08:「わ、私は好きだぞ、じゃじゃ馬」
思いのほか宿のラウンジでの話が盛り上がり、そのまま夕食を食べた後、すぐに眠りについた。元々早寝早起きな方ではあるけれど、今日は疲れていたようで、ベッドに入るなり睡魔に負けてしまったのだ。
――だからだろうか。早朝、遠くから聞こえてきた水の音に、ふと目が覚めた。
「なに……?」
目を擦りながらあたりを見渡す。同じ部屋で寝ている侍女のミヅキはまだ夢の中だ。
バルコニーに続く大きなガラス製の扉の方を見やれば、湖のほとりに巨大な影が見えた。きっとあれが音の正体だろうと見当をつけ、目を凝らす。
影の正体。それは――大きな黒いドラゴンだった。
ヴォルフラムだ、と直感的に思う。それはもはや確信だった。
上着と肩掛けを羽織り、慌てて外に出た。そして湖へ駆け足で近づく。
黒いドラゴンがわたしの姿に気が付いたのは、湖のほとりにだいぶ近づいてからだった。
『シ、シヅル!?』
ドラゴンは慌てた様子でわたしの名を呼ぶ。その声はわたしが知っている“彼”の声より低く、深く、あたりに響いていたけれど、自分を見下ろす赤の瞳に確信を深めた。
「ヴォルフラムですよね?」
『す、すまない、すぐに戻る……!』
黒いドラゴン――ヴォルフラムは慌てたように湖から出て、その姿を変えた。そして目の前に現れたのはいつものヴォルフラム――ではなく、昼間アルバムで見た、より魔族らしい姿のヴォルフラムだった。
漆黒の肌に長い銀の髪。人族に似た姿のときより身長も体格も一回り以上大きい。見上げると首が悲鳴を上げそうだ。
「あ、いや、この姿ではなくて……」
きっと慌てているのだろう、と思う。
うまくその姿から戻れずにいる様子のヴォルフラムに問いかけた。
「どの姿がほんとうのヴォルフラムなのですか?」
もし今の姿がほんとうのヴォルフラムの姿で、自分の前で見せていた姿が偽の姿だというのなら、無理して姿を変えなくていい、と言うつもりだった。
人族であり魔力を持たないわたしからしてみると、姿を変えるということが本人にどのような負担を与えるかてんで見当もつかないが、自分のせいでヴォルフラムに余計な手間や負担を与えてしまうのは避けたかった。
「……本当の姿というものは、ない。どれも仮の姿であり、本当の姿だ」
しかし与えられた答えは、予想とは少し違った。
てっきりドラゴンの姿、もしくは今の姿がほんとうの姿だと言われるとばかり思っていたのだ。幼少期の写真からしてそう思うのが自然だろう。
「でも慣れ親しんだ姿……というのはありますよね?」
「そうだな」
頷いたヴォルフラムに続けて問う。
「先ほどの、ドラゴンの姿が慣れ親しんだ姿なのでは……?」
「あのサイズでは城に入らないよ」
ヴォルフラムは苦笑した。
言われて、それは確かにそうだ、と頷く。ドラゴンの姿をしたヴォルフラムはとても大きかった。王城がとても立派な作りをしているとは言え、辛うじて謁見の間には入ることができるかもしれないが、ヴォルフラムの執務室にはとても入れそうにない。
「では、そのお姿でいらっしゃることが多かった?」
「あぁ」
頷いたヴォルフラムの瞳が揺れていることに気づいていた。そしてその瞳に浮かんでいる感情が、不安だということも分かっていた。
ヴォルフラムはドラゴンや魔族らしい姿をわたしに見られて、怖がられやしないだろうかと不安なのだろう。だから人族に近い姿をしていたのだ。故郷から一人嫁いでくる人族のわたしを怖がらせないように。
その気持ちは嬉しいが、恐ろしいとは露程も思わなかった。――初対面でこの姿を見ていたら、その大きさに驚いていたかもしれないけれど。
ヴォルフラムの不安を少しでも払拭できたらいいという一心で、笑顔で声をかけた。
「素敵ですね。魔族の方はいろんな姿になれるんですから。羨ましいです」
「……そうだろうか」
相槌こそ素っ気なく聞こえたが、ヴォルフラムは明らかに顔を明るくさせた。
分かりやすい夫を微笑ましく思いつつ、更に喜ばせたいと続ける。
「わたし、小さい頃に空を飛びたくて、木から落ちたことがあるんです」
正直わたしは覚えていないのだけれど、母さまから耳にタコができるほど聞かされた話だ。
小さい頃のわたしは――今も、だが――とても活発で、母さまや使用人たちは随分と手を焼いていたらしい。好奇心旺盛でなまじ身体能力が高いだけに、一瞬でも目を離してしまえばすぐに姿を見失ったという。
