21:「きっとあなたの傍に行きます」
お披露目会が終わり、控室に戻ってきた瞬間、ヴォルフラムの体がぐらりと傾いた。
咄嗟に支えようと手を伸ばす。しかしヴォルフラム本人が足を踏ん張って体勢を立て直したので、わたしの手が彼の体重を支えることはなかった。
「ヴォルフラム!」
「大丈夫、寝不足なだけだ……」
ふ、とわたしに微笑みかけて、今度こそヴォルフラムはその場に倒れ込む――その前に、ファティマさんとザシャさんが意識をなくしたヴォルフラムの体を支えた。
それからヴォルフラムは自室へ運びこまれた。眠っている彼の傍についていたいというわたしの申し出は聞き届けられて、ベッドの横に用意された椅子に座る。
眠るヴォルフラムの顔色は、そこまで悪くない。寝息も穏やかだし、本人が言ったとおり寝不足が祟ったのだろう。
やがてやってきたお医者さまは、主人が倒れたにもかかわらず全く慌てる素振りを見せなかった。「寝不足と過労ですな」とため息交じりに診察を終える。
お医者さまと入れ違いでやってきたザシャさんも、至って普段通りだ。
「陛下の様子はいかがですか?」
「少し熱があるみたいです。寝不足と過労だって、お医者様が」
ザシャさんも「そうですか」と頷くばかりで、心配する様子が全くない。
お医者さまと側近の態度に驚きつつ、彼らのおかげでわたしもそこまで焦燥感に駆られることはなかった。彼らの様子からしてきっと大丈夫だろう、と楽観的な考えが顔を出すものの、ヴォルフラムが倒れた原因はわたしにある。
お披露目会に駆け付けるために、ヴォルフラムは仕事を詰め込んだに違いないのだから。
「わたしのせいで、ヴォルフラムに負担を……」
「陛下は昔から幾度となく過労で倒れてらっしゃいます。珍しいことではありません。一週間休むことなく働いて、最終日に倒れて一日休む……というのがお決まりのパターンでしたね」
まったく、と呆れたようにぼやくザシャさんが嘘をついているようには見えなかった。
「いつものことです」
そう付け足したのは、俯くわたしへのフォローだったのだろう。お気になさらず、と言われたような気がして、わたしはザシャさんに柔く微笑んだ。
部屋の時計を見やる。もうすぐ夕食の時間だが、ヴォルフラムの傍を離れがたかった。
「……傍についていても、構いませんか」
「むしろ、よろしくお願いします。陛下も喜びます」
ザシャさんは笑顔で頷いて、夕食もここに運ぶよう手配してくれた。
***
さら、と髪を撫でられる感触に意識が浮上した。
ぼんやりとした視界のなか、瞬きを繰り返す。だんだんと焦点が定まっていき、こちらを覗き込む赤の瞳と目があった。
「おはよう、ございます……?」
「おはよう、シヅル」
次いで鼓膜を揺らした声に、ヴォルフラムだと認識する。
「ずっとついていてくれたんだな。ありがとう」
はにかむヴォルフラムをぼんやりと眺めながら、夕食後に寝落ちてしまったのだと理解した。しかしそれにしてはなんだか変だ。椅子に座ったまま寝てしまったのなら、なぜ今、柔らかなマットレスの上で横になっているのだろう――
回らない頭で考え続けて、ようやく気付いた。わたしがベッドに寝て、ヴォルフラムが椅子に座っている。つまり、寝落ちしたわたしにヴォルフラムがベッドを譲ってくれたのだ。
「ご、ごめんなさい、わたしがベッドを使ってしまって……!」
「いい、気にするな」
慌てて上半身を起こしたわたしを押しとどめるように、ヴォルフラムの大きな手がそっと肩に触れた。しかし押し返されることはなかったので、上半身を起こしたまま、自分の恰好を改める。
あのまま寝落ちてしまったのだから当然と言えるかもしれないが、わたしは豪勢な巫女装束を着たまま、ベッドに横になっていた。フリルや裾などが皺になってしまっているかもしれない。
「どうしよう、せっかく作ってくださったのに、皺になっちゃったかも……」
しかしここで脱ぐことは躊躇われたため、襟元を正してヴォルフラムに向き合う。
控室につくなりヴォルフラムが眠ってしまったから、まだきちんとお礼を言えていないのだ。
「ありがとうございました。お忙しい中、来てくださって」
「私が勝手にやったことだ」
「でも、嬉しかったので」
「……それなら、よかった」
ヴォルフラムは瞼を伏せて口元を緩めた。少し伸びた前髪を、払うように撫でられる。
落ちた沈黙。二人きりという状況に、絶好に機会だ、と思った。
――ヴォルフラムと共に永いときを生きるか否か。答えはもう、決まっている。
「ここ数日、考えてみたんです。永いときを生きるということを」
突然切り出したわたしに、ヴォルフラムは揺れる瞳でこちらを見た。
「正直、想像がつきませんでした。だってわたしにとって数百年、数千年なんてあまりに永い時間で、どうやったら使い切れるのか、見当もつかないんです」
ヴォルフラムは一切口を挟まない。ただわたしの言葉に耳を傾けている。
「でも魔族の皆さんは、そう思っていらっしゃる様子はなくて……たぶんこの感覚の違いは一生埋められない大きな溝のようなもので、この溝は他にもたくさんあるんだと思うんです」
ヴォルフラムはそこで視線を伏せた。
彼にとって、あまり耳障りの良くない言葉を使っている自覚はあった。だから不安にさせてしまったのだろう。
沈んでしまったヴォルフラムを引き上げるように、声を張って続けた。
「でも、だからこそ、一生かけてわたしはわたしたちの間にある溝を一つでも多く埋めたい」
