20:「敵わないな、君には」
王妃のお披露目会――有力貴族との顔合わせ――が決まってから、慌ただしい日々が続いた。
どうやら会は立食パーティーのような形で行われるらしいのだが、パーティーなんてものに一度も出席したことがないわたしは、一通りのマナーからワルツの踊り方まで朝から晩まで頭に詰め込んだ。
お披露目は一時間にも満たない、本当にただの顔合わせであるから、そこまで厳密に学ばなくてもいい、とザシャさんにもファティマさんにも言ってもらったけれど、わたしはできる限り王妃として完璧な振舞を身につけたかった。
(お役目は、きちんと果たしたい)
巫女でなくなった今、わたしのお役目は“王妃”だ。いつまでもヴォルフラムの優しさに甘えるのではなく、彼の隣に立って恥じない存在になりたかった。
***
――お披露目会当日、盛装するために控室へと向かう。昨晩は緊張のあまりなかなか寝付けなかったけれど、足取りはしっかりしている。巫女として忙しい時期は、ろくに眠らずぶっ通しで舞を披露することもあったから、体調が芳しくないときの乗り越え方は心得ていた。
控室に用意されていたのは純白のドレスではなく、豪華にアレンジされた巫女服だった。基本的な形はそのまま、決して下品にはならない程度に控えめに、しかしボリューミーにフリルがあしらわれている。
「ドレスでなくて良いのですか?」
美しい装束に目を奪われながらぽつりと問いかける。
答えてくれたのはファティマさんの声だった。
「ドレスも素敵ですが、着慣れた服の方がリラックスできるかと思いまして。……勝手にアレンジしてしまいましたから、何か失礼があったら申し訳ございません」
「いいえ、とっても素敵です。ありがとうございます」
振り返る。そこに立っていたファティマさんは金の髪を一つにまとめ、王子様のような豪華な衣服をこれ以上なく着こなしていた。同性だと分かっていても、頬が赤らんでしまうほどだ。
「ファティマさんもすごくお綺麗です。かっこいい」
「うふふ。今日のエスコートはお任せください」
――ヴォルフラムは相変わらず仕事に追われている毎日だ。だから彼の代わりに今日はファティマさんがエスコートしてくれるらしい。これ以上心強いことはない。
ザシャさん曰く、ヴォルフラムは今回のお披露目会に立ち会えないことにひどく落ち込んでいるとのことだった。今朝贈られてきた花束はいつも以上に豪勢で、メッセージカードにも謝罪と励ましが裏面まで続くほど綴られていて。その気持ちだけで十分だった。
むしろ今回、ヴォルフラムが隣にいないことは却ってよかったかもしれない。彼がいたら甘えてしまう。
着替えましょうとファティマさんに促されて、わたしはいつもの巫女装束から豪華な巫女装束へ着替える。着心地は普段とそこまで変わらず、裾で足が取られるといった心配もなさそうだった。
「お似合いです、シヅル様」
侍女のミヅキが鏡越しに微笑む。その横でファティマさんも頷いたのが見えた。
鏡に映った自分の顔はひどく緊張している。表情が硬い。頬をむにむにと手で解してから口角を上げてみたが、歪な笑顔になってしまった。
「シヅル様、私は先に会場に向かっておりますので、準備が終わりましたらごゆっくりお越しください」
ザシャさんの声が扉の向こうから聞こえてくる。
わたしは大きく深呼吸をして、「はい」と返事をした。声は震えなかった。
ファティマさんが差し出してきた手を取る。そして彼女の慣れたエスコートで、ミヅキに見送られながら控室を出た。
今回の会場は、舞踏会などでも使われるホールだと聞いている。立食パーティーのような形式で、食事も楽団も用意はしているが気にしないで良いとザシャさんは言っていた。わたしの今回の仕事はあくまで挨拶だけ。一通りの所作は頭に詰め込んだけれど、披露せずにすむのであればそちらの方がいい。
やがて会場の入り口に到着した。そこでザシャさんと合流する。
彼はわたしとファティマさんの姿を見て、モノクル越しの目を丸くした。
「お二人とも、とてもお似合いです」
服装も笑顔も普段となんら変わらないザシャさんにほっとした。
「さっさと済ませてしまいましょう」
わたしの緊張を見越してか、ザシャさんは軽い口調で言う。引きつりそうになる頬を叱咤して、できるだけ自然に微笑んで頷いた。
会場の扉が開かれる。瞬間、眩しさに目が眩んだ。
扉の先に広がっていたのは、今まで縁もゆかりもなかった世界。豪奢なシャンデリア、色とりどりのドレス、優雅な音楽を奏でる楽団、並べられた料理たち――
