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第一話 五味秀一①


 全てが崩壊に向かっている。


 スマートフォンの電源ボタンを押してみた。ディスプレイが表示される。でも、ネットはなかなか繋がらない。中央部で、ドーナツ型の表示がクルクルと動き続けている。


 時刻は、午後十時半。明りが点かない部屋は、すっかり暗い。


 五味(ごみ)秀一(しゅういち)は、ベッドの上で溜め息をついた。


 スラリとした長身に、整った顔立ち。父親は、日本有数の大企業の代表。祖父は、その会社の会長。生まれながらに全てを得ている。そんな人生だった。


「秀ちゃん」


 隣りに寝ている女が、五味にすり寄ってきた。狩野(かりの)里香(りか)。男好きのしそうな豊満な体つきに、鼻にかかった甘ったるい声。ぽってりとした唇。


 里香の住むマンションの一室で。

 ベッドの中で、二人は全裸だった。


「もう一回、しよう?」


 耳元で囁かれる、里香の声。体の相性は最高だと思う。しかし、五味が愛しているのは彼女ではなかった。


 五味には妻がいる。幼馴染みの女。


 ――美咲(みさき)


 美咲は、五味と結婚する直前まで、別の男と付き合っていた。美咲の元恋人も、五味にとっては幼馴染みだった。


 里香にすり寄られながら、他の女のことを考えた。自分の妻。昔から好きだった女。だから、どんな手を使ってでも欲しかった。美咲への愛情が薄れたことなど、一度もない。他の女と寝ていても。里香の方が、体の相性が良くても。


 ベッドの横には、水の入ったペットボトルがある。すっかり(ぬる)くなった水。冷蔵庫には入れていない。最近では、たびたび電気も止まる。安定しないライフラインが、この世の――人類の終わりを予感させていた。


 ことの始りは、ちょっとしたニュースだった。海外で、眠ったまま死ぬ人が増えている。よくある突然死のように見えた。死ぬ人の年齢は、様々だった。老若男女問わず、突然死ぬ人が増えた。


 それがウィルスによるものだと気付いたときには、もう遅かった。すでに、世界中に蔓延していた。過去数百年で類を見ない、大規模で流行した疫病。最大の広範囲、最大の死者を出すパンデミック。


 医療現場は逼迫(ひっぱく)した。当然ながら、感染者に接触する医者のリスクは大きい。命を落とす医者が増えていった。


 世界の人口は、一気に三分の二まで激減した。これからさらに減ってゆくだろう。


 五味は、幼い頃から恵まれていた。経済的にも、容姿にも、能力にも。当然、言い寄ってくる女は大勢いた。来る者拒まずという発想で、多くの女と関係を持った。端的に言って、セックスが好きだった。自分の遺伝子をばら撒くのは男の本能なのだから、悪いとも思っていなかった。


 男は種を撒くために、多くの女と寝るのが当然。女は特定の相手の子供を産むのだから、浮気は御法度。そんな男尊女卑な発想を、昔から持っていた。時代遅れだと自覚していたが、生物としての本能なのだから仕方がない。


 だから、結婚後も色んな女と関係を持っていた。妻の美咲は五味の浮気に気付いているだろうが、文句を言うことはなかった。


 彼女は、五味に不平不満を言える立場ではない。夫婦間の力関係を、五味も美咲も理解していた。


 五味は里香の肩を抱いた。妻とは離婚すると、彼女には話している。枕元で語られる、真実味のない男女の駆け引き。

 

 五味には、美咲と別れるつもりなどなかった。体の相性など関係なく、美咲を愛している。だが、そんなことを、正直に言うはずがない。


 枕元での男女の会話は、情事に加えるスパイス。セックスを楽しむためのアクセサリー。そこには、事実も真実も必要ないと思っていた。吐息と共に、里香に愛の言葉を囁いていた。罪悪感など、微塵もなく。


 五味と里香の体が、触れ合った。唇を重ね、体を重ね、またセックスをした。背中に浮き出る汗。軋むベッドの音と、耳に届く里香の嬌声。


 情事が終わりを告げ、互いにベッドに寝っ転がった。


 欲求を吐き出して、頭の中が冷めてきた。五味は、落ち着いた思考でこれからのことを考えた。


 医療現場は逼迫している。感染有無の検査は、長蛇の列。未だに検査を受けられない。けれど、これだけ世界中で蔓延しているのだから、感染している可能性は高い。


 眠り、そのまま死ぬ病。眠ることに恐怖して、眠ることを拒否し、冷静な判断力を失って自殺した者もいるという。


 その点で言えば、五味は冷静だった。眠くなったら眠っていたし、どうせ死ぬなら好きなことをしようと考えていた。


 大企業だった父の会社も、もうほとんど崩壊している。彼の会社に役員として籍を置いていたが、もう出社などしていない。もっとも、もともとあまり出社などしていなかったが。こうして毎日、ただただ欲望を満たしている。


 だが、と思う。

 これでいいのか、と。


 五味は美咲が好きだ。昔から、ずっと好きだった。だから、非情な手段を使って彼女を手に入れた。彼女に拒む選択肢はないと分かっていたから。たとえ嫌われても、蔑まれても、軽蔑されても、自分のものにしたかった。


 それくらい、美咲が好きだった。


 幸いなことに、結婚してからしばらく経つと、美咲の気持ちが五味に向いてきたようだった。愛している女に、愛される。それは、何にも代え難い幸福だった。たとえ体で他の女を抱いていても、心にある気持ちはひとつだった。


 人生で一番幸せな時間。適当な女で欲求を満たしながらも、家に帰れば愛している女がいる。こんな幸せが、ずっと続くのだと思っていた。


 けれど、世界は傾いた。


 この世の終わりが迫っている。明日の命すら、あるか分からない。だからこそ、好きに欲望を吐き出して生きようと思った。人間らしい感情など捨てて。本能と欲望と快楽に溺れよう、と。


 でも。


 欲望を、思う存分吐き出して。五味の心に生まれたのは、人間らしい感情だった。


 美咲と一緒にいたい。

 死ぬときは、彼女と――妻と一緒にいたい。この世の誰よりも愛している女と。


「里香」


 隣の女の名を呼んで、五味はベッドで上体を起こした。


「ちょっと取ってきたいものがあるから、一旦家に帰る」

「何取ってくるの? 一緒にいてよ」


 ベッドから下りた五味を、里香は、寂しそうな目で見てきた。


「薬だよ。セックスが凄ぇよくなるやつ。どうせ最後なんだから、お前とメチャクチャに愛し合いたいんだ」


 もう枕元ではないが、五味は、息を吐くように嘘をついた。服を着込む。


「最後かも知れないんだからさ。やっぱり、愛し合い方に妥協したくないんだよ」

「まあ、そういうことなら」


 里香は、ぽってりとした唇を尖らせた。


「でも、早く帰ってきてね。死ぬまで一緒にいたいんだから」

「ああ。すぐに帰ってくるよ」


 車のガソリンはまだ残っている。ここから自宅まで、車で三十分ほど。往復で一時間ほどか。もっとも、戻って来るつもりなどなかったが。


 体の相性がいい相手よりも、愛している女と一緒にいたい。


 里香がたった一人で死ぬかも知れないことに、五味は、微塵も罪悪感を覚えなかった。自分の気持ちが最優先だった。


 里香の家を出て、五味は、駐車場に停めていた車を走らせた。


 妻と一緒に暮らしていた、自宅に向かって。


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