06:「エスコートさせてくれ」
侍女のミヅキに支えられながら、ヴォルフラムが待っているというフロントへ向かう。今のわたしは初めてのワンピースを着て、更には初めてのヒールサンダルを履いていた。
「シヅル様、大丈夫ですか?」
「う、うん……」
湖のほとりを歩くなら、という提案は建前で、おそらくファティマさんはわたしにワンピースを着せたかったのではないか、と邪推してしまう。でなければヒールサンダルなんて履かせないだろう。これでは普段よりもずっと足元が心もとない。
しかし、だからといって着替える気はなかった。着替えでヴォルフラムを待たせてしまうのは心苦しいし、何より――いまのわたしの姿を見て、彼がどのような反応を示すのか、知りたかった。
ミヅキに支えられて、ようやくフロントまで辿り着く。そこで待ってくれていたのは、
「シヅル……?」
王城で見るよりもずっとラフな格好をした夫・ヴォルフラムだった。
彼はわたしの姿を見つけるなり、深く腰掛けていたソファから立ち上がる。驚きからか口を少しだけ開いてじっとこちらを見つめるその姿は、どこか幼い子どもを思わせた。
――かわいい。思わず口元が緩んだ。
しゃんと背筋を伸ばして、先ほどよりもよりいっそう気合を入れて、ふらつくことなくヴォルフラムの許へ歩み寄る。そして未だ唖然とこちらを見下ろす彼に、にっこり笑ってみせた。
「どうでしょうか? ファティマさんに選んでいただいたんです」
問いかけられて、ヴォルフラムははっと我に返ったようだった。
わたわたと大きな体全身で慌てている様を表現し、しかし目線はこちらに向けられたまま、彼は早口で言う。
「その、よく、似合っている」
まだ出会って間もないのに、こんなにも嬉しくなるのはヴォルフラムの言動に嘘がないと感じられるからだろう。
口に出すことはしないものの、正直魔王にひとめ惚れされたことに関しては未だ半信半疑――信じられない気持ちだが、それはそれとして、ヴォルフラムから向けられる好意は信じていた。小国の末姫に政治的な利用価値は皆無であるし、彼の言動が演技だとはとても思えない。
ふと、ヴォルフラムはこちらに手を差し出してくる。そして、
「行こう。エスコートさせてくれ」
くしゃり、と相好を崩した。
久しぶりに仕事から解放された休日だ。きっと彼も疲れが溜まっているはず。だからだろうか、彼が浮かべた笑顔は初めて見る、とても気の抜けた笑顔だったけれど、わたしはその笑顔が今までで一番好ましいと感じた。
***
間近で見るメジ湖はとても美しくて、着慣れないワンピースのことも、履きなれないヒールサンダルのこともすっかり忘れてはしゃいでしまった。
わたしの故郷・月彌ノ国は自然豊かな国だ。国が信仰する龍神さまは水の神とされているし、だからこそ巫女の一人であるわたしが舞を捧げれば雨が降り、雨巫女様と呼ばれて親しまれた。
環境的に、そして立場的に幼い頃から自然と触れ合うことが多かったから、自然に囲まれて過ごす時間が大好きだったのだ。
きょろきょろとあたりを見渡し――視界の隅に、見慣れた小花を見つけた。
「あっ、ここにもリシの花が咲いていますね」
指さした方向には、白の小花が咲いている。それらは花壇に揃えて植えられているのではなく、湖のほとりにぽつぽつと並んでいた。
リシの花は少しでも汚い水を吸い上げるとあっという間に枯れてしまう、繊細な花だ。綺麗な水の傍でしか生きられない小花は、自然豊かと称される故郷でもあまり見かけなかった。
「綺麗な水の近くにしか咲かない花です。故郷でもあまり見かけない珍しい花で……ふふ、かわいい」
ヴォルフラムは頷くばかりだ。もしかしたらわたしのせいで、相槌を打つタイミングが掴めないのかもしれない。
小さな頃から大事に大事に育ててもらった。家族たちも侍女たちも、わたしの話をたくさん聞いてくれた。それが小さなわたしは嬉しくて、あれもこれもと話すようになって――おしゃべりになってしまった、という自覚がある。
同じ巫女である一番年の近い姉には、大きくなってから何度か指摘された。話す速度は遅いのに、次から次へと新しい話題を口にするせいで、他の人が口を挟みづらそうにしていることがある、と。
