15:「……結婚してくれ」
わたしと一番年の近い姉・サク姉さまはアヤメ姉さまの予想通り、城の南に位置する月の堂で他の巫女数名と打ち合わせをしていた。
例年通り迎春祭での舞に備えて、当日のスケジュールやお堂の状態を確認しているのだろうと思い、会話が途切れるのを外で待つ。
「立派な建物だな」
小声でヴォルフラムが話しかけてきたので、改まって月の堂を見上げた。
幼い頃から慣れ親しんだ建物のため意識したことはなかったが、言われてみれば確かに荘厳な雰囲気を感じさせる建物だ。何度か修繕工事が入っているものの、話によると魔族とまだ争っていた頃に建てられたそうだから、少なく見積もっても五百年以上昔に建設されたことになる。
「龍神さまへの祈りを捧げる場ですから」
国の守り神である龍神信仰は、年々形式的なものになっている。それでも月彌ノ国の人々の生活に龍神信仰は根付いているし、迎春祭をはじめ、この国の催事はすべて龍神への祈りと感謝を捧げるものだ。
お堂の建設も龍神信仰の一環であり、城周りのお堂が建てられた時代は今よりも信仰が強く過激だった時代と言える。相当の予算が注ぎ込まれたのは間違いない、とぼんやり考えながら会話を続けた。
「月の堂は四方を壁で囲まれていますが、花の堂は壁を設けておらず、屋根がついた舞台のようになっているんです。四方を桜に囲まれていますから、舞の最中に花びらが舞台に舞い込んできて、とっても幻想的なんですよ」
ヴォルフラムがほう、と相槌を打った時だった。
不意にお堂の方から扉が開く音がした。ぱっとそちらを見やる。すると自分と同じ巫女服を着た数名の女性が出てくるところで、その中に見慣れた姿を見つけた。
「サク姉さま!」
一人の女性が黒髪を揺らして振り返る。そしてわたしの姿を視界にとらえたのか、右手を上げた。
「シヅル」
こちらに優雅な動作で歩み寄ってくる女性――サク姉さまに、わたしも駆け寄る。
格好から髪型から、まるで鏡写のようなわたしとサク姉さま。装束もアシンメトリーな髪型も、巫女に定められたものだ。
古くから描かれる龍神さまは片方の角が欠けていて、それは故郷を悪しきものから守るため戦った際の傷と言われており、それに倣って巫女は片方の髪を切る。髪の長さまでは定められていないけれど、あまりに片方だけが長いと不格好になるため、わたしもサク姉さまもあまり伸ばしたことはなかった。
「初めまして、サクと申します」
腰を落として深々と頭を下げるサク姉さまを見て、ヴォルフラムも慌てて自己紹介した。そうすれば「知っていますわ」と袖で口元を隠してサク姉さまは笑う。
わたしもよくするその仕草は、元々サク姉さまの真似だったのだ。品がよく見えるからと真似をしていたら癖づいてしまった。
“本物”はやはり一段と美しいなぁ、なんて思いつつ、わたしは胸元に抱いていたツルヤの饅頭が入った紙袋を差し出した。
「サク姉さま、これ、ツルヤのお饅頭。少し多めに作ってもらったから、よかったらみんなで食べて」
「まぁ、ありがとう。あとで頂きます」
サク姉さまは少し離れた場所でこちらの様子を窺っている他の巫女たちを振り返る。彼女らはおしとやかにしつつも、好奇の目線をヴォルフラムに向けて、何やら内緒話をしているようだった。
赤らんだ頬と嬉しそうな表情からして、良くないことを言っている訳ではないだろう。しかし客人を前にはしゃぐ姿に、サク姉さまは小さくため息をつく。きっと彼女たちは後でサク姉さまに叱られるだろう、と心の中で気の毒に思う。怒ったサク姉さまはとても怖いのだ。
しかしヴォルフラム――見目の良い男性に沸き立つ彼女たちの気持ちは、分からないでもなかった。巫女は同年代の少女たちより多くの物を制限されている。いや、国は一切特定の行為を禁止していないが、制限せざるを得ない忙しさなのだ。
例えばそれは、甘味だったり。例えばそれは――恋だったり。
「申し訳ありません。巫女たちにはよく言っておきますから」
眉間を指で押さえるサク姉さまに、ヴォルフラムは苦笑した。そして「私は気にしておりませんので、どうか穏便に」と付け足す。しかしサク姉さまの眉間の皺は薄くならなかった。
巫女たちを見やる。彼女たちのことは、わたしも良く知っている。とてもよくしてもらったし、嫁ぐときも涙ながらに見送ってくれた、友人のような存在だ。けれど男性に頬を赤らめてきゃあきゃあとはしゃぐ表情は、初めて見た。
(……かっこいいもん、なぁ)
横に立つヴォルフラムを見上げる。風に揺れるくすんだ茶髪は絹糸のようにサラサラで、巫女たちを見つめる切れ長の瞳は宝石のようにキラキラしていて、母さまが見立てた着物はこれ以上なく似合っている。
