序 少女の独白
誰かに心を奪われるなんて、本や歌劇の中だけのことと思ってた。
少なくとも、自分には決して訪れないと確信してた。
――なのに。
いつの間にか、景色の中に探すようになった短い黒髪。
綺麗な立ち姿。
真夏の濃い葉陰のように艶やかな、緑の瞳。
……いやになるほど甘く整った顔。その辺の女の子より透明感のある、象牙色の肌。
時々、向けてくる笑顔は反則だと思う。
何より特別な、その声。
無造作な佇まい、何げない視線のひとつに一々惹きつけられる。皇族を除けばこの国で一番の名家の、若き当主でもある、かれに。
――わたしは……
(だめだよ。ぜったいに、駄目……!)
少女は、固く目を瞑った。
両脇に力なく垂らした腕の先、白く細い手指も無意識のうちに、ぎゅっと握る。
両親から受け継いだ、湖の青の瞳。
母から受け継いだ、波打つ薔薇色の髪。
どことなく、精霊や妖精を思わせる風貌は華奢で、小柄な身体は十七歳になった今も薄く、頼りない。
『捕まえててあげようか? 風に飛ばされて、消えちゃいそうだ』
飄々と、唐突に。
やたらといい声で話し掛けられた過日の出来事が、ばかみたいに胸を締めつける。こんな自分勝手な痛みでも、泣いていいのなら泣きたい。
少女は、愛らしい唇を苦く微笑う形に歪めた。
――あんな軽口は、もう叩いてもらえない。
夕刻の陽が、沈んで行く。
山の端に、うつくしい湖の向こうに。
最後の金色の光を投げ掛けて、わずかに少女の髪と同じ色に西の空一帯を染めあげたあと。
辺りは僅かな波の音、風が揺らす葉擦れの音だけが響く、藍色の闇の帳に包まれた。
星は、ない。