4 嫌いではない、の意味
頬杖を突いて、アルムはぺらり、と手元の楽譜を捲った。
そこに記してあるのは、レガートや周辺諸国とは異なる発声方法による、はるか東方の歌謡。
本来、かれらの唄うそれに楽譜はなく、すべてが口伝。著者は、それらを地道に聴いて音を当てはめ、楽譜に落としたようだ。
先人の研究への熱意に、頭が下がる。
ぺらり。
また捲って――ちら、と横目に窓の外を見た。視界に映るのは空と湖の青。それに、ところどころ筋状に広がる雲の白。
……あとは、湖に面した崖に至るまでの、少量の芝生の薄緑。
眼下に見下ろすレガート湖は広大で、どこまでも澄んでいる。大陸の中央にあって、北の霊峰、白雪山脈の豊かな雪融け水が清涼な湧き水となって、この地を潤している。
春の陽光が反射して、波間をきらきらと彩る――
黒髪の少年はまぶしそうに濃い緑の目を細めた。
「いない、か……」
誰にも聞かせるつもりのない独り言に、返事が聞こえた。
「呼んだか?」
「呼んでない」
即、切り捨てる。しかしめげない声の主は、相席の許可をとらずにカタン、と椅子をひいて黒髪の少年の向かいに腰を下ろした。
「律儀な奴だな。まだ探してるのか?あれから、もうひと月は経つぞ」
「……三週間くらいだ。それに、ずっとってわけじゃない」
勢いで再び、ぺら……っと捲ってから、(しまった。まだ読んでなかった)と思うが、もう遅い。
どのみち友人が来てしまった以上、読書も探しものも中断だ。
アルムは、ぱたん、と楽譜を閉じた。ふわ……っと、古い書物特有の匂いが立ちこめる。
友人――マルセルは、珍しく顔をしかめた。
「あーあぁ、黴くさくなっちゃって。色男が台無しだぞー?」
「誰のせいだと思ってるんです」
じろり、と睨んでも効果はない。さんざん学習したのでよくわかっている。が、睨まずにはいられない。
マルセルは、年下のいたく気に入っている友人の、非難めいた暗緑色の視線を楽しそうに受け止めている。
「私だな」
あっさりと認める青年に、アルムは予想していたとはいえ肩透かしを食らった。
がくり、と項垂れる。
「いえ、まぁ……情報提供はありがたかったので。それに。あんまり学院内を出歩くと、逆に誘われるんですよ」
「誰に? 男から?」
「違います……! 歴とした、女の子から!!」
思わず声が大きくなった。
しかも、図書室にあるまじき内容だった。アルムはパシッ! とみずからの右手で口を塞ぐ。
――もう遅い。
にやにや、と口許を歪めているマルセルは、本当に意地がわるい。
「話には向かんな。出るか」
「……そう、ですね」
憂えた黒髪の美少年を従えて。
白銀髪の青年が嬉しそうに、鼻唄混じりで図書の塔から出てきたのは、それから数分あとだった。
* * *
「よし。じゃあ、ジュードの新しい彼女でも見てこよう」
学院の中庭に出て、二人は歩く。
声量を気にせず会話を楽しむマルセルの表情は明るい。――いや、図書の塔のど真ん中でもアルムよりは明朗だった。
アルムは、「ん?」という顔になる。
ジュードはレガート湖から南へ流れる大河を下った先にある、大国セフュラの王太子だ。
帰国すれば、大貴族の娘達を大量に妻にしないといけない……と愚痴っていたので、一部の単語に違和感を抱いた。
「彼女? あいつ、好きな子がいたんですか」
話す間に、目的地に着いたのだろう。白銀髪の青年が進路を変え、左手の建物に近づく。
目の前には、年季が入って重厚な、精緻な草花の彫刻を施された木の扉。
アルムは、マルセルが手を伸ばす前に素早く先に立ち、それを押した。
いかに傍若無人な皇子でも、未来の主君。染み付いた癖で、アルムはつい侍従や側仕えのような行動をとってしまう。
青年は、それをさも当然のように、軽い頷き一つで労った。
「ご苦労」
「はいはい、で? 何なんです」
はぐらかされないぞ、と食らいつく黒髪の少年を、マルセルは一瞥した。同時に、にっと笑う。
「前にも話したろう? “混声による歌劇の共演”。あいつのほうが、相方を見つけるのが早かったってことだ。
今、第二練習室で歌ってる。聴くだろ? 色んなやつの声を聴いたほうが、探しものも案外早く見つかるかも知れん」
すたすた、と返事を待たずに歩を進める青年の背に、アルムはこっそりと和らいだ笑顔を向けた。
――この皇子の、こういうところが嫌いになれない所以である、と。




