チョウチンアンコウ
ゆらり、ゆらり。
暗闇の中で揺れる、ぼんやりとした光。深海に溺れた者を誘惑するその光に、僕は引き寄せられてしまった。
これは――僕の奇妙な体験だ。
「最近疲れていないかい?」
この一言が、すべてのきっかけだった。深夜のコンビニ、僕は先輩からとある話を聞いた。なんでも、やる気が湧いてくる講話があるらしい。
「鬱っぽいんだろう? それはいけないよ、君。せっかくの一度きりの人生じゃないか」
先輩の話を聞いてくる内に、なんとなく宗教の勧誘だとわかった。とにかく胡散臭い。僕は人の話の裏を読み取るのが上手い。だからよくわかった。けれどものは試しと、話に乗ることにした。鼻っから宗教の勧誘だとわかっていれば、嵌りはしないんだ。そんな気持ちだった。
僕は大学三年生、来年に就活を控えている。上京してきて独り暮らし。所属サークルはなし。学校と家の往復はまずいと思い、半年前からコンビニのアルバイトを始めた。別に金はどうだっていい。どうせ使い道はなかった。
けれど、すぐにアルバイトもマンネリ化してしまった。最後の期待だったアルバイトも、結局そんなものかと思ってしまってから、僕は人生に希望が見いだせない。学校では寝て、アルバイトでは機械になって、家では内側から腐って行くような感じがした。
そこで、僕は刺激的なナニカに出会いたかったわけだ。宗教に勧誘されるなんて、なかなかできない経験だ。
僕は学校をさぼり、その講話とやらを聴きに行った。
もちろん、先輩も一緒だ。一人で行く勇気なんて、僕は持ち合わせていない。きっと先輩は洗脳済みだ。あまり心を許していると、本当に洗脳されてしまう。僕は心の中に踏み入れてはいけない境界線を決めた。つまり、聴き込んではいけない境界線を。
会場は古いビルの一室だった。まあ、予想通りだ。部屋は薄暗く、八畳ほど。僕と先輩以外、四人いた。意外に若かった。僕より五つも違わないだろう。
講話が始まり、僕は危うく心を持っていかれるところだった。リーダー格の男はとても優しそうな人柄で、心に訴えかけてくるような言葉を口にしていた。
「世の中、辛いこと、悲しいことがたくさんあります。あなたは悲観的に思うかもしれません。ですが、私はこう云いたい。自分の内側を変われば、世界は変わると。そう思うでしょう? あなたも」
僕はそれなりに頷き、あまり深く考えないようにした。話に嵌められてしまっては、もう戻れなくなりそうだからだ。戻れるほど、僕の精神は強くない。
「ですが、自分を変革することは難しい。だからこそ、教えは必要なのです」
「必要なのです」
僕以外の四人が、リーダー格の男に続いた。先輩の声もした。
「君に、いいものを見せてあげましょう。古来より伝わる、チョウチンカシラを」
「チョウチンカシラ、ですか……?」
リーダー格の男はサッカーボール大の木箱を取り出した。僕を手招いたので近くによってみると、その木箱にはいくつものお札が張り付けられていた。かなり気味が悪かった。
「……提灯が頭に着いたミイラです。これはある古い一族にチョウチンカシラとして伝わってきた、正真正銘、神です。我が同胞がそれを発見し、買い取りました。君には、特別に見せてあげましょう」
人魚のミイラのようなものだろうか。僕はその蓋を開けた。
本当に、提灯がついた人間だった。
干からびた人間の頭部だ。そして、チョウチンアンコウの発光体のようなものが鼻の辺りまで垂れさがっている。グロテスクなその死体に、僕は心が掻き毟られた気がした。
「君、こんな機会は滅多にありませんよ。今、チョウチンカシラのご加護があなたにも……」
気味の悪い作り物だ、と内心思った。というより、本物だと認めたなら、僕はこの宗教から抜け出せなくなる気がしたのだ。
講和が終わった。チョウチンカシラを見せられたあと、リーダー格の男はしつこく勧誘してきたが、僕は丁寧に断った。勧誘が次第にエスカレートしていったので、先輩が間に入って止めてくれた。先輩としても、悪い噂が立つのは避けたいのだろう。
こうして、僕の宗教勧誘体験は終わった。
「そうだ、俺は先生に話があるから先に帰っていてくれ。長くなりそうだから」
リーダー格の男は勧誘が上手くいかなかったのが不満だったらしい。先輩は彼をなだめるために残った。
僕は安堵の溜息を吐き、荷物を持って部屋を出ようとした。
そのときだ。
「うわっ!」
驚きが声に漏れてしまった。
僕の真後ろには女が立っていた。年は僕と同じくらいか、少し下か。前髪の長い、眼鏡をかけた地味な雰囲気の女だった。
つまり、僕以外に傍聴人がいたのだ。部屋が暗かったのでわからなかった。
「ごめんなさい、いるとは思わなくて」
「…………」
とても気まずい空気が流れた。僕は会釈をして、横を通り過ぎた。
だが不運なことに、僕と彼女は同じタイミングでエレベーターに乗ることになってしまった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………あなたも、疲れているんですか」
「え?」
降下中のエレベーター、突然彼女は沈黙を破った。僕は彼女に振り向いたが、半ば独り言のようだった。彼女の視線はオレンジ色の階数表示に向いている。
「あなたも、疲れているんですか」
また、彼女は云った。これは無視できない。
