04:「ヴォルフラム」
「これを、陛下に?」
夕食後、ヴォルフラム陛下の側近であるザシャさんに、ひとつ頼み事をした。
アヒム先生に教わって作ったミニブーケを、陛下に届けてほしかったのだ。
「いつも頂いてばかりですから、たまにはわたしからも……と思いまして」
手渡した陛下宛のブーケは、白や黄、オレンジといった淡い色の花で作った、目に優しい色使いのブーケだ。アヒム先生にご助力頂いた結果、春のあたたかさを思わせるブーケが完成して、侍女のミヅキも「きっと陛下もお喜びになりますよ」と太鼓判を押してくれた。
ザシャさんは数秒手元のブーケを眺めていたが、すぐに大きく頷いた。
「確かに、私からお渡しして――」
そこで何か思いついたのか、はた、と言葉を途中で切る。
どうしたのだろう、と首を傾げると、ザシャさんはにっこり笑った。
先日、メイドたちが彼の笑顔を「胡散臭い」と噂しているのを聞いたが、ザシャさんが有能な側近であると重々承知した上で、ほんの少しその気持ちが分かるような気がした。目尻に寄る皺まで左右対称になるよう笑うため、作り物のような印象を受けるのだ。
「シヅル様さえよろしければ、今からこのブーケを直接陛下に届けてくださいませんか?」
ザシャさんの提案は願ってもないものだった。
結婚式の夜以降、ヴォルフラム陛下と一度も会えていない。少しの時間であっても、会えるものなら会いたい。けれど陛下はとても忙しい身で、それが分かっているからこそ無理を言うことはできなかった。
「陛下はお忙しいのでは……」
「少し休憩したいから紅茶を持ってくるよう私に言われましてね。むさくるしい男が持っていくよりも、シヅル様の方が陛下も喜ばれるに違いないと思いまして」
ザシャさんは“むさくるしい”と称するには適さない細身の男性だけれど、それを指摘するよりも先にわたしは頷いていた。すると善は急げとばかりに自室からヴォルフラム陛下の執務室の前まで案内される。
扉の前にはティーポットとティーカップが二つのせられたサービングカートが用意されていた。随分と仕事が早い。
作ったミニブーケをティーポットの傍らに置いて、執務室の扉を叩いた。
「入れ」
扉の向こうから聞こえてくるくぐもった声が鼓膜を揺らす。疲れているのだろう、語尾が微かにかすれているように思えた。
失礼します、と断りを入れた瞬間、目の前の扉をメイドが大きく開けてくれる。その音に顔をあげたヴォルフラム陛下は、まさか扉の向こうにわたしがいるとは思ってもみなかったのか、赤の瞳を大きく見開いていた。
「な、な、シヅル殿!?」
陛下はペンを机上に投げ捨てて、こちらに駆け寄ってくる。わたしを見下ろすヴォルフラム陛下の顔に確かな疲労の色が浮かんでいるのを見て、胸が痛んだ。
突然の訪問者に慌てふためく陛下を席に座るよう促し、慣れない手つきで紅茶を振舞う。彼は一口紅茶を飲んだことで多少落ち着きを取り戻したようで、やや上擦った声で問いかけてきた。
「どうしてシヅル殿がここに?」
「お疲れのところ申し訳ありません。ただ、今日、アヒムさんと一緒にブーケを作ったんです。お渡ししたくてザシャさんにお願いしたら、紅茶と一緒に届けてはどうかとアドバイスを受けて……」
余計な時間をとらせることのないよう、できるだけ早口で詳細を省いて説明する。その間ヴォルフラム陛下はじっと赤の瞳で私を見つめて、耳を傾けてくれていた。
わたしが説明を終えた後、陛下は一呼吸置いてから口を開く。
「ありがとう。ずっと一人にしてしまってすまない……」
