平凡な日常風景にヒントがあり、その違和感は常に目の前にある。
本日の朝。
わたくしは正清様のお手伝いのため、朝早くから正清様のお車に揺られて本多家をご訪問いたしました。
正清様のお手伝いというのは、太助様が受け継がれたこの辺り一帯の土地を他分家に売却するのを思い直すようご説得する事にございました。
先だっての大地震や先ごろの米騒動の影響もあり、東京の東域の余っている土地で稲作を進めるべきであるという気運が高まってございます。それに乗って、他の分家様方が太助様に土地を売却するよう打診しているのだそうです。
しかして、松連時の梅園のように武蔵野とは違った自然が育まれているこの地において、そのような土地を田畑としてしまうのは実に惜しいとの正清様のご相談を受け、わたくしが出向く運びとなった訳でございます。
皆々様の出来得ることすら満足にこなすことのできないわたくしにはございますが、数少ない取柄である嗅覚の良さが好じて、この生家の近くにございました薬草園に勤めてございました。
それゆえに、正清様がわたくしにご相談を持ちかけてくださったのは当たり前の事でしたが、普段から正清様にご迷惑をおかけしてばかりのわたくしは御恩を返す好機を得たりと張り切ってございました。
太助様のお屋敷に到着し、正清様のお付き添い――今風に申し上げるなら、正清様のエスコートのもと、わたくしは車を降り太助様のオフィスの外扉にたどり着きました。
「少し中を見てくるから、そこで靴の土を落として待っていてくれ。兄者には櫻子さんが来ることをまだ伝えられていないんだ。いきなり会わせてへそを曲げられても困る。」
「分かりましたわ。外でお待ちしております。」
正清様が中に入ると、「兄者、おられますか?」という正清様の声がしばらく続き、ややあって正清様が戻っていらっしゃいました。
「おかしいなぁ。居ないようだ。」正清様が不思議そうな声をあげました。「中で少しだけ待とう。」
「そうですわね。」わたくしは頷きました。
その後、正清様はまるでわたくしの事をお姫様でも扱うかのようにエスコートして部屋の中に招き入れました。
土足で屋内に入るというのは倉にでも入っていくかのごとくで、あまり落ち着かないものでした。
正清様はわたくしを招き入れた後、扉を入って左手の椅子に私を案内してくださいました。
「君はこの椅子に座って居るといい。兄者の肝いりの家具だ。座り心地がいいだろう?」
わたくしはおそるおそる椅子に腰かけました。
「すごく、ゆったりとしていますわ。」
「兄者は鼻持ちならない奴だが、こういった嗜好品に対する評価には一目も二目も置いているよ。」
確かにその大きな椅子はとても柔らかく、座りごごちも良くて、うっかりするとウトウトと微睡んでしまいそうな心地よさでございました。
「それにしても、兄者はどうしたのだろう?時間にはうるさいのだが・・・。」
正清様が不思議がる一方で、わたくしはこの部屋に今まで嗅いだことのない匂いが混じっているのが気になっておりました。
生活臭や人の活動匂いではない甘酸っぱい匂いでございました。檸檬のような匂いですが、もっと甘い感じの匂いでもあります。わたくしの知っている果実の匂いではございませんでした。
「どうしたんだい?」正清様がそんなわたくしの様子に気がついて声をかけて下さいました。
「何か不思議な匂いが致します。」
正清様がクンクンと鼻を鳴らして部屋の匂いを嗅ぎます。
「私には分らない。さすが櫻子さんだ。」
「いえ、とんでもございません。」
わたくしは謙遜してそう述べましたが、わたくしの嗅覚は少々異常にございますれば、常人では気づくことのできない何かどうでも良い物の微かな匂いまで嗅ぎ取っているのだろうと内心では思っておりました。
心地よい座り心地の椅子に体をあずけながら、しばし、正清様とゆったりとした歓談を楽しんでおりましたが、太助様が現れるご様子は一向にございませんでした。
「うーん。さすがに遅すぎる。」
「中に行って、奉公人に訊ねてはいかがですかしら?」
「いや、やめておこう。兄者は自分のテリトリに余人が入るのを嫌う。この事務所に外扉を付けたのも、私に母屋に入って欲しくないからなのだ。」
「そうなのでございますか。」
「仕方ない。メモを残しておいて出直そう。」
正清様は再びわたくしを丁寧にエスコートして部屋の外まで案内してくださいました。
「少し待っていてくれたまえ。机を直してくる。」
「机?」
「貴女が着物の裾を引っ掛けないように机を動かしてあったのだ。戻しておかねば兄者に叱られてしまう。」
正清様のこういう心遣いに、あってはならぬと分かっていても毎度心がときめいてしまいます。
実際のところ、正清様はわたくしの事を良く思っているご様子で、先日、それとない求愛をいただきました。