反省しながらも、故郷でも咲く花をもう少し近くで見たいという欲求は抑えきれず、お伺いを立てるようにヴォルフラムを見上げる。
「もう少し近くで見てもいいですか?」
「湖に落ちないよう気をつけろ」
許可をもらえたので、わたしはゆっくりとした足取りで小花に近づいた。湖の際に咲いているから、足を滑らせれば最悪湖に落ちてしまうだろう。
後ろからヴォルフラムの足音がついてくる。小花に触ることができる距離まで近づくと、風に膨らむスカートの裾を巻き込むようにしゃがみ込んで、リシの花を見下ろした。
「庭師のアヒムさんから、庭園がお気に入りの場所だとお聞きしました。ヴォルフラムは花がお好きなんですか?」
上目遣いで尋ねる。ヴォルフラムはできるだけ目線の高さを近づけようとしてくれたのか、リシの花を挟んで正面に膝をついた。
「花を見ると、心が落ち着く」
王城の庭園をあそこまで立派にしたのは、ヴォルフラムのお母さまであったとアヒム先生から聞いた。いつも花のように微笑み、花の香りを纏っていた、美しい方だったのですよ、と先生は話していた。
もしかするとヴォルフラムの花好きは、お母さまの影響を受けてのことかもしれない。きっと幼い頃から花と慣れ親しんできたのだろう。そうでなければ花を見て、心が落ち着く、なんて言わないはずだ。
ヴォルフラムは多くを語らない。だから花にまつわる自身のエピソード一つ知ることはできなかったけれど――ヴォルフラムとの共通点を見つけられて嬉しかった。
「わたしもです。一緒ですね」
一緒。きっとヴォルフラムは、その響きが好きだ。
観光地――リシ湖について詳しくないと落ち込んだ彼を明るくさせたのも、「わたしと一緒ですね」というフォローだった。そしてヴォルフラムだけでなく、「一緒」と口にしたわたしも嬉しく思っているのだ。
一緒が嬉しい。それは小さな子どものような感情に思えたけれど、まだ出会ったばかりのわたしたちにとっては、大切な感情の共有のように思えた。
――その刹那、びゅうと強い風が吹き抜ける。あ、と思ったときには遅かった。履き慣れないヒールサンダルの踵が、ずる、と滑る。
ぐらりと傾いていく自分の体を、立て直す時間はなかった。宙に向って体が投げ出され、目の前には、美しい湖面――
「シヅル!」
数瞬後に訪れるであろう衝撃に備えて、ぎゅ、と強く瞼をつむった瞬間、強い力で抱き寄せられたような気がした。
バシャン! と大きな音を立てて湖に頭から落ちる。水温の冷たさに素肌がちくちくと痛んだものの、落ちた場所の水位はそこまで深くなく、水底に足がついた。だから慌てず体勢を立て直そうとした瞬間、ぐい、とすごい勢いで引き上げられる。
水面から顔を出したわたしが最初に見たものは、
「シヅル! 大丈夫か!」
鬼気迫った表情でこちらを見下ろすヴォルフラムだった。
ずぶ濡れの夫の姿に、さぁ、と顔から血の気が引く。足元がふらついたわたしを庇ってヴォルフラムが湖に落ちたのは明らかだった。
浮かれた自分がリシの花を間近で見たい、なんて言い出したせいで――
「も、申し訳ございません!」
ヴォルフラムから距離を取って、頭を下げた。湖の水位が胸元あたりまであるせいで大きく腰を折ることはできなかったけれど、湖面に鼻先が触れていた。あぁ、いっそこのまま顔を水の中に埋めてしまいたい、穴があったら入りたいとはこのことだ、なんて本気で思う。
はしゃいでいた。会話を少しでも弾ませようと、回避できたはずの危険に自ら突っ込むように小花に近づいた。すべてわたしのせいだ。わたしが空回ったせい――
「シヅル、その、怪我はないか? ……突然抱き寄せてすまなかった、気を悪くしたのなら謝る」
どう考えてもわたしが謝罪する立場であったのに、なぜかヴォルフラムから謝られて、驚きと困惑に顔を上げる。そこにあったのは叱られた子どものような表情を浮かべたヴォルフラムの顔だった。
彼の言葉から察するに、どうしてそのような思考回路になったかは分からないものの、変な誤解をしているようで――わたしはその誤解を解くために、一歩前に出て、所在ないというように宙を彷徨っている逞しい腕にそっと触れる。そうすればびくりと大きくヴォルフラムの肩が跳ねた。
「いいえ! 庇って頂けて嬉しかったです! でもわたしのせいでヴォルフラムまでびしょ濡れで……」