溝は埋めればいい。覚悟は決めればいい。簡単なようで、難しい話。何百年という永い月日をもってしても、成し遂げられるか分からない。
だから、と続ける。
「わたし、つよくなります。つよくなって、溝を埋めて――もしくは飛び越えて、きっとあなたの傍に行きます」
赤い瞳を見開いてヴォルフラムはわたしを見た。
「どれだけかかるか分かりません。もしかしたら何十年、何百年とかかってしまうかもしれない。けれど、諦めません。もう、覚悟は決めたので」
ヴォルフラムの頬にそっと手を伸ばす。そして彼がいつもそうしてくれるのを真似するように、手の甲でかさついた頬を撫でた。
若干遠回しな言い方をしてしまったせいか、ヴォルフラムは目を丸くしたまま動かない。
「永いときを生きるんだったら、やっぱり目標は必要でしょう?」
てっきり笑ってくれるかと思ったヴォルフラムは、苦しそうに眉間に皺を寄せていた。
「シヅル、私は……ずるい男だ」
まるで懺悔するような声で語りだす。
俯いたせいで、長い前髪がヴォルフラムの顔に濃い影を作っていた。
「将来、シヅルが後悔したとしても……今日の言葉を免罪符に、強引に生かそうとするだろう。それでも、良いのか?」
――あぁ、と思う。ヴォルフラムはつくづく優しい魔族だ。
永いときを共に生きろ、と言えない彼。わたし自身の決断であっても、喜びより先に戸惑いを抱く彼。
愛おしさが胸の内に溢れて、自然と微笑んでいた。
「だったら、後悔させないようにしてください」
後悔させないと言い切れない、そんな弱虫なヴォルフラムだからこそ、わたしは好きになったのだ。傍にいたいと、思ったのだ。
「ね?」
念を押すようにぐっと前かがみになって、ヴォルフラムの顔を下から覗き込む。
数秒、見つめ合った。揺れる赤の瞳が少しずつ定まってくる。そして、ジワリと潤んだ瞬間を見た。
それから数秒間を置いて、口元が緩められる。少しずつ、少しずつ、わたしの言葉を咀嚼しているのだと分かった。
ヴォルフラムの震える声が鼓膜を揺らしたのは、十秒以上経ってからだ。
「……は、はは、その通りだな」
ヴォルフラムはわたしの手を握って、頬ずりする。
「私よりよっぽど男前だ」
多くのものを背負うヴォルフラムと違い、わたしは身軽であるが故に考えなしで動けるのだ。ただの考えなしの無鉄砲を男前と称するのはあまり相応しくないように思えたが、口を挟むことはしなかった。
「私にも、溝を埋める手伝いをさせてくれ」
「はい、もちろん」
歩み寄ってくれようとするヴォルフラムの心が嬉しい。
ぎゅう、と強く抱きしめられた。
「ありがとう、シヅル」
自分を抱きしめる腕が震えていることに気付かないふりをして、わたしは抱きしめ返した。
朝日が差し込む部屋で、わたしたちは本当の夫婦になれたような気がした。
***
「王妃様」
――最近、そう呼び掛けられることにようやく慣れてきた。
ゆっくりと振り返る。そこには侍女・ミヅキと魔王の側近・ファティマさんが立っていた。
「よくお似合いですわ」
ファティマさんが優しく微笑む。彼女の言葉にほっとして、鏡に映る自分の姿を改めて見た。
豪華にアレンジされた巫女装束に身を包む魔王の王妃。一年前と比べると、多少は凛とした顔つきになった――と思いたい。
一年前。――わたしが魔王・ヴォルフラムの許に嫁いできた、あの日。
今日は魔族の王と人族の姫の記念すべき結婚から一年経ったとして、城下町で祭りが催されているらしい。国の祭日に定められている訳でもないのに、国民たちが自主的に祝おうと声を上げてくれたようだ。
そんな彼らの思いに応えるべく、急遽バルコニーから“魔王夫婦”が挨拶をすることになった。
「さっ、シヅル様。陛下が待ちくたびれてしまいますわ」
ファティマさんに促されるまま、わたしは一年前と同じように王妃の控室から謁見の間へと向かう。
正直、まだまだ王妃としては半人前どころかろくな公務すら行っていない。この国での生活に慣れるのでいっぱいいっぱいだった。
それなのに、国民たちは結婚一周年を祝ってくれる。嬉しいような、申し訳ないような、重責を感じてしまうような。
ううん、と一人こっそり頭を悩ませていたら、あっという間に謁見の間につながる大扉の前までたどり着いた。
一年前、この扉の前でひどく緊張していたことを思い出す。たかが一年、されど一年。あのときとは全く違う心境で、わたしは目の前の扉が開くのを待っていた。
「シヅル」
両開きの扉の向こう、優しく微笑みかけてくれるのは、この国を統べる夫・ヴォルフラム。
彼は一年前と同じように、花婿衣装と思われる純白の衣服を身にまとっていた。
(怖いひとだったらどうしよう、なんて、不安に思ってたなぁ)
魔王というおどろおどろしい響きから、そして潔癖王という噂から、わたしはまだ見ぬ夫を恐ろしい魔族なのではないかと疑っていた。けれど実際のヴォルフラムは――優しく、誠実で、心の底から愛おしく思える魔族だった。
ヴォルフラムはこちらに手を差し伸べる。手を重ねれば、ぎゅっと強く握られた。その力強さが、ぬくもりが心地いい。
「どうかこれからも、末永くよろしく頼む」
頷いて、彼の横に並び立つ。そしてバルコニーの方から聞こえる歓声に向かって歩き出した。
――わたしたちの物語の最後に、魔王・ヴォルフラムとその妻・シヅルは最後まで共にあったと綴られるよう、末長く共に歩いて行こう。