がっくりとヴォルフラム陛下は肩を落とした。心底落ち込んで反省している様子の彼を、これ以上責められるはずもない。
とても真面目で、誠実な方なのだろうと思う。そしておそらく、半ば強引にわたしを呼び寄せてしまったことに、大きな罪悪感を感じている。
だからわたしは少しでもヴォルフラム陛下の気持ちを軽くできれば、と、笑顔で首を振った。
「何か不便はないか?」
「いいえ。皆さんとてもよくしてくださいます」
気持ち声のトーンを高くして答えれば、ヴォルフラム陛下はほっと息をついた。彼はつくづく顔に感情が出るから、こちらとしてはありがたい。
ヴォルフラム陛下はわたしが作ったブーケにそっと触れる。とても優しい手つきだった。
「今日は庭園に行ったんだな」
「はい。メッセージカードでヴォルフラム陛下が勧めてくださったので……」
ム、と陛下の口が引き結ばれた。
何か失礼をしてしまったかと慌てて口元を押さえる。そしてこれ以上余計なことを言って不興を買わないよう、相手の言葉を待った。
「ヴォルフラムと呼んでくれる約束ではなかったか?」
怒っている、というより拗ねた子どものような口調と表情だった。
――確かに結婚式の日の夜、ヴォルフラム陛下は正座で足を痺れさせながら「ヴォルフラムと呼んでくれ」と言った。そしてわたしは頷いた。だから陛下、ではなくヴォルフラム陛下、と呼ぶように心がけていたのだけれど――
薄々、勘づいてはいたのだ。この呼び方は陛下が真に望んだものではない、と。けれど恥ずかしかった。そして畏れ多かった。いきなり魔王さまのことを名前で、それも呼び捨てで呼ぶなんて。
しかしいくら理由を並べたところで、本人が望んでいるのであれば――わたしはそれに応えたい。
呼吸を整える。そして、
「ヴォルフラム」
その名前を呼んだ。
そうしたら、ヴォルフラム陛下は――ヴォルフラムは、こちらが赤面してしまいそうなほど幸せそうに笑うから。なんだか羨ましくなってしまって、自分も名前で呼んで欲しい、という願望が湧いて出た。
赤らんだ頬を袖口で隠しながらヴォルフラムを見上げる。
「ヴォルフラムも、わたしのことはシヅルとお呼びください」
「呼んでいるだろう」
予想通りの返事が帰ってきたので、「いいえ!」と大きく首を振った。
「シヅル殿、ではなく、シヅル、と」
うぐ、とヴォルフラムは顎を引いた。既に頬が赤くなっている。
すぐさま拒絶されなかったのを見るに、きっと恥ずかしいだけなのだろう。けれどこのタイミングを逃せば、ずっと「シヅル殿」と呼ばれるような気がした。だから、引く気はない。
じっと見上げる。すると数秒後、観念したようにヴォルフラムは一度下唇を噛み締めてから、ゆっくり、ゆっくり唇を解いてゆく。
そして、
「……シヅル」
わたしの名前を呼んだ。
“殿”という敬称が取れただけなのに、こんなにも響きが違って聞こえるのは何故だろう。どうしてこんなにも、嬉しいのだろう。
「シヅル」
「はい」
確かめるように名前を再度呼ばれる。わたしはただ、頷いて返事をした。
不意に、ヴォルフラムはわたしの手を取る。そしてその甲にそっと唇を寄せた。
大きな手。ほんの一瞬、触れた唇の熱。
「あと少しで、仕事も一段落する。そうしたら、シヅルの話をきかせてくれ」
希うような瞳に、言葉に、大きく頷いた。
わたしにも、そしておそらくはヴォルフラムにも、自分たちが歪な夫婦だという自覚がある。だからこそ、時間が欲しかった。お互いのことを知るための、穏やかな時間が。
「楽しみにしていますね」
その夜飲んだ紅茶は、シロップも何も入れていないはずなのに、今まで飲んだどの紅茶より甘く感じた。