一瞬足が止まりかけて、こちらに向けられる数多くの瞳にハッとなった。今この時から、わたしは魔王の妻として見られている。一秒たりとも気を抜いてはいけない。
「皆さま、お集り頂き誠にありがとうございます。本日は――」
ザシャさんが淀みのない口調で集まってくれた貴族たちに挨拶をする。本当であればわたしが行うべき挨拶なのだろうけれど、俯かないように胸を張るだけでいっぱいいっぱいだった。
ふと、ザシャさんの声が途切れた。かと思うと彼はこちらを見る。ぽん、とファティマさんに背中を押されたことで、自己紹介を促されているのだとようやく気付いた。
一歩前に出て、並ぶ貴族たちの顔を一通り見渡す。そこまで大人数ではないが、皆これ以上なく豪華な衣服を身に纏っている。この国の頂点に近い魔族なのだということは誰の目から見ても明らかだった。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。シヅルと申します。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
ファティマさんに習った通り、腰を落とし恭しく頭を下げる。瞬間、ひと際大きな拍手が聞こえたかと思うとすぐにまわりに広がり、あっという間にたくさんの拍手に包まれた。
顔を上げる。こちらに向けられるたくさんの笑顔に、肩の力が抜けた。
予想以上にあたたかく歓迎してもらった後は、次から次へと流れるように貴族たちと挨拶を交わした。横に控えていたザシャさんが丁寧な解説を逐一入れてくれたのだけれど、
「アーカート卿です。古くから王家との繋がりが深く、王都近くに領土をお持ちで――」
情けないことに、彼の解説は右から左へと流れていってしまった。
そろそろ足が痺れてきた――そう弱音が顔を覗かせたとき、ひと際大きな魔族の男性がゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。彼を見て、隣に立つファティマさんが襟元を正す。
一見すると優しい笑顔を浮かべている穏やかな老魔族であるのに、なぜだろう、今までにない圧迫感を感じた。
「フィルバード卿です。三百年、我が国の軍事大臣を務めていただいております」
「さ、三百年……!」
「いやはや、長生きするものですな。こんなにお美しい方とお会いできたのですから」
彼――フィルバード卿は立派な髭をしきりにさすり、わたしの顔を覗き込むように腰を大きく曲げて挨拶する。
三百年もの間大臣を務めているという事実からして、この国の政で重要な地位にいる方なのだろう。彼の纏う“明らかに只者ではない空気”も、国を支え続けてきた経験によるものかもしれなかった。
「この国はよくも悪くも魔族のための国です。王妃様の目からみて、不便なこと、非常識なことがあればぜひ教えてください。我々では気づけないことも多いでしょうから」
フィルバード卿はわたしの手をとって、手のひらに触れるか触れないかの口づけを落とす。そのスマートな動作にわたしは面食らってしまって、下手くそな笑顔で応えることしかできなかった。
ろくな会話すらできないわたしに、フィルバード卿は笑顔で続ける。
「それにしても、私が生きているうちに陛下が奥方を迎えるとは思いませんで。おかげで賭けに負けてしまいました」
「フィルバード卿、主君で賭け事とは感心しませんね」
「はっはっはっ! 相変わらずザシャ坊はお堅いな」
フィルバード卿の豪快な笑い声に鼓膜がびりびりした。しかしすぐに笑い声を引っ込めると、今度は耳馴染みの良い柔らかな声で言う。
「まだ慣れぬことも多いでしょうに、このような場を設けて下さり感謝しております。けれど皆それだけ、今回の婚姻を嬉しく思っているのです」
後ろに控えている貴族たちを振り返るフィルバード卿。彼の言葉に皆笑顔で頷いた。
ここにいる貴族たちは、おそらくではあるがヴォルフラムの腹心に近い存在なのだろう。この国の貴族がこれだけとは思えない。王家と繋がりが深く、ヴォルフラムが信頼している魔族たちが集められているに違いない。だからこそ、わたしは予想以上にあたたかく迎え入れられているのだ。
フィルバード卿の金の瞳がす、と細められた。先ほどからやけに目が合うなと感じていて、このときようやく彼がずっと膝と腰を曲げてわたしと目線を合わせていたことに気が付いた。
「陛下は前時代の腐敗を断ち切り、この国を照らしてくださった太陽のような存在です。しかし光は強ければ強いほど、影もまた濃くなります」