何より立ち姿が絵になる魔族だ。纏っている空気が他者とは違う、というか、存在感がある、というか――
誰の目だって惹きつける。もう数か月共に生活をしているわたしだって、未だにほぅっと見惚れてしまうときがある。だから、騒がれるのも無理はないと分かっているのに。
――ほんの少し、面白くないと思ってしまうのはわがままだろうか。
ふと、赤の瞳がこちらを向いた。どうやらわたしの視線に気づいたらしい。そしてわたしの機嫌が若干下を向いていることも察したようだ。ただ原因までは分からないようで、身を屈めて、どうした、と視線で問いかけてきた。
何でもありません、と小さく振った頭を撫でられる。――ヴォルフラムに、ではなく、サク姉さまに。
「頑張りなさい、シヅル」
言葉こそ優しい姉のようだけれど、サク姉さまはニヤニヤと口元をひくつかせている。――こう見えてサク姉さまは中々曲者なのだ。きっとわたしの心の内など見透かしていて、おもしろがりつつ激励してくれている、と信じたい。
愉快そうな笑みを早々に引っ込めて、サク姉さまはヴォルフラムと向き合う。そして、
「シヅルのこと、どうか宜しくお願い致しますね」
もう一度頭を下げて、サク姉さまは足早に他の巫女たちと合流した。
あっという間に離れていく姉の背に名残惜しさを感じたが、彼女の忙しさを思うと呼び止めることはできなくて。
小さくなっていく姉さまの背中をじぃっと見つめていたら、ヴォルフラムから声がかかる。
「サク殿はシヅルとよく似ているな」
それはわたしの寂しさを少しでも紛らわせるための雑談として提供した話題だと分かっていたけれど、ほんの少しだけ、不安が胸の内に滲んだ。
「……惚れちゃだめですよ」
ぽつり、と呟くように言う。それに対して意味が分からないといった様子で首を傾げたヴォルフラムに、自然と表情が和らいだ。そして「だって」と先ほどよりも幾分明るい声音で続ける。
「ヴォルフラムは、ひとめ惚れだったんでしょう? サク姉様とわたしは良く似ているから……」
決してヴォルフラムの気持ちを疑ったことはない。けれど“ひとめ惚れされた”が故の不安が、この胸の内に燻っていたのだ。
ヴォルフラムはわたしの容姿が“好み”なのだろう、と思う。実際ひとめ惚れされたのだからそれは間違いない。だからこそ、もし自分と似た、ヴォルフラムの好みにぴったりハマる別の女性が現れたのなら――夫はその人に“ひとめ惚れ”してしまうのではないか、と。
それこそサク姉さまはわたしと同じ巫女であり、同じ母さま似の容姿をしている。昔からよく似ていると多くの人から言われてきた。だからほんの少し、ヴォルフラムとサク姉さまを会わせることを恐れていたのだ。
そこまで言ってようやくヴォルフラムは私の言わんとしていることに気付いたのか、大きく何度も首を振った。
彼は感情の表現の仕方が、どこか幼い。それはもしかすると、成長してからは感情を表に出さないように押し殺してきたからではないだろうか。年相応の感情の表し方を知らないのだ。
立派な夫の、幼い感情表現が愛おしかった。
「シヅルだから、好きになったんだ。確かに始まりはひとめ惚れだが、舞う姿だけでなく、民に寄り添う姿に、こんな私と向き合ってくれる、そのひたむきな姿に惹かれて……知れば知るほど、シヅルのことが更に好きになって、それで」
ヴォルフラムは一つ一つ、単語を選んでいるようだった。わたしに言い聞かせるように、自分の中から溢れ出る感情を言葉にするように、ゆっくり、力強く。
しかしうまく言葉にできないともどかしく思ったのか、顔を歪めてヴォルフラムはぎゅっとわたしの手を握った。そして目線を合わせ、真正面から見つめてくる。
見つめ合うこと、数秒。
初めて見る、必死な表情。どこか辛そうで、寂しそうな表情。――あぁ、わたしが彼の気持ちを疑ってしまったから、こんな表情をさせてしまったのだ。
申し訳ない気持ち半分、こんな表情をさせてしまうぐらい想ってくれているのだという喜び半分。
己の愚かさを恥じて、夫の手を引いた。
「シヅル? どこに向かうんだ?」
お堂から離れて、ひと際大きな桜の木の近くでヴォルフラムの手を離す。そして彼にそこに立っているよう言ってから、桜の木の根元に向かった。
――舞を披露するつもりだった。胸の内から湧き出てくる喜びを、一生懸命自分と向き合ってくれるヴォルフラムへの愛おしさと感謝をどう表現しようか悩んで、思いついたのが舞だった。
わたしはもう巫女ではない。だから龍神さまのためではなく、ヴォルフラムの、夫のために舞おうと思った。
