02:「今日から夫婦として、よろしく頼む」
(わたし、ほんとうに、魔王さまの妻に……?)
結婚式を終え、わたしは一人、自室に案内された。そこには着慣れた巫女の装束を持って目を潤ませる侍女・ミヅキが待ってくれていて、夢心地のまま、純白のドレスから着替えた。
――国民へのお披露目式と言った方が近い結婚式は早々に終了した。揃いの衣装を着て、バルコニーから笑顔で手を振っただけだ。それだけで詰めかけた魔族の国の国民たちは歓喜し、わたしを大歓声で迎え入れてくれた。
故郷の月彌ノ国は極東の小国で、他国からの干渉を受けづらい場所にある。そのおかげで珍しいオリエンタルな街並みと、巫女といった独自の文化を保っているのだが、裏を返せば他国との交友があまり深くない。魔族の国となればなおさらだ。だから正直な話、ここまで国民たちがあたたかく迎え入れてくれるとは思ってもみなかったし、嬉しい誤算であった。
そしてそれ以上に、魔王さまにひとめ惚れされていた、という事実が大誤算も大誤算だ。――まだ、半信半疑ではあるけれど。
「それにしても、シヅル様の自室をここまで月彌ノ国に似た作りにしてくださるなんて……魔王様はきっと、お優しい方なのですね」
ミヅキはほぅ、と惚れ惚れするように息をつく。わたしは部屋を見渡しながら頷いた。
用意された自室は、一部ではあるが故郷独特の和の心を感じさせる作りをしていた。城内は豪華絢爛な洋風の作りであったから、おそらくこの部屋だけ作り直してくれたのだろう。
――こんなことをされては、ますますあの魔王さまの言葉を信じたくなってしまう。
(ひとめ惚れだって……でも、どこで?)
ひとつ気に掛かっていることといえば、一体魔王さまはどこで自分にひとめ惚れしたのか、ということ。
何度も繰り返すけれど、月彌ノ国は極東の小国。魔王さまが訪問したことなんて一度もないし、巫女としてのお役目が忙しかったわたしは国の外に出たことがない。つまり、魔王さまがひとめ惚れするタイミングがないのだ。
けれど耳まで真っ赤に染め上げた魔王さまが、嘘をついていたとも思えない。この自室を見てしまえば余計にだ。
その後運ばれてきた夕食を見て、ますますわたしの中の疑問は大きくなった。なぜなら用意された夕食も、月彌ノ国で食べていた和食にとても似ていたからだ。若干味付けが濃かったのも、きっと城のシェフが思考錯誤して作ってくれたのだろう、と思えて。
夕食を終えたあと、魔王さまの側近だという男性が部屋を訪ねてきた。
「申し訳ございません。陛下は仕事に追われておりまして、結婚式の夜だというのに、シヅル様をおひとりに……」
長い黒髪をゆったりと低い位置で結って、モノクルをつけた男性はザシャと名乗った。
彼は驚くべきことに、魔王の側近でありながら人族のようだった。わたしが以前耳にした噂話は本当だったらしい。
「もう少しすれば陛下もお休みになられるかと思いますが、いかがいたしましょう? もうお眠りになりますか?」
左右対称の完璧な笑みを浮かべてザシャさんは顔色を窺うように尋ねてくる。
魔王さまが仕事を終えるまで待っているか、先に寝るか。ザシャさんはその二択を迫ってきているらしかった。
少しの間考えて、わたしは首を振った。
「待ちます。少し、お話したいこともありますから」
とてつもない緊張とプレッシャーから解放されたせいか、既に眠気が襲ってきていたけれど、まだ魔王さまとろくに話せていない。どうやらとても忙しい身のようだし、多少夜更かしをすることになったとしても、少しでも交流を持ちたかった。
わたしの答えに、ザシャさんは嬉しそうに頷いて退室した。
程なくして自室を魔王さまが尋ねてきた。彼はわたしの姿を見るなり、申し訳なさそうに眉尻を下げて、更には頭まで下げる。
「結婚式まで挨拶ができず、すまなかった」
開口一番に謝られて、こちらとしては恐縮してしまう。魔王と聞くと不遜なイメージを抱いてしまいがちだが、彼はそのイメージからはかけ離れた人――魔族のようだ。
確かに結婚前に一度も顔合わせがなかったことは不服に思っていた。けれど結婚式後、慌ただしく花婿衣装を脱ぎながら仕事へ向かう魔王さまの姿を見て、彼がとても忙しい身であることが分かったのだ。
よくよく考えずとも、複数の国と王が存在する人族とは違い、魔族は一つの国に統一されている。治める領地も国民の数も桁違いなのは明らかだった。
「いいえ、魔王さまもお忙しいでしょうから。このお部屋も、お食事も、ありがとうございます。遠い故郷を感じることができて、嬉しかったです」
それは心からの言葉だった。
正直、未だ戸惑いが大きい。けれど感謝の気持ちも確かにある。結婚前に抱いていた悪印象は、すっかりわたしの中から消え去っていた。
魔王さまはゆっくり顔を上げる。明らかにほっとした表情を浮かべていた。――とても分かりやすい。
思っていたよりも表情豊かな魔王さまに、警戒心がするすると解けていく。
「シヅル殿さえよければ……その、少し、話でも」
微かに頬を赤らめて、辿々しく提案する魔王さまに、気づけば微笑んでいた。そして彼が用意してくれたのであろう、畳の許まで案内する。
畳に正座したわたしを物珍しげに見る魔王さま。きっと今までの人生で正座なんてしたことがないだろう。しかし「気にせずお好きなように座ってください」とわたしが声をかけるより早く、魔王さまは見よう見まねで、長い足を持て余すようにぎこちなく正座した。