妖しい光をたたえた瞳に貫かれる。まわりの温度が数度下がったような感覚に襲われた。
目の前のフィルバード卿は笑っているのに、本能的な恐怖を感じ、体が竦みあがる。
喉が引きつって、何も答えられないわたしにフィルバード卿は続けた。
「陛下を支持する者は多い。けれど彼に恨みを持つ者も少なくありません。多くを救いあげてきた分、切り捨てるものも多かった」
す、とフィルバード卿の手の甲が首筋に触れる。いつ、手を伸ばしたのだろう。全く反応できなかった。
とん、と手の甲で首を軽く叩かれる。ぞわり、と悪寒が指先まで駆け抜けた。
「――私が“その気”なら、今頃あなたの首と胴体は繋がっていなかったでしょう」
向けられているのは、敵意。――違う、殺意だ。
フィルバード卿が今この時、魔法を使っていたら。彼の言う通りわたしは今頃命を落としていただろう。
震える指先で彼が触れた首筋を辿る。傷一つついていない。当然のことであるのに、そのことにひどく安心して、は、と息がこぼれた。
「あなたは何もしていない。それどころか陛下の我儘で連れてこられた被害者だ。しかし魔王の妻というだけで、命を狙われる存在になってしまうのです。血塗られた歴史の中で、惨たらしく殺された王妃も少なくない」
ぶわ、と体中の毛穴から汗が噴き出す感覚に襲われた。
首筋に宛てていた手を強く握りしめる。
「それでも陛下の隣に立ち続ける覚悟はおありですか?」
フィルバード卿が笑みを消して、私の瞳を覗き込んだ。
――何も知らないあなたにはそんな覚悟はないでしょうと、言われているような気がした。馬鹿にされているのではない、見下されているのでもない。もっと根本的に――諦められているのだと、感じた。
わたしのような小娘が、魔族の歴史も常識も知らない人族が、沢山のものを救いあげ、切り捨て、背負っているヴォルフラムの隣に立つ覚悟なんて、持てるはずがない、と。
それはもしかしたら、正しいのかもしれない。寿命も常識も何もかも違う人族が、魔族の王に釣り合うことなどありえないのかもしれない。――けれど。
「……わたしは、無知です。小さな国で生まれ、世界を学ぶことをしなかった。だから陛下の過去も、血塗られた歴史も、存じ上げません」
フィルバード卿を見上げる。なんの感情も覗けない冷ややかな瞳に思わず目を逸らしてしまいそうになるけれど、ここで逸らしてはいけない、とぐっと堪えた。
「それは恥ずべきことです。これから学ばなければなりません。けれど今は少しだけ、自分の無知さに感謝しています」
ふわり、と微笑んだ。
わたしは無知だ。この国の歴史も、ヴォルフラムが歩んできた険しい道のりも、彼が抱えているものも、何も知らない。魔族と人族の間にある、大きな溝すらろくに見えてはいない。
――けれどだからこそ、ただヴォルフラムの傍にいたいという想いだけで、甘ったれた覚悟を決めてしまえるのだ。
「わたしが陛下のお傍にいたいという想いだけで、あなたの問いに頷けてしまうんですから」
ぱち、とフィルバード卿は瞬き一つ。向けられた殺意が、明らかに弱まった。
覚悟は決めればいい。溝は埋めればいい。至極簡単な話だ。単純明快、解決方法は分かりきっている。なら――迷う必要はどこにもない。
「後悔することになるかもしれませんよ」
「後悔しないように、わたしがつよくなれば良い話です。どうか無知で愚かな王妃に、ご指導ください」
腰を落として頭を下げる。もう指先は震えなかった。
甘ったれた覚悟を通すためには、つよくならなければならない。そのためには、フィルバード卿をはじめとするヴォルフラムの腹心たちの協力を請う必要があるように思った。
つよくなろう。身も心も。多くを背負うヴォルフラムの横で、いつでも微笑んでいられるように。
フィルバード卿は微笑んで、両手を上げた。まるで降参するようなポーズに首を傾げたそのとき、
「……陛下、剣をしまわれてください」
え、と声がこぼれた。
じわり、とフィルバード卿の首元が“滲む”。かと思うと彼の首にぴたりとあてられた剣先が現れる。そしてその剣を握る手が、腕が、足が、体が、――フィルバード卿を厳しくねめつけるヴォルフラムの顔が現れた。
「ヴォルフラム!」
おそらくは魔法で姿を消していたのだろう。わたしの呼びかけにヴォルフラムは表情を和らげて、剣を下げた。
ヴォルフラムはフィルバード卿の背後を離れてわたしの傍らに立つ。
「ひとめ惚れしたと聞いたときは愚かな恋に溺れたのかと心配しましたが、なかなかどうして、陛下の“目”は私の脳よりずっと優秀だったようだ」