「国賓の方に舞を披露することもあって……。わたしはもう巫女ではありませんし、きちんとした舞とは言えないけれど……」
恥じ入るように前置きを置いてから、すぅ、と大きく息を吸う。ヴォルフラムは目を丸くしてわたしを見ていた。突然のことに、思考が追い付いていないようだった。
一歩、踏み出す。そして足を滑らせて、ゆっくりと舞い始める。
指先までしっかり伸ばしなさい。巫女服の裾の動きまで計算しなさい。風で舞う花びらと共に舞いなさい。
散々叩き込まれた教えは、数か月巫女というお役目から離れていた程度では忘れない。意識するよりも先に足が出て、腕が動き、風に導かれるようにわたしは久しぶりの舞を楽しんだ。
――それはほんの数分の、短い舞だった。一瞬にも永遠にも感じられる、自然と一体化するこの時間が、わたしは大好きだった。
足を揃えて頭を下げる。終ぞ、ヴォルフラムは何も言わなかった。
「ど、どうでした?」
一向に口を開こうとしないヴォルフラムに焦れて問いかける。
わたしの舞を“直接”見たのは今回が初めてだろう。舞台は立派なお堂ではなく、音楽も何もない。ヴォルフラムが見ていた舞よりもかなりつづまやかなものになってしまった。だから、実際に見たら大したことない、なんて思われていないだろうか――
ヴォルフラムは口を半開きにしたまま、ふら、とこちらに近づいてくる。そしてわたしの手をすくい上げたかと思うと、その場に膝をついた。
袴が汚れてしまう、と立たせようとしたそのとき、
「……結婚してくれ」
唖然と呟いた。
目は見開かれたまま、口は閉じることを忘れてしまったようで、ただじっとこちらを見上げている。もしかすると今自分がいった言葉すら、ヴォルフラムは認識できていないかもしれない。
放心しきった様子に、先ほどのプロポーズの言葉は心の底からの本音だと強く感じることができて。ヴォルフラムの意識を呼び戻すために、その大きな手をぎゅっと両手で握り返した。
「ふふふ、もうしてますよ」
二度目のプロポーズ。一度目は魔族の国の城で。二度目は故郷で。
「そう……そうだったな」
ヴォルフラムは顔を綻ばせて立ち上がった。すかさず袴についた土を手で払ってやると、しまった、というように慌てて身なりを整える。
乾いた土は袴を汚すことはなかった。それに安堵の息をこぼしてから、再び向き直る。
「これからも毎日一緒にお味噌汁を……飲もう」
――ヴォルフラムはどうやら、以前わたしと交わした会話を覚えていたらしい。わたしの故郷ではお味噌汁がプロポーズに使われる、なんてくだらない雑談をずっと心の内に留めていたのだろうか。
作ってくれ、ではなく飲もう、とアレンジしたのがまたヴォルフラムらしい。実際わたしが毎日作ることはできないし、今も飲んでいるのは料理長が作ってくれたお味噌汁で――なんて現実的な考えは一旦おいて、とにもかくにもわたしは大きく頷いた。
「えぇ!」
ヴォルフラムが満足そうに眼を細めた瞬間、頬に、ぽつり、と雫が落ちてきた。
あれ、と二人そろって空を見上げる。太陽は燦燦と地上を照らしているが、一滴、もう一滴と後を追うように雨が降ってきた。――天気雨だ。
「雨、降っちゃいましたね」
「さすが雨巫女様、だな」
わたしが舞うと恵の雨が降ることから、雨巫女様と呼ばれていた。正直自分に雨を降らせる特別な力があるとはこれっぽっちも思っていないけれど――もしかしたら龍神さまからの祝福の雨かもしれない、なんて都合の良いように解釈する。
「着物、濡らしちゃうと勿体無いから雨宿りしましょうか」
お堂の軒先までヴォルフラムの手を引く。そこで雨が止むまで雨宿りをすることにした。
雨は小雨だ。すぐに止むだろうから、桜が散ることもないだろう。
ヴォルフラムは僅かに濡れた自分の髪を整えて、こちらを見やった。瞬間、体が温もりに包まれる。きっと濡れた体を乾かすために、魔法を使ってくれたのだろう。
ありがとうございます、と隣の彼を見上げる。すると彼の指先がこちらに伸びてきて、額に張り付いていた髪を指先で払ってくれた。
――瞬間、絡む視線に、息が止まった。
ヴォルフラムの指先が額から滑る。大きな手のひらに頬を包まれる。どく、どく、と聞こえた鼓動は自分のものか、もしくは。
近づいてくるヴォルフラムの顔を、綺麗だな、なんて思いつつ見つめていた。近くで見れば見るほどその端正さに驚いてしまう。
ゆっくり、ゆっくりと顔が近づく。長い睫毛に縁どられた瞼が伏せられたのを見て、私も目を閉じた。
聞こえる息遣い。震える指先。そっと触れた、熱。
――その日、恵の雨の音を聴きながら、そして桜の木々に見守られながら、初めて口づけを交わした。




