、簡単に捨てられた。
当然、嘘である。しかし、あっさりと翔太は信じた。「俺は里香を大事にする」とまで言ってくれた。
こんな嘘を真に受けて真摯に接してくる翔太を、可愛いとは思う。いい人だとも思う。結婚相手としては、満点を与えたい。
でも、短い学生生活を共にする恋人としては、物足りない。
だから、翔太の他にも恋人がいた。遊び上手で、楽しいことをたくさん教えてくれる男。もちろん、セックスの相性も抜群だった。
大学を卒業すると、里香はフリーターになった。就職活動はしなかった。翔太と結婚するつもりだった。結婚後の予定は、専業主婦か短時間のパート。生活のためにあくせくと働くつもりなどなかった。
卒業して一年も経つと、翔太との結婚話が具体的に出てきた。
この時点で里香は、付き合っていた恋人と別れた。安定した将来のために、恋人を切り捨てた。華々しく楽しい生活は、もう終わり。少し寂しくなった。だが、仕方がない。男にチヤホヤされるのは、若いうちだけだ。若いうちに、安定と安心をくれる男を確保しなければならない。そういう意味で、翔太を手放すわけにはいかない。
両家の顔合わせも終わり、結婚まで秒読み状態となった。翔太の母は同居を望まなかった。若い二人の邪魔にはなりたくないし、里香に気を遣わせたくないから、と。
理想の結婚生活になりそうだと、里香は、内心でほくそ笑んだ。男を見る自分の選球眼を、褒め称えたくなった。
いくつかの結婚式場を二人で回った。恋人とも別れたから、後ろめたいこともない。これからつまらない毎日が始まるが、いつまでも遊んでいられない。若いのは今のうちだけなのだから。
だが、と思った。
せめて結婚前に、少しだけ羽を伸ばしたい。
最後に、思い切り楽しみたい。
ちょうどいいタイミングで、大学時代の友人に、合コンに誘われた。里香が婚約していることを知っている友人だった。里香の本当の人となりを知っているからこそ、誘ってきたのだろう。
もし誘いに乗らなければ、里香は、翔太の妻としてこれからの人生を歩んでいただろう。いつしか彼の子を産み、平凡な妻であり母となっていただろう。
けれど、友人の誘いに乗ったことで、里香の人生は大きく変わった。
合コンの席で、理想と言える男に出会った。結婚相手としての理想ではない。恋人としての理想。スラリとした長身に、やや彫りの深い二枚目。遊び慣れた、どこか軽い雰囲気。女の扱いにも慣れている。
五味秀一だった。
五味を見た瞬間、里香の心が彼を求めた。彼と一夜を共にしたい。もうすぐ結婚する身なのだから、一夜だけでいい。最後の思い出として、自分の理想の男と楽しみたい。
里香は五味に接近した。翔太と出会ったときのような、真面目ぶった近付き方ではない。体を寄せ、ぽってりとした唇から甘い吐息のように声を漏らした。
五味は既婚者らしいが、別にどうでも良かった。里香の目的は、一晩だけの遊びなのだから。たぶん、彼の目的も同じだろう。
遊び慣れた様子の五味は、すぐに里香と合コンの場を抜けた。二人きり。そこから向かう場所など、話し合う必要もなかった。
ホテルに行って、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。あっとう間に全裸になって、互いを求め合った。
避妊はしなかった。里香がそれを望んだ。もし妊娠しても、翔太の子だということにすればいい。どうせ結婚するのだから。
ベッドの上で、五味は、里香の心を打つ言葉を吐き続けた。
「可愛い」
「実は一目惚れだった」
「今までの女の誰よりも気持ちいい」
五味の甘い言葉は、里香の心を刺激し続けた。遊びは若いうちだけ――そんな考えなど、忘れさせる程度には。
理想の男。見た目も、軽い雰囲気も、重なる体の相性も。もうすぐ里香も既婚者となる。五味との関係を今後も続けるのは、かなりリスキーだ。
でも、それでもいいとさえ思った。自分の人生観を変えるほど、五味は、里香にとって手放したくない男になった。合コンで出会ってからベッドに入るまでの、ほんの数時間で。
既婚者同士の不倫という、ただれた関係でもいい。今夜一晩だけではなく、今後も、五味と関係を続けたい。
軋むベッドの上で、里香は「安定した人生」という価値観を捨て去った。どうやって五味との関係を続けるかを考え始めた。
ことが終わって、二人でベッドに寝っ転がった。脱力しながら、体を寄せ合った。
「こんなに気持ちよかったの、初めてかも」
里香の肩を抱いて、五味が呟いた。満ち足りた目で、里香を見ながら。
「妻と別れて、一緒になりたい」
「――!」
五味の言葉が、里香の心に突き刺さった。
彼と出会って数時間。既婚者でありながら合コンに参加し、簡単に女をお持ち帰りする男。そんな彼の言葉など、信じられるはずがない。そんなことなど、冷静に考えれば分かりそうなことだ。まして、里香自身も、翔太を騙しているのだから。
遊び慣れた男女は、上手く嘘を使う。あるときは、その場をより楽しむため。あるときは、自分の保身のため。
里香も、翔太に嘘をついた。自分を偽って、彼との結婚までこぎ着けた。
しかし里香は、五味の言葉を信じた。彼の言葉を信じる方が、信じないよりも心地よかったから。彼と触れ合っていると、翔太との未来が下らないとさえ感じてしまったから。
それから三日後に、里香は、翔太に婚約破棄を突き付けた。五味が用意してくれた弁護士を使って、慰謝料と引換えに翔太との関係を終わらせた。
五味が大手企業の役員だと知ったときは、自分の選択が正しかったと感じた。恋人としても結婚相手としても、満足できる条件を満たしている。
五味の離婚はまだ成立していない。里香は、しばらくは、彼の愛人のような立場となる。1LDKのマンションを買い与えられ、そこに住むことになった。週に一、二回、彼が訪ねてきた。思う存分、満たし合った。
もう少し待てば、五味と結婚できる。自分の理想の男と。
里香は、期待を胸に日々を過ごしていた。
だが、そんな未来はこなかった。
パンデミックで、世界は一変した。世界は大きく変わり、はるか先の未来など望めなくなった。
不思議と、死への恐怖は感じなかった。ただ、こんな状況になって、里香はますます自分の選択が正しかったと感じた。あのまま結婚していたら、つまらない男と最後を迎えることになったのだから。もしそうなったら、死への恐怖に震えていたかも知れない。
経済もライフラインも正常に動かなくなって、里香の心の拠り所は、五味だけとなった。彼と情事を重ねることが、唯一の楽しみだった。これから迎える最後の瞬間まで、続けていたかった。
だが、五味は、三日前にこの家から出て行った。セックスが良くなる薬を自宅から持ってくる、と言って。
――もしかして、自宅で奥さんに引き留められてるのかな?
あまりに遅い五味の帰宅に、里香は、そんなことを考え始めた。
今の自分は――全ての人類は、明日の命すら危うい。だから、一分でも一秒でも長く、五味といたい。
それなのに。
もう待っていられなかった。五味の自宅に行こう。場所は知っている。
それでもし、本当に、奥さんが五味を引き留めているなら。
里香は、台所から包丁を取り出した。タオルで包んで、鞄に入れる。
もし奥さんが五味を引き留めているなら、殺してしまおう。どうせこんな世の中だ。一人二人殺されたところで、問題にならない。
奥さんを殺して、五味と、最後まで楽しみ続けよう。
包丁が入った鞄を持って、里香は自宅マンションを出た。