尋問により数多の可能性が消ゆ。貴殿は自らの推理を精査せねばならない。
「これは、男性用の洋服のボタンです。」綾小路巡査は自信満々にお続けになられます。「そして、今この場で洋装をしているのはあなただけだ。みなさん和装でボタンなどない。」
「確かに私のボタンかもしれない。」正清様がお答えになります。「ちょうどこの袖の飾りボタンが無くなってしまっていたのだ。」
「そ、そうですか。」綾小路巡査の返事に不安が混じりました。
正清様があまりに正直にボタンの事をお答えになったので、ご自身のとっておきに自信が持てなくなったのであろうと推察致します。
「そのボタンと比べてみてくれ。一緒だったら間違いなく私のものだ。オーダーメイドだからな。」
「オーダーメイド?」聞きなれぬ言葉に綾小路巡査がボタンの事はそっちのけでお訊ねになられました。
「私のために特別にあつらえさせた物ということだ。」正清様は説明します。「もちろん、同じボタンの服はあるだろうが数は少ないはずだ。そのボタンが私の服のボタンと同じ形であったら、私の物で間違いないだろう。」
「・・・それでは、失礼いたします。」
正清様があまりにも堂々とされていらっしゃるので、綾小路巡査の声からどんどんと元気がなくなっていきます。
「違うようですな。」
「・・・そのようですな。」
「これはありふれたボタンですね。この辺りでも手に入れられるありふれた洋装の袖ボタンのようですな。」正清様がおっしゃいました。
「そうですか・・・。」
「だいたい、そんなボタンが落ちていたから何だというのだ?」正清様がお訊ねになりました。「ここには客人の出入りもある。それに仮に落ちていたのが私のボタンだったとしても、今朝、私はここを訪れている。私のボタンがあったところで何ら不思議なことはない。」
「実はこのボタンは太助さんの洋服の間に挟まっていたのです。なので、太助さんがこの部屋に来てから後、太助さんを殺害した時に犯人はこのボタンを落としたのに間違いないかと。」
「そうか・・・。」正清様が驚いたように返事をつまらせました。もしもボタンが一致していたらご自身が逮捕されるかもしれなかったことに気づいて冷汗をかいてらっしゃるのでしょう。「しかし、そのような物があるのだったら猿吉たちが犯人というのはなさそうだな。」
「その通りです。」綾小路巡査がお答えになりました。「女中でもないでしょう。」
猿吉たちが安堵のため息をつきます。
「太助様のお洋服のボタンという事はございませんの?」
「少なくとも着用していた服のボタンでは無いようです。」
しばしの沈黙が訪れました。
「実は犯人は部屋の中に居たのでは?」
場の沈黙を破って、正清様がおっしゃいました。
「それはどういう意味で?」綾小路巡査には正清様の発言の意図が分からなかったようでございました。
「実は猿吉が部屋に入った時には犯人はまだ部屋に居たのではないか?」
「なっ!!」皆がいっせいに驚きの声をあげます。
「猿吉は死体に気づいて、すぐに部屋を後にしたと言っている。そして巡査を呼びに行くときに初めて外扉を使おうとしたのだろう?ならば、キヨに知らせている間、少し時間があったのではないか。」
「へえ。動転してキヨに知らせて、二人ですぐに旦那様のところへ戻ってきやした。」
「犯人はその隙に外扉から逃げたのだ。最初に入った時、ほんとに誰も居なかったのか?」
「へ・・・へぇ。あっしも気が動転してやしたので自信はごぜえません。」
「しかし、どうやって犯人は部屋に入ったのです?」綾小路巡査がお訊ねになりました。
「そうだ!犯人を入れたのは兄者なのではないのだろうか!?」正清様は正鵠を射たとばかりに叫びました。「そのボタンの洋装は都心でよくある仕事着だ。だから、兄者の客だったに違いない。」
「なるほど?」綾小路巡査は今一つピンと来ていないらしく、不思議そうにお呟き遊ばせました。
「我々が帰ったあと、兄者が外扉から客人を連れて入ってくる。そして、その客人が兄者の首を絞めて殺す。そして、ちょうどそこに猿吉が扉を開けて入ってくる。ところが、猿吉は兄者の遺体に動転して部屋を出て行ってしまう。その隙に客人は外扉から慌てて逃げ去る。」正清様が自信満々に推理をご披露なさいました。
「何故、旦那様はわざわざ外から入ったのにございましょう?」寅の助が訊ねました。
「さあ?こっそりと会いたい客人だったのではないか。そうか、もしかしたら、この客人が来るから私たちとの約束をすっぽかしたのかもしれない。」正清様は自信満々にそうおっしゃいました。
「しかし、あっしが出ようとしたとき外扉には鍵がかかってごぜえました。」今度は猿吉が言った。「それで、あっしはしかたなく玄関にむかったんでごぜえやす。犯人はどうやって鍵を閉めたのでやしょう。」
洋式の錠は日本の閂と違って鍵がないと内側から開きませんので不便にございます。
はて?