ヴォルフラムはフ、と吐息交じりの笑い声をこぼした。
「お転婆だな」
「じゃじゃ馬だったって、母からはよく言われました」
お転婆、とかわいらしく表現してくれたヴォルフラムを嬉しく思いつつ、母さまが聞けば「そんなかわいらしいものではなかった」なんて渋い顔をするだろう、と苦笑する。
わたしの母は儚げな美人ながら中身は明朗闊達な女性で、きょうだい全員のびのびと育てられた。巫女ではあったもののできる限り自由にさせてもらったし、わたしは母さまの影響を多大に受けている。顔も母さま似だ。
「……わ、私は好きだぞ、じゃじゃ馬」
頬を赤らめて、ぎこちなく「好き」と口にするヴォルフラムに「ふふふ」と笑い声がこぼれる。ヴォルフラムは未だ魔族らしい姿のままだったけれど、わたしも彼も、もう全く気にしていなかった。
笑い声が途切れた後、ふとヴォルフラムは空を見上げる。
「……少し寒いかもしれないな」
「ヴォルフラム?」
ぽつり、と呟いたかと思うと、ヴォルフラムはその姿を漆黒のドラゴンに変えた。そしてどうしたのかと目を丸くしたわたしの目の前で、地面に体を伏せる。
『少しぐらいなら、空を飛んでもばれないだろう』
そう言ってシヅルに背に乗るよう、促した。
こうして間近で見ると、とても立派だ。鱗ひとつひとつが宝石のように美しく、まるで芸術品のようだ。
「いいんですか?」
『怖くないのなら』
ドラゴンの姿で優しく目を細めるヴォルフラムに、恐怖心などこれっぽっちも湧いてこなかった。
わたしの故郷で信仰している龍神さまとは違い、ヴォルフラムは四本足のドラゴンだ。大きな二対の翼と角が特徴的で、誰の目から見ても高位の存在だと分かるだろう。
大きなその背に跨ると、ヴォルフラムが魔法を使ったのか、体が鱗に張り付くような感覚があった。
『飛ぶぞ』
ヴォルフラムが大きく羽ばたく。ふわ、とした浮遊感に襲われたと思ったら、数秒で湖を遥か下に見下ろせるほどの高さまで来てしまった。
――空を、飛んでいる!
歓声を上げて周りの景色を堪能する。とてもタイミングの良いことに、遠くに見える山々の隙間から、朝日が覗いていた。
早朝の澄んだ空気に身も心も浄化されるようだった。深く静かな夜に彩られていた雲も、山も、街も、姿を見せた太陽によって目を覚ましていく。
どこまでも続く、見渡す限り広がる世界。ヴォルフラムが治める、ヴォルフラムが守る、魔族の国。
あぁ、なんて美しいのだろう、と深く息をついた。
「きれい……」
もっと気の利いた誉め言葉を絞り出したかったのだが、感動のあまり、拙い言葉しか思いつかなかった。しかし溢れんばかりの感情がこもったシンプルな言葉はかえってヴォルフラムの胸に響いたのか、「それならよかった」と嬉しそうに言う。
しばらく無言で空の旅を楽しむ。夢のような時間だった。
スン、とわたしが鼻を啜ったのがきっかけになったのか、ヴォルフラムは徐々に高度を下げ、湖のほとりに着地する。そしてわたしがしっかりと両足で地面に立ったのを確認してから、人族に似た姿に戻った。
「ありがとう、ヴォルフラム! とってもすてきな時間でした」
それならよかった、とヴォルフラムは目元を緩める。そんな彼に続けて感想を伝えようとして、くしゅん、とくしゃみをしてしまった。
早朝のため、当然気温は昼間より低い。上着を着てきたが、体が冷えてしまったようだ。
わたし自身はそこまで気にしていなかったのだが、ヴォルフラムはくしゃみ一つに大層動揺した様子だった。
「はやく宿に戻ろう」
ヴォルフラムは自分が着ていた上等な上着をわたしの肩にかけて、更にはわたしを抱き上げる。そして足早に宿に向って歩きだした。
あまりに必死な横顔に、わたしは思わず笑ってしまう。それと同時にそこまで心配してくれることに、紛れもない嬉しさを感じていた。
一生懸命想ってくれている。わたしはそんな彼に応えられているだろうか。
厚い胸板に、そっと頬を寄せた。ヴォルフラムは気づいていなかっただろうけれど、右耳に聞こえる鼓動の音に、わたしはそっと微笑んだ。
種族の違いとか、寿命の違いだとか、どうしようもできないことを考えても仕方がない。それよりも今こうして同じときを生きていることを喜ぼう、と、そう思った。