76話 皇女の憂いと朗報
帝国歴225年9月上旬 南部モルビアン公領 皇女カトリーヌ
南部諸侯軍は苦戦していましたが、北部諸侯軍から一万余りの兵が抜けたことで、どうにか膠着状態に持ち込むことはできましたわ。
一万余りの兵は、どうやら西部に向かったようです。
本来ならシューネヴァルトに援軍を送りたいのですが、そのような余裕はありませんでした。
辺境伯には負担をかけてしまっています。
軍事衝突の可能性は想定していましたのに、後手に回ってしまい、口惜しい限りです。
レーナからは騎士団を辞めてリヒト辺境伯と共に戦っているという知らせが届きました。
あの子も思い切った決断をしたものです。好きな人のもとに飛び込んでいくとは。
正義感もあったとは思いますが、誇りだった騎士団を辞めるなんて。恋の力は大きいのですね。
皇族という立場から逃れられない私には、真似のできないことです。
その後、兄の軍と本格的に対峙してからは外と連絡が取りにくくなり、西部の状況は分からなくなってしまいました。
魔法師がたくさんいるブレイザー伯の軍とぶつかる以上、二人に何かあってもおかしくありません。
私には、二人の無事を祈ることしかできませんでした。
今日も前線で小競り合いはあったものの、大きな被害は双方にありませんでした。
このまま互いに勝利を得られないとなれば、兵糧も無限ではありませんから、停戦も視野に入ってくるでしょう。
ですが、シューネヴァルト辺境伯が持ちこたえられず、西部に向かった一万余りの兵が戻ってくれば、私たちは負けるでしょう。
考え込んでいましたら、ノルトライン伯爵が駆け込んできました。
「どうなさったのですか?」
「娘から連絡がありました。」
伯爵の肩には黄色の目をした鷹が載っています。ああ、ノルトライン家は鳥を使った独自の通信方法を持っているのでしたわね。
「それで、レーナからはどんな知らせが。」
悪い知らせでも取り乱さないように私は身構えました。
「シューネヴァルト辺境伯軍が勝ちました!ブレイザー伯率いる皇子派諸侯軍を打ち破り、辺境伯をはじめとした要人はみな無事です。ブレイザー伯は辺境伯の妹殿が討ち取ったようです!」
何ですって?古代魔法師を多数擁する大軍を破ったのですか?
そのときの私の顔をきっと間が抜けていたことでしょう。
信じられないという思いから、子どものようにぽかんとしてしまいました。
知らせを聞いた周囲の人間が喜ぶのを見て次第に実感がわき、じわじわと喜びが浮かんできました。
味方が厳しい戦いを勝ったことに、親友とその想い人が無事であったことに、私は感謝の祈りを捧げました。
帝国西部 バダノッホ リヒト・フォン・シューネヴァルト
ブレイザー伯の率いた大軍を破った後は、残党を掃討しながら子爵領の中心都市のバダノッホに進んできた。
皇子派の大軍をシューネヴァルトで迎え撃つために、この町を放棄したときは厳しい状況だった。
こんなに早く戻って来られるとは思わなかった。
バダノッホはシューネヴァルトに向かう街道を扼している。この町を抑えておくことはシューネヴァルトの安全を保つうえで重要だ。
それに、領主軍がいなくなると野盗が街道に出てきたり、町で無法を行う者がのさばりかねない。この町に軍を置くことは住民のためにもなるから、常駐させるつもりだ。
バダノッホの旧子爵邸に主要メンバーが集まって状況を確認する。
「ペリグー公爵は現状を認めてくださるようです。」
トリーア卿の報告を聞いて、安堵した空気が流れた。
前の皇帝の弟であり、帝国の西部貴族のとりまとめ役であるペリグー公爵は、必要になったときに皇子殿下と皇女殿下の間の和平を仲介できるよう、中立の立場を取っている。
領地に攻め込んできた皇子派諸侯軍を追い返したことは当然のことだが、さらに進軍してカミン伯爵領を占拠している状況について説明するために、トリーア卿は僕の使者として公爵を訪ねていた。
「公爵閣下からは、西部の民を安んじてほしいという伝言を承りました。また、これは非公式ではありますが、民を大切にするシューネヴァルト辺境伯であれば安心して西部を任せられるというお言葉も頂いております。」
「公爵はそこまで言ってくださったか。ありがたいことだ。」
僕の言葉に皆も頷く。
中立の立場をとっている公爵から、事実上西部の統治を任されたことには少なからぬ意味がある。
「どうにかこれで一段落だな。シューネヴァルトに帰ろう。」
西部に軍事的に脅威になる集団はいなくなり、政治的にも一段落したので、グリューネブルクに戻ることにした。
―――
上位精霊であるヤクシニーに邂逅してその加護を得て、エルフ族に辺境の王と認められ、ブレイザー伯の大軍を破ったことはリヒトにとって大きな一歩となった。
そしてリヒトは西部の主要都市であるバダノッホに進駐し、西部の帝国貴族のとりまとめ役である公爵から西部の安定を依頼され、帝国西部における指導的地位に就いた。
このことをもってシューネヴァルトが事実上独立したという歴史家もいるが、実際にはリヒトはじめシューネヴァルトの指導者たちはそう考えていなかった。
勝利を得たものの負傷者は多く、また新たに接収した皇子派貴族の旧領を治めるために東奔西走していて、それどころではなかったというのが当時の実情である。
エスター・クライン著「リヒト戦記」より




