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17:(生涯、ただ一人の伴侶……)



 ザシャさんの口から“それ”が告げられたのは、ある朝のできごとだった。



「王妃としてのお披露目会ですか?」



 ぴょこん、と跳ねた毛先を指先で整えながら、わたしは鸚鵡返しで問いかける。ゆるい癖毛のせいで、寝ぐせがついてしまうと中々大変なのだ。

 ザシャさんが言うには、魔王の王妃のお披露目会が水面下で進められているらしい。



「有力貴族たちとの顔合わせ、と言った方が近いかもしれません。とにかく、シヅル様に会わせろとの声が大きく……」



 ザシャさんの声のトーンは普段より低く、彼自身は“お披露目会”に乗り気ではない様子だ。

 しかし話を持ち掛けられたわたしとしては、妃の務めを果たすことに前のめりだった。そもそもヴォルフラムの許に嫁いでから、王妃らしい仕事と言えば初日の結婚式ぐらいだ。それ以降は自由に城内を散策し、夫とコミュニケーションをとり、更には突貫で里帰りまでさせてもらった。

 こんな穏やかな日常が続いていたのは、ヴォルフラムやザシャさんたちが慣れない地に嫁いだ自分を気遣ってくれたからだろう。



「今まで、わたしを気遣ってくださっていたのでしょう? 王妃としての務めはしっかり果たします」



 途端にザシャさんは顔色を曇らせた。そこまで出て欲しくないのだろうか、と逆に心配になってくる。

 一応は王族として、そして巫女として、最低限の振る舞いは叩きこまれている。小国の末姫と魔王の王妃とでは求められるレベルが違うのは重々承知しているが、ヴォルフラムに恥をかかせないためにも、その差を埋めるための努力は惜しまないつもりだった。



「……魔王が持つ伴侶はただ一人だけ。唯一の奥方様に何かあってはなりません。それ故、魔王の妻は公の場に姿を現さずとも良いとされています。ですからシヅル様は断って頂いても――」



 唯一の奥方様。

 その単語に頭が真っ白になって、ザシャさんが話している途中にも拘わらず、つい口を挟んでしまった。



「伴侶はただ一人だけって、生涯で、ですか?」



 初耳だった。

 魔族マギルト人族ヒュマート。寿命が違う二つの種族。話によれば魔族は自分の寿命を好きに調整できるけれど、魔王であるヴォルフラムが自分と同じ寿命を生きるとは思えなかった。――というより、家臣たちがそれを許さないだろう、と思っていた。

 だからヴォルフラムを残して逝くのは心苦しいが、自分が死んだ後は別の伴侶を迎えるに違いない。それが当然だと信じて疑わず、ほんの少し、寂しい気持ちに苛まれていたというのに――

 思いもよらない展開にすっかり混乱するわたしに、ザシャさんはけろりとした表情で「はい」と答えた。



「複数の伴侶も複数の子も、権力争いの元になりかねませんから。古くからの決まりです」



 その理由には納得する。他の国では一人の王に複数の妻がいるという話は特段珍しくはないが、それ故権力争いで血生臭い事件が起こったとの噂話を度々耳にした。

 ただでさえ忙しい魔王が、身内のいざこざに割く時間などないだろう。そもそもの火種は作らないに越したことはない。

 だから当代の正妃が死んだ後、後妻を娶る。それならば何も問題ないだろうと考えていたのだけれど――生涯でただ一人、となると話が全く変わってきてしまう。

 事実を知って、最初に湧いてきた感情は喜びよりも焦りだった。



「そ、それって、大丈夫なんですか?」


「大丈夫、とは?」


「だって、わたしは百年も生きられないのに、何百年と生きられる陛下は――……」



 わたしの言葉に、ザシャさんの表情が一瞬、フリーズした。数秒後、明らかに瞬きの回数が増える。何に、かは分からないけれど、ザシャさんが狼狽えているのは明らかだった。

 先ほどよりも早口で、ザシャさんは問いかける。



「もしや、陛下からお聞きではないのですか?」


「な、何をですか?」



 ――あんのヘタレ陛下め。

 おそらくは飲み込み損ねたザシャさんの小さな罵倒が、鼓膜を揺らした。

 明らかに怒っている。わたしに、ではなく、ヘタレ陛下――ヴォルフラムに。



「私の口から伝えるのは憚られます故、背中を蹴り飛ばしてまいります。少々お待ちください」



 そう言葉を残して、ザシャさんは足早に退室した。

 些か乱暴に閉じられた扉を見つめながら、数度瞬いた。ザシャさんが急に青ざめ、焦りだした理由は分からなかったが、どうやら自分の認識と彼の認識に大きな相違があったらしいことだけは分かった。

 わたしはヴォルフラムから、何を聞いていないのだろう。いつも笑顔を絶やさないザシャさんがあそこまで怒るのだ、きっと重大なことに違いない――

 お待ちくださいと言われた以上、何もせず素直に待った。生涯ただ一人の伴侶云々については、一人で考えても無意味だと割り切り、ぼぅっと窓から外の景色を眺めて時間が過ぎ去るのを待つ。