何やら少々の違和感を感じます。
「む。」正清様が唸りました。「客人が鍵を閉めていったとしか考えられまい。」
「しかし、太助さんの鍵はご遺体のポケットに入っておりました。」
「正清様、予備はございませんの?」
「私には心当たりがない。兄者が作っていたとしても解らないとしか・・・。」
「旦那はそのような事をお命じになったことはございません。」寅の助が答えました。
「わたくしも持っていないのです。予備の鍵など作るとは思えません。」菊様もお答えになられました。
「私も兄者がスペアキーを作って誰かに渡すとは思えない。」
「それに中でそのようなむごたらしいことが行われておりましたら、音や何やらで私でも気づいたはずです。」キヨが言いました。
「眠っていたのなら簡単に首も絞められよう。」
わたくしの頭の中に疑念がよぎりました。
先ほども正清様は似たようなことをおっしゃっていました。
しかし、わたくしは慌ててその考えをかき消します。
きっとただの間違いに違いありません。
このような非常事態にすべての事を正しく認識するなど常人にできることではございません。
「参りましたな。」綾小路巡査が困ったように言いました。「皆さん、正清さんの推理も踏まえて、何か気づいたことはありませんか?」
そういえば・・・
「そういえば、お隣のオフィスに参りましたときに何か不思議な匂いが致しましたのよ?」
「匂い?」
「ええ、なにか、甘酸っぱいような・・・。」
と、恥ずかしながら、そこでわたくしはようやく今もその匂いがしている事に気付いたのでございます。
「今も微かに匂いが致しますわ。お隣のオフィスから漂ってきているのかも・・・。」
そう申し上げて、得意の嗅覚で匂いの流れを確かめます。
皆様も私にならって鼻をクンクンとさせてらっしゃいますが、わたくしでなくてはこの僅かな匂いを感じることはできないでしょう。
・・・・あれ?
「申し訳ございません。」わたくしは顔を真っ赤にして頭を下げました。「匂いの元はわたくしのようでございました。」
わたくしはそう申し上げると、懐から、先ほど頂いてそのまま忘れていたチョコレイ糖の包みを取り出しました。チョコレイ糖はわたくしが懐にずっと持っていたせいで包み紙の中で柔らかくなってしまっておりました。
「ああ、きっとチョコレイ糖が溶けて中のソースの香りが抜けてきてしまったのかもしれない。」正清様がおっしゃりました。「うっかりしていた。今は机に置いておくと良い。」
「申し訳ございません。正清様のは大丈夫ですの?」
「私の分はカバンに入れて玄関に置いてある。君にも言っておけばよかった。」
玄関!!
「そうですわ。」
わたくしは先ほどの違和感の正体に気が付いて立ち上がりました。冷たい床の感触を足の裏に感じます。
「どうしたのですか?」綾小路巡査が驚いて声をあげました。
「猿吉、今、靴はどうしていますの?」わたしは猿吉に尋ねます。
「へえ、履いておりませんが。」
「でも、オフィスは土足ですわよね?」わたくしは尋ねます。「どうしていますの?」
「旦那様の仕事部屋に入るときにはわらじを持って来てごぜえます。それで、あの時もそれでそのまま外扉から駆けて行こうとしたのでごぜえやす。」
「太助様はどうなさってらしたのですか?」
「仕事場の入り口にスリッパーという洋式のわらじを備えております。」寅の助が答えます。
「兄者は普段、仕事場に居る時はそれを履いている。」
「それが、なにか??」綾小路巡査がお尋ねになります。
「そのスリッパーなるお履き物を履いていたのだとしたら、太助様はこちらの入り口から入ったということではございませんか?」
「なるほど!確認して参りましょう。」
綾小路巡査はそうおっしゃって確認に向かわれました。
そして、部屋の中から声が聞こえました。
「変わった形の草履をはいています。赤くて踵がない。」
「間違いございません。それがスリッパーでございます。」
「でしたら、こちら側の扉から太助様は入ったに違いございませんわ。」
「しかし、中で履き替えたのかも。」正清様が反論されます。「スリッパーを履いて外から入って来たのかもしれない。」
ああ、正清様。あまり、そういったことをおっしゃらないでおくれなさいましな。
「中で履き替えたのでしたら、他に外履きの靴があるはずでございますわ。それに、スリッパーを履いて外から入ってきたのだとしたら、なぜわざわざオフィスからスリッパーを持ち出すような事をされたのでしょうか?」
「主人はスリッパーを汚すのを嫌がりますので、スリッパーで外を出歩くことはございません。」菊様がわたくしの意見の後押しをしてくださいました。
「仕事部屋の中に他の靴は見当たりませんでした。とすると、太助さんは居間側から部屋に入ったと言うことでしょう。」綾小路巡査が居間に戻って来ておっしゃいました。「ですがどうやって?」
「そんなことは不可能だ。兄者はスリッパーを履いて庭から入ってきたに相違ない。」
ああ、正清様。
お声に焦燥が混ざってございます。
わたくしはもう一つ、綾小路巡査に尋ねます。
「もう一つよろしいでしょうか?太助様のお亡くなりになっていたお椅子は外扉の側に寄っていましたか?」
「いいえ、むしろ逆です。こちら側・・・庭とは離れた方向にかなり寄っています。」
ああ、神様。




