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035『マラソン:メモ』


 私は駆け出した。

 残り時間はおよそ三十五分。それまでに西の崖に到達しないといけない。


 ダムサイドの道を走り鉄柵へ向かう。十八夜の月に照らされた未舗装の道路。左手の山肌に沿って緩やかなカーブが続く。資材置き場を過ぎればすぐに柵が見えてきた。


 開け放たれた扉をその勢いのまま駆け抜けた。西沢渓谷温泉に向けて南へ向かう。暫く走ると渓谷を見渡す場所に出た。

 青白い凛とした月明かりに照らされた村の中でも、ひときわ目立つ煌々と明かりの灯る泡嶋神社が見下ろせる。無事避難は完了したのか既に人気は無い様だ……。


 泡嶋神社を右手に見下ろしながら坂道を下り始める。次第に周囲が木々に覆われ村は見えなくなった。左手の森の中に僅かな明かり……西沢渓谷温泉の明かりが見えて来る。


 結局五日間もお世話になった……。温泉も気持ちよかったし、十吾さんのお蕎麦もうまかった……。思い出は尽きない。蓮池の方には十吾さんの新しく建てた西沢温泉がまだあるらしいので、今度、暇を見つけて行ってみよう……。


 温泉への分かれ道を通り過ぎ更に坂を下る。

 小さなお堂や石像が並んでいるのを見ながら駆け抜ける。月明かりで見るこの光景は一層神秘的だ。鬱蒼と茂る森の中に、地面を蹴る音と呼吸音だけが木霊する。木々の合間から白い吊り橋が見えて来た。


 下り坂が終わり吊り橋の袂まで来た。橋の向こうの小田商店の前には大きな笠のついた街路灯の明かりが見える。私はその明かりに向けて吊り橋を渡った。右手を見ると月夜に照らされたダムの全体像がよく見渡せる。――本当によくこんな山奥にこれだけの物を作った物だ……。感動すら覚えるな……。


 橋を渡り切ると、漏れ出る泡嶋神社の明かりで周囲は明るい。その時、大鳥居の向こう側、社務所の裏の茂みの暗がりでで何かが動いた。

 ――アマヌシャ達だ。もしもの時の為にマヒトが用意しておいたものだ。

 私は走りながらおもむろに右手を胸ポケットに突っ込み、マヒトから預かった手鏡を取り出した。


 手鏡を掲げたまま近づいて行く。大鳥居の向こう側に回り込み神社の裏手に続く道を行く。ここは、神社の明かりも月明かりもほとんど届かないので非常に暗い。左右の藪に潜んでいるアマヌシャたちが此方を見て次々と後退る。足元もおぼつかない暗い夜道を一気に駆け抜けた。


 前方に揺らめく明かりが見える……。息が切れ始めた……呼吸が苦しい。

 丁度本殿の下を通り過ぎると見えてきた……篝火だ。泡嶋神社の裏口から転々と西の崖まで周囲を照らす篝火が焚かれている。


 篝火に沿って道を走る。――足が重い……。小さな鳥居を抜けて崖の割れ目へ。見上げるような石段が延々と崖の上まで続いている……。


 ――ド畜生!

 心の中で叫びながらふらつく足を無理やり抑え込んで、私は一気に石段を駆け上がった!


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」地面に膝まづく。

 ――死んだ……やはりもう少し運動しておけばよかった……。

 ポケットから懐中時計を取り出した。

 時刻は既に十一時三十分……。三十分で到着した……。

 ――結構、やばかったな……。


「おう、やっと戻って来たか」

 顔を上げるとそこには多賀谷が嬉しそうな顔で立っていた。

「我勝利を見たり……」

「はあ? 何言ってやがる」

「マラソンの逸話を知らないのか……」

「その様子だと、どうやらうまく行った様だな」

「ああ、恐らくあと五分くらいで始まる……」

「そうか、ありがとうな、浅見」多賀谷が右手を差し出した。

「どういたしまして……」そう言いながら私は手に掴まり立ち上がった。まだ視界が揺れる……呼吸が荒い……。


 見回すと崖の上には村人たちが全員集まっていた。

 ここには桧垣さんを除く四十九名が篝火を焚き集まっている。


 その集団の中から、一人の赤い着物の幼女が近づいてきた。この娘は確か……宴会の時に談笑した、蕎麦畑の持ち主の栄作さんの娘だったはず……。


「おじさん、これ」

 小さな手で何かを手渡してくれた。鈍く銀色に輝く小さな物体。

 それは、間違いない。私愛用のボールペン。SW(スミス&ウエッソン)社のタクティカルペンだ。


「ありがとう、これ、どこにあった?」私はそれを受け取り胸のポケットへ入れた。

「あっち!」幼女は元気よく黒穴の方を指さした。


 ――成る程、これでメモの謎が解けた……。確かにメモ用紙とペンは私がこの世界に持ち込んだもののようだ。気を失う時に丁度手に持っていた……。では、〝セイラを探せ〟 の文字はいつ書いた?

 気を失う瞬間まで私は鈴木セイラの名前を知らない……。とすればこちらに来てから誰かに聞いたことになる。黒穴のほとりで……。


 ――これはきっと、セイラの助手の米沢氏の言葉だろう……。アマヌシャになってしまった彼の呟きを私が無意識のうちに聞き取り、目覚めた瞬間にメモを取ったと言う事だろう……。


「ありがとな」そう言って幼女の頭を撫でた。

「うん」元気よく幼女はお父さんのところへ駆けて行った。


 私は村人たちの集まる篝火へ向けて歩み出した。



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