それだけのことなのに、なぜだろう、とても嬉しい。
魔王さまはゴホン、と咳払いを一つしてから口を開く。
「改めて、私はヴォルフラムだ。今日から夫婦として、よろしく頼む」
魔王さま――ヴォルフラム陛下は若干早口で言う。夫婦と口にする際、若干声が裏返ったのを見るに、緊張しているのは明らかだった。
わたしはすっかりリラックスして、陛下に倣って自己紹介する。
「シヅルと申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願い申し上げます」
畳に手をついて頭を下げる。そのため向かいに座るヴォルフラム陛下がどのような表情をしていたかは分からなかったけれど、服の擦れる音が聞こえたことから察するに、もしかしたら彼も頭を下げてくれたのかもしれなかった。
頭を上げれば、陛下の赤の瞳と目線がかち合う。――と、その瞳が何やら嬉しそうに細められた。
「やはりシヅル殿には、その装束がよく似合う」
真っ直ぐな褒め言葉に頬が赤らむのを自覚しつつ、ヴォルフラム陛下の「やはり」という言葉が引っかかった。
やはり。それは過去、わたしが巫女装束を着ていたところを見ていなければ、選ばない単語だろう。推測するに、彼が巫女装束を着たわたしを見たのは、おそらくひとめ惚れしたというその瞬間。それは一体いつのことなのか。
どうしても気になってしまい、つい問いかけた。
「あの、わたしたちは一度もお会いしたことはありませんよね? けれど、陛下はわたしのことを知っていらっしゃるご様子で……」
さすがに真正面から「いつ自分にひとめ惚れしたんですか?」などとは聞けず、遠回しに言葉を濁す。
ヴォルフラム陛下はわたしが言わんとしていることを的確に読み取ったのか、頬を染めて、どこかばつが悪い表情で白状した。
「シヅル殿の舞を、魔法で一方的に拝見していたんだ」
舞。それは龍神さまに捧げる巫女の舞のことを言っているのだろう。
なるほど、それならば先ほどの言葉も納得できる。ヴォルフラム陛下本人が月彌ノ国を訪れたことはなかったはずだが、魔法を使えば遠く離れた場所の景色を手元で見ることも可能らしい。魔法について詳しくはないから、彼の言葉を信じるしかないけれど。
とにかくなにかのきっかけで舞を見て、ヴォルフラム陛下はわたしを“見初め”てくださったらしい。
「そうだったんですね。知りませんでした」
正直、それ以外の相槌が思い浮かばなかった。しかしヴォルフラム陛下からしてみれば、一方的に見ていたという後ろめたさも相まって、わたしの不興を買ってしまったかのように感じられたのかもしれない。彼はぐっと大きな体を縮こまらせて、目線を伏せた。
「今回の結婚は、私が口を滑らせてしまったからなんだ。本当に、突然のことで驚いただろう。すまない」
「口を滑らせた?」
「……シヅル殿の舞に見惚れる私に、ザシャが『妻に迎え入れてはどうか』と提言してきた。彼奴のいつもの冗談かと思い、軽い気持ちで頷いてしまったら……こんなことに」
肩を落とすヴォルフラム陛下は、まるで叱られた大型犬のようだった。
魔王さま相手にかわいいと思うなんて不敬かもしれない、と思いつつ、すっかり恐怖心がなくなったわたしは突っ込むように口を挟んだ。軽い気持ちで頷いた、という言葉が引っかかったのだ。
「わたしとの結婚は、冗談のつもりだったんですか?」
「違う!」
すぐさま力強く否定される。
「こ、こんな、強引に妻に迎え入れるのではなく、きちんと挨拶をして、シヅル殿の気持ちを確かめて、それから――!」
――その言葉で、もう十分だった。
本当にヴォルフラム陛下はわたしを好いてくれているのだ、と信じることができた。
今回のタイミングで結婚することになってしまったのは、陛下としても不本意だったのだろう。けれど限られた時間の中で、部屋に食事に、とできるかぎりのことをしてくれた。
ひとめ惚れの末の政略結婚。正直、うまくいくかは分からない。けれど、うまくいかないと決まったわけでもない。お互いに、まだ何も知らないのだから。
胸の内から湧いてくるあたたかな気持ちに身を任せて、わたしは微笑んだ。
「そのように思って頂けて、シヅルは幸せ者です。分からないことだらけですが、どうか、よろしくお願いします」
ヴォルフラム陛下はようやく安心したのか、ほっと息をつき――畳の上に崩れるようにして倒れ込んだ。
「どうかされましたか!?」
慌てて倒れた陛下に近寄る。
忙しい中来てもらったせいで、疲れが溜まってしまったのだろうか――
部屋の入口で控えていた侍女・ミヅキを呼ぼうとしたそのとき、
「足が……痺れた……」
ぽつり、とこぼされた言葉に、わたしは目を瞬かせた。
足が痺れた。それはきっと、慣れない正座をしたせいだ。無理をしなくてよかったのに、と思う一方で、少しでも寄り添おうとしてくれたのだと思うと、やはり嬉しい。
失礼だと思いつつ、ふふふ、とつい声を上げて笑ってしまった。
「次からお話するときは、椅子に座って致しましょう」
すまない、と何度目か分からない謝罪をするヴォルフラム陛下は、しかし優しく目を細めていた。
その表情のまま、彼は言う。
「どうか私のことはヴォルフラムと呼んでくれないか」
痺れた足を伸ばして、畳の上に倒れ込みながら真面目な顔で言ってきた夫に、わたしは込み上げてくる笑いをどうにかこうにか噛み殺し、確かに頷いた。
――こうしてわたしたちの分からないことだらけの結婚生活は、幕を開けたのだ。