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10:「ヴォルフラムのことをよろしくね」



 ヴォルフラムの叔母・ルフレさまとのお茶会は毎日夕方、三十分ほど開かれた。今日で五日目になる。

 お茶会の最中、わたしの故郷での生活について尋ねられることが多かった。ルフレ様にとって、故郷・月彌つくやノ国の文化や生活はとても興味深いようだ。

 しかし今日は、いろいろ教えてくれたお礼に、とルフレさまが一枚の写真を差し出してきた。

 写真に写っていたのは幼いヴォルフラムだ。眠いのか右手で目を擦りながら、左脇に白く丸いぬいぐるみを抱えている。



「かわいい!」



 思わず声をあげると、ルフレさまは「そうでしょう」と言うように小さく何度か小刻みに頷いた。

 ルフレさまの細く美しい指が、ぬいぐるみを指差す。



「お気に入りのぬいぐるみでね、ずぅっと離さなかったの。まだどこかにあるかもしれないわね」



 ヴォルフラムが小さいということもあるが、それにしてもなかなか大きなぬいぐるみのように見える。白く、丸く、動物で例えるならあざらしのような形をしたそれは、気の抜けるかわいらしい顔が刺繍されていた。



「父も母もあの子が幼いときに体を壊してしまったから……寂しい思いをさせてしまったわ」



 ルフレさまの指先が幼いヴォルフラムの頭を撫でるように動く。

 お父さまもお母さまも、病によって早くに亡くなられたと聞いた。両親共に健在のわたしはヴォルフラムの痛みを全て理解することはできないけれど、ルフレさまの痛々しい笑顔が、言葉とともに吐き出された深く長い溜息が、どんな言葉よりも彼の孤独を語っているように思えた。



「甘えん坊で、優しい子でね。寝込む母のそばにずぅっとついていたのよ。母が好きな花を毎日摘んできて……」



 ルフレさまのお話に、毎朝ザシャさんが持ってきてくれる花束を思い出す。もしかすると花を贈るという行為はヴォルフラムにとって何よりの愛情表現なのかもしれない、と思うと、胸がきゅうっとなった。

 写真から顔を上げて、ルフレさまはわたしを見る。



「魔王になってからは、みるみる顔立ちが険しくなってね」



 魔王に即位した後のヴォルフラムはそうならざるを得なかったのだろう。アヒム先生からいかに険しい道のりだったのか、断片的にではあるが聞いた。

 険しかったルフレさまの表情が不意に和らぐ。



「シヅルちゃんに出会ってくれて、仕事以外の生き甲斐を見つけてくれてよかったわ」


「そんな……わたしは、何も」



 ――自分が今、ヴォルフラムのためになにかできているか、と言われると、自信がない。

 ひとめ惚れした経験がないせいもあるだろうが、その相手を傍に置いて、それだけで心は満たされるのだろうか。

 ヴォルフラムのことは、とても好ましく思っている。今はまだ、向けられる想いに応えたいと思っている段階だけれど、きっとこのまま時間が経てば好きになれる――愛することができるという確信があった。

 けれど、同時に不安なのだ。何もなかったところに積み重ねていくわたしとは違い、ヴォルフラムは“ひとめ惚れ”という下地がある。もし、わたしが彼の理想と違っていたら――彼はいつか、わたしを好きではなくなってしまうかもしれない、と。



「口下手でしょう。不器用でしょう。でも、一生懸命なの」


「はい、それはとても……よく分かります」



 頷く。するとルフレさまは嬉しそうに目を細めた。

 何事にも一生懸命だ。仕事にも――わたしにも。そんなヴォルフラムの姿に、胸を打たれたのだ。



「分からないことだらけだったでしょうに……歩み寄ってくれて、ありがとう」



 ルフレさまの優しい言葉がじんわり胸に染みる。

 自分が他の“お嫁さん”と比べて、特別苦労しているとは思わない。王族の間では政略結婚――初めて会う相手と結婚するなんて珍しい話ではないし、一般家庭でもお見合い結婚は未だに多いと聞く。家が変われば、国が変わったも同然。彼女たちも新しい環境に苦労しているはずだ。



「戸惑うことはない? 故郷が恋しくなったり……嫌な思いをしたり」



 数秒考えて、頷くことも首を振ることもせず、口を開いた。



「嫌な思いをしたことはありませんけれど、戸惑うことはしょっちゅうです。でも、これは私が今まで不勉強だったせいですから、がんばります」



 王城の人々はこれ以上ないくらい良くしてくれている。それもヴォルフラムのおかげなのだろうけれど、悪意を感じたことは一度もなかった。

全く新しい環境で戸惑うことが多い。しかしそれはひとえにわたしが魔族についての知識がないせいだ。周りに求めるのではなく、わたしが学んで変わらなければならないことだった。

それに、と続ける。



「ヴォルフラムも同じだと思います。もしかしたらわたし以上に戸惑っているかもしれません」



 結婚初日、畳に見よう見まねで正座して足を痺れさせたヴォルフラムを思い出す。あの彼の姿を見た瞬間、一気に緊張が解けたのだ。

 ルフレさまが興味を示したように、故郷・月彌つくやノ国は人族ヒュマートの国の中でも独特な文化を持っている。それ故ヴォルフラムも戸惑いの連続だったに違いない。わたしを妻に迎え入れなければ、正座で足を痺れさせる経験なんて、何千年という永い人生を生きたとしても、絶対にしなかっただろう。