 ――やがて、ヴォルフラムがどこか思いつめたような面持ちで自室を訪ねてきた。がっくりと肩を落とす夫に、ザシャさんに背中をけ飛ばされたのだろうか、なんて思う。



「おはよう。朝早くからすまない」


「おはようございます。どうぞお入りください」



 一人で使うには持て余すほど大きなソファにヴォルフラムを座らせる。どっしりと腰かけた彼の横に、わたしもちょこんと気持ち浅めに座った。

 下から顔を覗き込むようにして、俯きがちなヴォルフラムの赤の瞳を見つめる。するとゆっくりと彼は語りだした。



「前、ファティマが言っていただろう。魔族は寿命が長いのではなく、強大な魔力で老いに逆らっているのだと」


「……はい」



 いきなり本題に入ったヴォルフラムだったが、とりあえず口を挟まず聞き役に徹する。彼が自分たちの寿命について話そうとしていることは明らかだったからだ。

 ヴォルフラムはぐっと下唇を噛み締めて、視線を泳がせた。言葉の続きを促すように、夫の手をそっと握る。

 するり、と解けたその唇から出てきたのは、



「それは人族であっても、同じことなんだ」



 思ってもみなかった、言葉であった。



「人族の老いも、魔力で止められる」


「――……」



 ただ目を丸くして、ヴォルフラムを見る。驚きのあまり相槌を打つことさえできなかった。

 ヴォルフラムはこちらの反応をどう受け止めたのか、がっくりと項垂れる。そしてぽつりぽつりと心の内を吐露し始めた。



「けれどそれが、シヅルにとって良いことなのか……私には分からない。永いときを共に生きて欲しいなんて、私に言う権利はない。シヅルの人生はシヅルの物だ。だから……」



 ――ヴォルフラムはこの事実を隠していたのではない、きっと話せなかったのだ、と、夫の前髪で影がかかった横顔を見ながら思った。

 少し考えてみれば、分かることだった。魔族が永いときを生きられるのは、老いを止められる魔力のおかげ。元々の寿命が違っているのではない。それならば人族だって同じこと。人族だって老いを止められる魔力を持っていれば――魔族に老いを止めてもらえば、永いときを生きられるに決まっている。

 しかし人族は魔族と比べて寿命が短いという己の常識を信じて疑わず、そんな発想自体、全く思いつかなかった。



「すまない。もっと早く伝えるべきだった」



ヴォルフラムは未だ一言も口にしないわたしを不安に思ったのだろう。とうとう深々と頭を下げた。

 そこでようやく我に返る。そして大層弱っている様子のヴォルフラムに申し訳ないと思いつつも、ずっと胸の内に秘めていた疑問をぶつけた。



「わたしが短い人生を終えて、もしヴォルフラムを独りにしてしまったら……それでも、新しい妻を迎えることはできないんですか? ヴォルフラムは王様なんですから、古い決まりを変えることぐらい……」



 ヴォルフラムは自嘲気味な笑みを浮かべる。そして自分の手に添えられたわたしの手を握り、ゆるく首を振った。



「きっと変えられるだろう。けれど、変えるつもりはないし、別の者を伴侶に迎えるつもりもないよ」



 普段より柔らかい口調。けれどその声には、確固たる意思が宿っているように聞こえた。

 ――きっと、ヴォルフラムのサイン一つで古くからの“決まり”は変えることができるだろう。そもそも決まりと言っても内内に守られてきただけであって、法律で定められている訳ではないはずだ。そんな法律があれば、さすがにわたしの耳にも届く。だから今、ヴォルフラムがわたし以外の伴侶を迎えたとして、国民たちからの反応はともかく、法の下に裁かれることはないだろう。

 けれどヴォルフラムは、そうするつもりなんてないと言う。決まりを変えるつもりも、わたしが短い人生を終えた後、後妻を娶るつもりも。

 ――たとえ何百年という永いときを、独りで過ごすことになったとしても。



「シヅルの意思を、何よりも優先する。だからシヅルはシヅルの好きなように……隣にいてくれたら、嬉しい」



 するり、と頬を手の甲で撫でられる。あ、と思ったときにはその温もりは離れ、ヴォルフラムはソファから立ち上がっていた。そして「心が決まったら、教えてくれ」と言葉を残し早々に退室する。きっと一人で考える時間を与えてくれたのだろう。

 再び部屋に残されたわたしは正直未だ話を飲み込みきれず、ぼぅっと己の手を眺めていた。



(生涯、ただ一人の伴侶……)



 ヴォルフラムの気持ちは嬉しい。彼から向けられる大きな愛情に戸惑いつつ、真っすぐで偽りのない心にとっくのとうに惹かれている自覚があるからこそ、望んでくれるのなら、永いときを生きてもいいかもしれない、なんて思う。

 しかしこればかりは簡単に、求められて嬉しいからという理由だけで決めていいことではないと分かっていた。

 ヴォルフラムを独りで残すのは嫌だ。彼が別の伴侶を迎える気がないのなら猶更だ。けれど永いときを生きるとはどういうことなのか、全くイメージがつかない。

 アヒム先生は、ヴォルフラムはもしかしたら千年以上生きるかもしれないと言っていた。千年。途方もない時間だ。人族と魔族が手と手を取り合ってから、今年で五百年。その長い歴史の、更に倍の年数なのだから。



(魔族の方たちって、どうやって永いときを生きてるんだろう)



 どれだけ考えても、その疑問に答えを出せるはずもなかった。

 だってわたしは、数十年しか生きられないはずの、人族なのだから。



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