わたくしとしては正清様のご好意はとてもありがたかったのですが、とてもではございませんが、わたくしなどがおそばに居ても正清様のご迷惑以外の何者でもございません。
それに、すでにわたくしはとうも立ち、結婚などは諦めた身なれば、正清様には是非とも相応しき御伴侶を見つけていただきたく、その時はその求愛に気づかなかったフリをして聞き流してしまいました。
けれど、その浪漫はわたくしだけの胸に秘めて、この侘しい人生の一つの輝かしい思い出としてございます。
程なくして、正清様が戻って来ておっしゃいました。
「しばらく向こうに大きな桜の木があるのだ。そこに寄ろう。近くに薬草になりそうな草木も生えているし、何といっても小川のせせらぎが気持ち良い。」
「素敵ですわね。」
わたくしたちは、正清様の自動車に乗って桜の木の元へと向かいました。
「自動車というのはエンジンというもので動いているのだ。」
正清様はお車での移動中、わたくしのために自動車の説明をしてくださいました。
実を申せばそれほど興味はございませんでしたが、わたくしのことを飽きさせないため、そのように話しかけてくれているのだと思えば、ありがたくもむずかゆい思いがするものでございます。
「自動車というものは景色を楽しむものではなく、そのエンジンの音や揺れ、そして、顔を撫でていく風の感触を楽しむものなのだ。」
「本当に素敵ですわ。」
わたくしはそう答えましたが、正直なところを申し上げれば、わたくしにとって自動車というものは風呂桶のような小さくもあけっぴろげな座席が落ち着かなく感じるものでございました。それに、まだ春も始めの僅かな陽気では、車力よりもずっと速い自動車の中を吹き抜けるつむじ風はとても冷とうございました。
正清様は目的の場所にたどり着くと、わたくしに手を差し出して車を下ろしてくださいました。
やはり、海外へのご渡航のご経験のある方ゆえ、レディファーストなるものを身につけてらっしゃるのかもしれません。
「やあ、満開の桜だ。」
春の強い風に舞い散った大勢の桜の花びらが、わたくしに降り注ぎ、頬を撫でては去って行きます。
「吹雪のような花びらの舞にございますわね。」
「そうだろう?だから、ここに連れてきたかったのだ。」
正清様がわたくしにそっと近づき、その手を握ろうとしました。
「あら、お洋服のお袖のボタンが取れてらっしゃいませんこと?」
わたくしは手をつなごうとした拍子に触れた、正清様の右手のお袖のボタンがおかしいことに気がついて申し上げました。
このような形で二人きりで手を握るなどという大胆な事にわたくしの羞恥が耐え切れなかったのにございます。
「ほんとうだ。いったいどこで落としたのだろう?」
「繕って差し上げますわ。」
「しかし、ボタンがないのだ。もし見つけたらお願いするとしよう。」正清様はおっしゃりました。「そうだ!ちょっと待っていてくれ、出立が早かったから朝はまだだろう?甘味を取ってくる。」
そういうと正清様は桜の木の元にわたくしを座らせて、いそいそと自動車の元へと戻って行っておしまいになりました。
桜の花びらがはらはらとわたくしの頭に舞い降ります。
わたくしは頭を振るって花びらを髪の毛から落としましたが、次から次へと舞い散る花びらがわたくしの頭に、髪に、肩に、舞い降りてくるのでございます。
「失礼、待たせた。」
「あまりお待たせされては、桜の花びらで白髪のおばあ様になってしまいますわ。」正清様が戻って来たので、わたくしは少しだけ軽口を叩きました。
「本当だ。おばあさまというより、ベールをまとった西洋の乙女のようだ。とても綺麗ですよ。」
ふざけたつもりだったのに、そのような粋で小洒落た返答を返されて思わず顔がほてってくるのを感じました。
「よろしかったら、これを。チョコレイ糖だ。蘭国より取り寄せたものだ。中にラズベリーという野苺のソースが入っているのだそうだ。日本の乳を使ったチョコレイ糖とはやはり味がちがう。」
正清様は赤面するわたくしに気を使ってくれたのか、お菓子についてのうんちくで場を和ませてくださってから、わたくしの手にそっとチョコレイ糖を手渡ししてくださいました。
正清様はこのチョコレイ糖という菓子に一部の薬学書では媚薬として扱われている材料が使用されている事を果たしてご存じなのでございましょうか。
わたくしはますますもって赤面するばかりなのでございました。
と、その時。
わたくしたちに遠くから声がかけられました。
「て、ていへんです。若様!」
声の主は寅の助にございました。
寅の助というのは正清様や太助様がお生まれになる前より本多の分家に奉公しておりました仕様人にございます。
「旦那様がお亡くなりになられました!」
*松連時の梅園 東京西部の庭園。現百草園
*武蔵野 東京中部から埼玉南部あたり
*車力 人力車
*チョコレイ糖 きちんと書くと『千代古令糖』。文字が重くなるため作者が勝手にそのように記載。