 魔族と人族。年齢も百歳以上違う。お互いに分からないことだらけ。どれだけ距離が空いているかすら分からない中、手探りで歩み寄っている。

 はっきり言って、もどかしい日々だ。けれど。



「でも、遠い未来、そんなこともあったねって笑いあえたらいいなって、思っています」



 眉尻を下げて、苦笑気味に微笑んだ。



「ヴォルフラムとならきっと、そんな未来を迎えられるって、信じていますから」



 それがヴォルフラムに向ける、わたしなりの信頼と情だった。

 ルフレさまは驚きに銀の瞳を見開き――ぽろり、と眦から一粒、涙をこぼした。その涙があまりに美しくて、わたしは声をかけるのも忘れて目線で雫を追ってしまう。

 雫が顎先から喉元に流れた瞬間、ルフレさまは嫣然と笑った。まるで絵画のように美しかった。



「あの子をその名前で呼んでくれてありがとう、シヅルちゃん」


「え?」


「私たちがいない今、もうその名前であの子を呼ぶのは、シヅルちゃんぐらいだから」



 ――ルフレさまの言葉に、強烈な違和感を覚えた。

 私たちがいない、今。それは一体どういうことだろう。私“たち”とは――?

 問いかけようと口を開いた瞬間、不意に背後から見知らぬ声がした。



「ルフレ」



 向かいの席に座るルフレさまがぴんと背筋を伸ばす。わたしは数秒遅れて振り返った。

 そこに立っていたのは、魔族の男性だった。くすんだ茶の髪に大きな二対の角。――ヴォルフラムとそっくりだ。



「あら、ばれちゃった」



 ルフレさまは肩を竦めて椅子から立ち上がる。そしてわたしの横を通り、男性の許に駆け寄った。



「シヅルちゃん、お話に付き合ってくれてどうもありがとう」



 男性と腕を絡めるルフレさま。その動作はとても自然で、この二人は夫婦なのだろう、とぼんやり思う。

 それと同時に、ルフレさまを見下ろす男性の顔に既視感を覚えた。ヴォルフラムと似ているせいかとも思ったが、違う。わたしは彼の顔を、どこかで見た覚えがある――



(どこかで……なにかで……あ、写真?)



 瞬間、強烈な眠気に襲われた。眠気なんてかわいいものではない。強い力に意識が引っ張られているような、そんな感覚。

 頭が回らない。立つこともできない。わたしは椅子の背もたれに体を預けて、薄れゆく視界の中、それでも必死にルフレさまとその隣の男性をじっと見つめていた。



「どうか、ヴォルフラムのことをよろしくね」



 最後に聞いた声は、優しい、優しい――母の声だった。



 ***



 体をゆすられて、意識が浮上する。



「シヅル様、大丈夫ですか?」



 はっと顔を上げる。わたしの体を揺すって起こしてくれたのは、ファティマさんだった。

 寝ぼけ眼で頷いてあたりを見渡す。太陽はすっかり沈んでいた。向いの席に、ルフレさまはいない。



「気づいたらこの部屋で寝ていて……シヅル様、どうしてここにいるのか、覚えていらっしゃいます?」



 ファティマさんは何も覚えていないようだった。

 薄ぼんやりとした意識の向こう、しかし記憶ははっきりしている。いつもと違う雰囲気のファティマさんに呼び出され、この部屋でヴォルフラムの叔母・ルフレさまとお茶会をしていたのだ。けれどファティマさんに一切その記憶がないということは――



「ルフレさまって、御存じですか?」



 ファティマさんの問いに首を振って答えてから、逆に問いかける。すると彼女は目を丸くした。



「どうしてシヅル様がそのお名前を? ……あぁ、陛下からお聞きになったんですか?」



 やはりファティマさんはお茶会のことは一切覚えていないようだ。よくない言い方になってしまうが、意識を奪われて“操られていた”と見るのが自然だろう。

 ならば、彼女を操っていた人物は誰? わたしを、ここに招いた方は――

 探るように相槌を打って“答え”を促す。



「ヴォルフラムの叔母さまのお名前だって……」



 いいえ、とファティマさんは首を振る。そして、“答え”を口にした。



「ルフレ様は陛下のお母様のお名前ですわ」



 ――驚き半分、やっぱり、という気持ち半分。



(それじゃあ、わたしがここ数日お会いしてた方って……)



 ――幽霊。脳裏に浮かんだ単語に、しかし恐怖は感じなかった。

 ルフレさまと初めて会ったときの会話を思い出す。彼女はわたしに「声なき者の声を聞く力がある」と言った。やけに確信した口調だったけれど、まさしくルフレさまこそが、声なき者といえたのかもしれない。

 わたしが巫女だから、多少なりとも“そういった”力を持っていたから、出会えたのだろうか。



(ずーっと、見守ってくださっているんだ)



 ルフレさまを迎えにきた男性こそが、前王様だろう。

 彼らはずっと、ヴォルフラムを、この国を見守ってくださっている。そう思うと心強いのと同時に、お二人に胸を張れるような王妃にならなくては、と身も心も引き締まる思いだった。

 きょとんとした表情を浮かべていたファティマさんが、何かを机の上に見つけたのか、身を乗り出す。



「あら、そのお写真はどうされたんですか?」



 指摘されて、机の上を見る。そこには白のぬいぐるみを抱えた幼いヴォルフラムの写真が一枚、置いてあった。

 わたしはその写真を手に取る。そして写真の中のヴォルフラムの頭を、ルフレさまがそうしていたのと同じように、指先でそっと撫でた。



「ある方から頂いたんです」



 首を傾げるファティマさんに、わたしは微笑んだ。巻き込まれた彼女にも一通り説明をした方が良いだろうが、さてどこから話そうか。

 ――夕刻時の、秘密のお茶会。きっと生涯忘れることはないだろう。



『どうか、ヴォルフラムのことをよろしくね』



 鼓膜に焼き付いた、ルフレさまの声。

 はい、と心の中で頷いた。どこかで微笑んでくれていればいい、そう思いながら。



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