1話 亡国の王子
「殿下、苦しむ民を救うために、どうか我らと共に立ち上がってください。」
目の前で初老の男性が頭を下げている。
いったい何が起きてるんだろう?
これまで僕は普通の少年として暮らしてきた。
父さんは無口で不愛想だけど腕の良い職人だ。母さんは料理が上手くて面倒見の良いおばさんとして近所の人たちに頼られてる。家族はほかに、少し生意気な妹が一人。
どこにでもいるような普通の家族だ。
16歳の誕生日を一週間後に控えたこの日、いきなり殿下と呼ばれるとは思いもしなかった。
僕を殿下と呼んだ人はときどき訪ねてくる旅の商人で、よく歴史や政治の話をしてくれていた。両親の同郷の人だと聞いていたけど。
「実は私は、シューネヴァルト王国の侍従長をしておりましたヘルムート・フォン・トリーアと申します。旅の商人とは帝国を欺くための仮の姿なのです。あの日、約束を反故にして帝国が攻め寄せてきたとき、私は国王陛下から王子である貴方様のことを託されました。」
この人は何を言ってるんだろう。理解が追い付かない。
この地方が、かつて小さな王国だったことは知っている。
アルモリカ大陸の西の端にある半島。その付け根の部分にささやかな領地を持っていたシューネヴァルト王国。歴史こそ古いけど力はなく、辺境にあって注目されなかったので存続できていた小国だ。
でも、周辺の国を呑み込み、版図を広げていたフランコルム帝国に目を付けられると、ひとたまりもなく滅ぼされたと聞いた。
王国の滅亡は、確か12年前のこと。今では帝国貴族の領主に支配されている。
その滅んだ辺境の小国の王子が僕だって?
とても信じられない。
「ちょっと待ってください、急に殿下だなんて言われても。僕は普通のまちの子どもです。人違いじゃないですか。」
元侍従長と名乗った旅の商人は少し悲しそう顔をした。
「信じられませぬか。これまで職人の子どもとして育てられてきたわけですから、無理もないかもしれません。しかし、貴方様は亡き国王夫妻の忘れ形見なのです。」
トリーア卿は後ろを振り向き、僕の両親の方を見た。
「これまで親として殿下をお育てしてきたのは、実は私の縁戚の者です。」
きっと否定してくれると思ったら、父さんも母さんも済まなさそうに頷いた。
「これまで黙っていたこと、お許しください。アルノルト・バウムガルテンというのは殿下の素性を隠すための偽名です。貴方の本当の名はリヒト・フォン・シューネヴァルトなんです。」
父さんの言葉に、僕は頭を鈍器で殴られたようなショックを受けた。
何だって。それじゃあ、父さんも母さんも実の親じゃなく、他人だっていうのか。
「これまで殿下の身分を偽っておりましたのは、帝国の目を逃れるためです。何も知らなければ疑われることもないと考え、決して殿下の素性を明かしてはならぬとこの者たちに命じておりました。殿下にこれまで黙っておりましたことへのお怒りは、どうぞ私にお向けください。」
トリーア卿は頭を下げたみたいだが、目の焦点があわない感じがして、よくわからなかった。
これまでアルノルトとして過ごしてきた僕の人生は偽りなのか。
何を信じて良いのか分からない。
少し休ませてほしいという言葉を絞り出して、ふらふらと自分の部屋に向かった。