とても嬉しそうにフィルバード卿は笑った。その顔はまるで、ヴォルフラムの父親のようで。
「試すような真似をしてしまい、申し訳ございません」
大きく頭を下げたフィルバード卿に、わたしは首を振った。
先ほどまで彼に感じていた恐怖は、先ほどの彼の笑顔ですっかり消え去ってしまった。我ながら単純だとは思うけれど、ヴォルフラムのことを思っての行動だったのだと分かったから。
「王妃様が後悔されることのないよう努めるのは私共の仕事です。陛下のことでも国のことでも、何なりとお申し付けください」
心強い言葉だった。大きく頷いて返せば、フィルバード卿は悠然と笑う。彼はやはり、わたしと話すときは目いっぱい腰を曲げて、目線を合わせてくれた。
「良い奥様をお迎えになられましたな」
フィルバード卿はぽん、とヴォルフラムの肩に手を置いた。眉間に深い皺を刻みつつもその手を振り払わないのを見るに、とても信頼しているのだろう。どこか親子のようにも見える彼らのふれあいは、微笑ましかった。
ヴォルフラムの赤の瞳がこちらを向く。盛装した彼はいつも以上に凛々しく、疲れた顔をしているものの、眩しいぐらいだ。
「ヴォルフラム、どうして……」
「すまない、仕事を片づけるのに手間取った。本当であれば、最初から共に――」
首を振ってヴォルフラムの言葉を遮った。
仕事を急いで片づけて駆け付けてくれたのであろう彼に、これ以上謝らせたくはない。
「いいえ、来てくださっただけで嬉しいです。ありがとうございます」
嬉しく思うのと同時に、いつかはしっかり一人でも王妃としてのお役目を果たせるようになろう、と心に決める。
ヴォルフラムが無理を通して駆け付けてくれたのも、まだ慣れぬわたしを一人にすることが心配だったからだろう。その気持ちは嬉しい。しかし先ほど覚悟を決めたように、わたしはつよくなるのだ。寄りかかるのではなく、一人で隣に立てるような王妃に。
すぐにそうなれるとは思わない。たくさんの時間が必要だろう。それこそ――何百年という、永いときが。
不意にぱん、と乾いた音が空気を揺らした。フィルバード卿が手を叩いた音だ。
「さてさて、私のせいで会場が冷えてしまいましたな。ここはひとつ、陛下にお力添えを頂きたく……」
フィルバード卿がホールの中心を手で示す。瞬間、楽団がワルツの演奏を始めた。
二人で踊ってくれ、ということだろうか。正直自信はないけれど、一通りのステップはファティマさんに習った。ヴォルフラムさえ不服でなければ、フィルバード卿の提案に乗るところだが――
横に立つヴォルフラムを見上げると、彼はフィルバード卿を恨めしそうに睨んでいた。まるで少年のような横顔に思わず笑ってしまったら、彼は観念したように腕をこちらに差し出してくる。わたしは笑いを噛み殺して腕を絡ませた。
ゆっくりとホールの中心に向かう途中、小声で囁くようにヴォルフラムが言う。
「すまなかった。フィルバードは私を思って、あのようなふざけた真似を……よく言っておく」
「身も心も引き締まる、良い機会を頂きました」
ホールの中心で互いに礼をして、ホールドを組む。そして優雅な音楽に合わせて、ゆっくりとステップを踏み始めた。
練習に付き合ってくれたファティマさんと比べると、ヴォルフラムは身長が大きい。けれど彼は随分とエスコート上手で、まるで操るようにリードしてくれた。
緊張がほぐれて、軽い足取りでステップを踏む。ワルツもどんどん盛り上がり、貴族たちもまわりで踊り始めた。
あぁ、楽しい――
そう思ったとき気が緩んだのか、足を滑らせてしまった。瞬間、ふわっと浮遊感に襲われる。わぁ、と回りから歓声が上がって、抱き上げられたのだと分かった。
「大丈夫だ」
ヴォルフラムはわたしを抱き上げたまま微笑む。
「何に変えても、シヅルとシヅルの大切なものは、守ってみせる。それが私の役目だ」
熱烈な告白ともとれる言葉に、自然と頬が赤らんだ。
抱き上げられたことで見下ろす形になったヴォルフラムの目元に指先を滑らせた。そこには無理をした証拠――隈が色濃く刻まれている。
「それでしたら、お体を大事にしてくださいね。隈がひどいです」
言外にあなたもわたしの“大切なもの”に含まれているのだと告げると、ヴォルフラムははにかんだ。
「敵わないな、君には」
――あぁ、この笑顔をずっと傍で見ていたいと思った。それはこれ以上なく単純で、だからこそ祈りにも似た強さを持つ、心の底からの願いだった。




