志貴皇子の帳内
七一〇年(和銅三年)。飛鳥の新益京から平城京に遷都がなされた。
政治の中枢と帝のお住まいだけは何とか整備された状態で、数々の寺院や邸宅はまだまだ建設中のものが多かった。
民も少しずつ移住を始め、市も機能し始めてきている。
遷都の宣言から二年。
日本の国の首都としてはまだまだこれからという状態である。
平城京は右京と左京、さらには左京の傾斜地に外京という地区に分かれている。
有名氏族、皇族はだいたい右京や左京に引っ越して生活を始めていた。しかし中にはひっそりと都から外れた場所に住む皇族もいた。
都の東側には若草山、三笠山、春日山が聳える。その少し南側、高円山がある。
高円山の山麓には山荘が建っている。まるで何かから隠れるように、身を護るようにしてその山荘は建っている。
山荘の主の名は志貴皇子。天智天皇の第七皇子である。
「赤人はおりませんか。赤人」
志貴が声を上げると、一人の少年が子犬のように軽やかに駆けつけた。
「はいっ、皇子様」
くしゃくしゃに笑って少年は顔を上げる。正確には「少年のような青年」だ。二十歳を迎えたばかりである。
「市で筆を買ってきておくれ。傷んで書きづらくなってきたからね。そうそう、赤人の分も買っておいで」
「え!おれの分もいいんですか?」
「二十歳になったお祝いだよ」
「ありがとうございます!」
赤人は交換用の米を一袋受け取ると子犬の勢いそのままに一目散に山荘を飛び出した。
ぞんざいな言葉遣いでも、子犬のような純粋さと屈託のない笑顔で全てを許せてしまう。いつまでも大人になりきれない赤人を志貴は大層気に入っていた。
本名は山部宿禰赤人。主にこの家の雑務や志貴皇子の警護をしている下級官吏である。この時代では帳内とも呼ばれていた。
外に飛び出した所で赤人は同じ帳内の笠金村にぶつかった。彼もまた志貴皇子に仕える帳内である。年は金村の方が少し上だが、二人は兄弟のように仲良くしていた。
「ちゃんと前見て走れよ」
「ごめん」
金村は体躯の大きい男である。子犬のような赤人とはよく比較される。
相撲の名手と言われた野見宿禰を尊敬していて毎日体を鍛えており、腕っぷしの強さに定評がある。
「どっか行くのか」
「皇子様にお使い頼まれた。筆買いに行ってくる」
「えー、俺も行く!」
「おれが頼まれたんだぞー。おれ一人で行ってくる」
「お前のお使いは俺のお使いでもある」
「何だよそれ!」
結局金村も連れ立って一緒に市に行くことになった。
高円山から一番近い市は東市である。月の始めに開かれる東市は活気に満ちていた。
食べ物、布、お経、馬や牛も売られている。赤人も金村も目移りして買うわけでもないのにあちこちの店を見回っていた。
「あっ、筆。筆探さないと」
赤人は本来の目的を忘れてすっかり市を楽しんでいた。
「赤人、こっちに筆あるぞ」
手招きをしながら金村が呼ぶ。
「すいませーん。筆下さーい」
店先まで移動し、交換用の米袋を渡して赤人は筆を受け取った。
「お使い終了!」
「いいなあ筆…」
うらやましそうに金村が言う。
赤人は満面の笑みで筆を見せびらかすようにしてから袋にしまった。
「泥棒!」
「え、泥棒?」
赤人が振り向くと、布地を小脇に抱えた男が走ってきた。
「その布地は売約済みのやつだぞ!返せ!」
店主らしき男が後から追ってきたが不幸にも泥棒の足が速く、失速してしまった。
遷都間もない平城京は治安が悪く、泥棒や人殺しは当たり前になっていた。
東市でもひったくりなどが多発しており、市を監督している市司という役人が休みなく捕縛している状態だった。
「金村、筆持ってて」
「え、ああ」
赤人は金村に筆を渡すと泥棒を追って走り出した。泥棒は市の事を分かりつくしているようで人の波をすり抜け、縦横無尽に走る。
恐らく常習犯だろう。利は完全に泥棒にある。
「使うか。しょうがないな」
赤人はそう言うと手のひらを二回たたいて目を閉じた。
「建比良鳥命力貸してくれ!」
目を開けると同時に赤人は一度しゃがんで飛び上がった。
「おおっ!」
赤人の周りにいた人々が空を見上げる。
人が空を飛ぶ。非現実的な事実が起こっている。
人々は空中にいる赤人に注目した。
「空からだと見つけやすいからな…。あ、いた!」
泥棒は市の入り口まで逃げていた。外に出てしまうとより捕まえにくくなってしまう。赤人は空中から急降下して泥棒に体当たりをした。
「ぐわっ!」
「捕まえた!」
そのまま泥棒を抑え込んだ所で金村が市司を連れてきてくれた。赤人は捕まえた泥棒を市司に引き渡した。
体が小さいとはいえ、全体重を預けた体当たりは相当のダメージを泥棒に与えた。泥棒は市司に負ぶわれて連行されて行った。
「すげーボウズがいるんだな」
「どこの帳内だ?」
「志貴皇子様の所の帳内だって」
周りの人々が赤人を褒め称えた。
そんな声にも赤人は奢る事なくその場を去った。
「周りの人にもっと愛想ふりまいてもいいんじゃないの?手振っちゃったりとかしてさ」
「そんな恥ずかしい事できるかよ」
歩きながら、赤人は自分の手を広げてみた。
人を越えた力を持ってしまった者は決して奢ってはいけない。おごり高ぶったその時、力に飲み込まれて自滅する。
師匠の言葉は肝に銘じている。
この力は人のために。人を笑顔をするために。
感謝の気持ちを述べる布地屋の男の笑顔を思い出しながら赤人は高円山に帰還した。