無事に誤解は解けたのかヴォルフラムは伏せていた目線を上げたのだが、カッと目を見開いたかと思うと、顔ごと横を向いた。頬どころか首まで赤く染まっている。
一体何があったのかと彼の逸らされた視線を追おうとしたとき、ヴォルフラムは素早い動きでわたしの肩に自分が着ていた上着をかけた。水を吸ってずっしりと重くなったそれは、冷えてしまった体を風から守ってくれる。
「気にするな。これぐらい、魔法ですぐに乾かせる。シヅルが無事でよかった」
ヴォルフラムの言葉にわたしもほっと息をついて、上着をぎゅっと握った。夫は今回のことを全く気に留めていないどころか、わたしのことを責める発想自体、持ち合わせていないようだった。
彼の優しさに甘えず、今回のことはしっかり反省しよう。わたしのせいで魔王たるヴォルフラムが傷つくようなことはあってはならない。魔王の妻失格だ。
遠くからミヅキたちが呼ぶ声がする。きっと落ちた際の大きな音を聞きつけたのだろう。
ヴォルフラムは断りを入れてから、わたしの体を抱き上げた。あまりに自然な動作に慌てたが、履きなれないヒールサンダルでは水の中を歩けそうになかったため、そのまま運んでもらう。
恥ずかしさと申し訳なさで俯いていたら、すぐ横でヴォルフラムが「あ」と声をこぼした。
「水に濡れたシヅルを見ると、過去見ていた舞を思い出す」
「舞ですか?」
顔を上げてヴォルフラムと目を合わせる。すると彼はふっと笑って、私の頬に張り付いていた濡れた髪を払った。
「雨巫女様と呼ばれていただろう。雨の中、笑顔で舞うシヅルはとても……美しかった」
直球の誉め言葉に、どうしても頬が赤らんだ。
雨の中、髪を濡らしながら舞うことは珍しくなかった。だからヴォルフラムが美しいと称してくれた舞がいつのものか分からなかったけれど、失敗したところを見られていないといいな、なんて思う。
基本的に舞はそれ専用に作られた舞台――お堂で行う。けれど地方にはお堂がない町や村も多かったから、自然の中で舞うことも少なくなくて。お堂であれば雨が降っても問題はないけれど、外での舞は度々ぬかるんだ地面に足を取られて、転んでしまうこともあったのだ。
それを見られていたら恥ずかしいな、と黙って考えていたら、
「すまない。勝手に見られていたんだ、気味が悪いよな」
またヴォルフラムに勘違いさせてしまったらしい、彼は若干俯くように目線を下げた。
わたしに対する罪悪感のせいか、はたまた真面目な性格のせいか――おそらくはそのどちらも、なのだろうけれど――ヴォルフラムは後ろ向き思考だ。悪い方、悪い方へ考えてしまう。こういうときにこそ、わたしの“おしゃべり”が彼の気を紛らわせられれば良いのに、なかなかうまくいかない。
とにかく今彼が抱いている誤解を解こうと、視線を伏せたヴォルフラムの顔に指先で触れた。そして先ほど彼がしてくれたのと同じように、額に張り付いた濡れた髪を払う。
わたしの髪はふわふわしていて緩いウェーブを描いているけれど、ヴォルフラムの髪はサラサラで真っすぐだ。
「いいえ、嬉しいです。ねぇ、ヴォルフラム、今まで見た舞の中でどれが一番好きでしたか?」
舞を見られていたことを気にしていない、という意思表示のため、そしてそれ以上に疑問に思って問いかけてみた。するとヴォルフラムは「少し待ってくれ」と考え込んでしまう。
「思い入れが一番あるのは初めて見た舞だが……大樹の根本での舞はとても神秘的だったし、夜の舞台での舞は幻想的で――」
ぶつぶつと呟くヴォルフラムの横顔はとても真剣なもので、軽い気持ちで問いかけたこちらとしては、面映ゆくなってしまう。
結論として、彼は答えを出すことはできなかった。「すまない」と肩を落としたヴォルフラムに、わたしはいつの間にか乾いていた体――きっと彼が魔法で乾かしてくれたのだろう――を揺らして笑う。
そんなわたしたちの様子を、ミヅキたちは遠巻きに眺めていたらしい。話が一段落したとみるや、宿に戻りましょうと声をかけてきた。
ヴォルフラムはわたしを抱き上げたまま、宿に向って歩き出す。もう濡れていないし、水底を歩くわけでもないのだから一人で歩けると思ったけれど、それを指摘するのはなんだか勿体ない気がして、わたしはほんの少しだけ、ヴォルフラムの肩に回していた腕にぎゅうと力を込めた。