2 友からの提案、のちに
「まずは、学院生の身での皇国楽士団、歌長就任おめでとう!」
「いや、それを昨夜、散々ジュードの部屋でやられたんですが……まぁいいです。有難うございます」
チン! と、グラスが合わさる音。
早朝の食堂である。人気はない。
白銀の括り髪の青年――マルセルは、上機嫌で果実水のグラスを傾けた。
アルムが持つのは、普通の水。
二日酔いにはこれが精一杯だ。青年につられたわけではないが、かれもまた、グラスの水をゆっくりと口に含んだ。
澄んだ、上質な湧き水は沁み入るように甘い。素直に喉を潤し、胃の腑までするすると落ちて、内側から体を癒してくれる気がする。
そのまま、ごくごくと一気に飲み干してしまった黒髪の少年は、やがてコトリ、と空のグラスを卓に置いた。
「それにしても……すいぶん早く起こしてくれましたね。まだ六時じゃないですか。食堂、よく開いてましたね」
「ん? 開けさせた。皇族特権だ」
「……」
しれっとして、悪びれない――親友と呼んで差し支えない青年の発言に、アルムの頭は再び痛みはじめた。
軽く湯を浴びたことで、確かに気怠さや頭痛、酒臭さなどは軽減されている筈なのだが……
(まったく、この皇子様は!)
マルセルは、この大陸で一番の小国――湧き水豊かなる湖の芸術都市、レガティアを抱えるレガート皇国の世継ぎの皇子だ。
御年二十歳。
この学院は、普通は十四歳から十八歳までの、芸術を志す若者のための学舎なのだが。
『知ってるか?アルム。留年という、実に良くできた制度を』
――二年前。
マルセル達の学年が卒業する際、やっと解放されると安堵していた、黒髪の少年の希望を粉砕した台詞である。
当時のマルセルの笑顔もまた鮮烈で、未だにそれらは絶大な破壊力を以て脳裡に焼き付いている。もはやトラウマだ。
「嫌いじゃないから、かろうじて付き合えるが……本当に厄介だ……」
空のグラスを上から長い指で掴み、プラプラと揺らす。
透明な硝子に、ところどころ赤や青の彩色が施してあり、光を弾く様や卓に落ちるうっすらとした色合いが目に楽しい。
「? なにか言ったか?」
「何も」
嬉々として絡んでくるのも、もう慣れた。アルムは実に素っ気ない返事で会話をぶった切る。
「で? なんで私を呼んだんです。ジュードはどうしました」
「ジュードはバリトンだろ。テノールのお前とじゃ、音域も声色も似通いすぎて、つまらん。あれはあれで、相手を物色しに行った」
「……」
沈黙しか返せない。
黒髪の少年は、『貴方の答えはいつも、島二つ分ほど飛び越えた僻地にありますよね』と、言いたい気分に駆られた。
――が、ぐっと飲み込む。敬意ではない。いつまで経っても話が前に進まないのがいやなのだ。
「……マルセル、端折りすぎです。思い出して。なにか、言うのを忘れてますよね?」
辛抱づよく答えを促すと「あぁ!」と、会話がようやく繋がる。青年の琥珀の瞳が煌めいた。
「お前もジュードも、今年は四学年だろう? 『室内多重奏、或いは混声による歌劇の共演』ってやつ、必修専科にあったよな。
見つけたんだよ、お前にぴったりな声の女の子。どうだ? 興味わくだろう? 妙齢の男子として」
マルセルは、わくわくとした表情で卓に肘をつき、身を乗り出している。
一言、本当に余計だなと思いつつ――アルムは内心、感謝した。
卒業のための必須科目の一つ、必修専科はこれで最後。他の単位は全て修得済みだ。
“歌長”という特殊な職を兼ねる身としては、下手な相手では共演になり得ない。また、妥協したくもない。願ってもいない情報だった。
知らず、問う声が弾む。
「誰。何学年?」
フッと、マルセルが目を細めて微笑う。
アルムは身構えた。かれが、こういう顔をする時は、大抵ろくでもないことになる。
「わからん」
「……え?」
「私もわからん。一度、通りすがりに聴いただけだからな。だが、探す価値はあるだろ。
行くぞ。今日は一日、たっぷり付き合ってやる!」
「えぇぇ……」
青年に濃い緑の視線を流しつつ、アルムは「わかった。わかりましたよ……お付きあいしますとも」と、力なく頷いた。
あくまで、付き合うのは自分だと言い聞かせて。
――歌声の君を探す日々の、始まりだった。