ピンポーン、と軽やかな音を鳴らし、エレベーターは一階に着いた。
「……あんまり、気にしない方がいいよ。さっきの、絶対宗教の勧誘だから」
「私も、それはわかりました。でも、少しだけあそこには救いがあるような気がします」
「……おいおい、そんなこと云うなよ。あんた、疲れてるのか?」
すると彼女は初めて僕へと顔を向け、
「はい、私は人生に疲れています」
きっぱりと断言した。
僕は彼女を放っておけなくなり、とりあえず話をすることにした。ちょうどお昼時だ。僕らは夏の強力な太陽光線を浴びながら、手ごろなファミレスを探した。ナンパな男に見えるかもしれないが、そうではない。目的は一つ、彼女を説得すること。
オーダーをした後、少しの沈黙があった。僕はなにか話そうとしたが、彼女には独特の間があるらしい。スマートフォンをいじろうとしたとき、彼女は口を開いた。
「私、もう人生を終わらせようかと考えているんです」
唐突にえらい発言をした。つまり、自殺を考えているらしい。
「……どうしてまた」
「それは……」
彼女は俯き、少し言葉を詰まらせた。そしてこう云った。
「あなたは人生に意味って、あると思いますか?」
「人生の意味か……」
「私は、それがよくわからなくなっちゃって、ただ生きている今が辛いんです。なんのために生きるのか、どこを目指して生きるのか」
どうやら、彼女は考えすぎて思いつめるタイプのようであった。しかし、彼女の云うこともわからなくない。なんのために生きるのか、わからないから僕だって辛いんだ。
「僕もわからないよ。僕は大学生だけど、明るいキャンパスライフなんてなかった。学校と家の往復だけ。あとはアルバイト。ただ生きているだけって感じ、辛いよね」
彼女は萎れたようにうな垂れる。ずっと目を合わせてくれない。長く伸びた前髪と眼鏡が、僕との間に距離を置いてしまっている。
「もしご迷惑じゃなければ……」
「なんだい?」
「たまに、こうして会って話を聞いてもらえませんか? 私、友達いないし、悩み聴いてくれる人、あそこの人たちしかいないし」
あそこの人たちとは、宗教の人のことを云っているのだろう。彼女の愚痴を聴く義理はなかったが、このまま宗教に入れさせるのも忍びない。彼女の人生を救うことができるなら、僕はそうしよう。
「僕は舘町。君は?」
「……白井はるか」
そのタイミングで、オーダーしていた料理が運ばれてきた。
あれから先輩からの誘いは断り続けた。もう行く気はない。へたに行って入信してしまったら厄介だ。僕の固い意志を見たのか、先輩は宗教の話を口に出さなくなっていった。僕よりも勧誘しやすいカモなんて、街には腐るほどいるだろう。
白井はるかとはたびたび会うことになった。彼女も僕と似たような人種だった。地方に出てきてから東京に独り暮らし。今は大学二年生だから、僕の一個下になる。人生に無気力な、影の薄い大学生だ。そして、人生に疲れている。
「舘町くんは、疲れていないの」
会う度に彼女は云う。その答えなどわかりきっているくせに、不安気に確認してくる。
だから、僕は毎回欠かさずこう答える。
「疲れているよ。人生に」
そうすると、彼女はほっとするのだ。同類がいることが、彼女の心の支えになっているのかもしれない。
僕は初め、あまり乗り気ではなかったが、三度目の訪問くらいから充実感を覚えた。それは彼女の心の支えになっているという、自分の存在に充実していたのだ。
――本当に僕は嫌な性格をしている。
「舘町くんは、今日も大学サボってきたの?」
「なに言ってんだ、お互い様だろうが」
「私はサボってないよ。履修登録、まったくしてないもん」
「まじかよ。単位はどうすんだ?」
「いいんだよ。そんなもの。秋から頑張れば」
白井がそっぽを向きながら話しているのは、罪悪感があるからだろうか。
「白井、文系だっけ」
「経済学部だよ。舘町くんは」
「理学部。生物の勉強しているんだ」
「それって、マウスの解剖?」
「それもやった。気持ち悪いか?」
「ううん。面白そう」
そう云って白井が手渡したのは、動物の死骸の写真集だった。屈託のない笑顔で鼠のページを開く。道端に仰向けになっている鼠は、実験台の上のマウスと少し重なった。
「舘町くんも好きなんだ。似た者同士だね」
僕には、白井がなぜそんな写真集を持っているのかわからなかった。
白井はたまに危ない側面を見せた。大人しそうにしていて、不安定な内面。少し子どもじみた、無邪気とも狂気ともいえない気質があった。
それでも、白井を放ってはおけなかった。駄目な考え方だが、僕がいないと彼女はどうにかなってしまいそうに感じた。
僕が彼女を社会に復帰させなければならない。
初めて出会った日から一か月、僕は毎日のように白井の家に行った。もう夏休みだった。テストの成績はきっと悪くて、結果として履修登録すらしていない白井と同じになってしまうだろう。僕が留年したら白井と同じ学年だ。といっても、彼女とは学校が違うのだけれど。
白井と外へ出かけたことはない。ずっと部屋の中。それも、散らかって汚い部屋。まるで僕の部屋だった。白井は僕と似ている。白井と僕は大きな共通点で繋がっている。僕らは「疲れている」のだ。
ある夜、僕はバイト帰りにとても心細くなってしまった。切れかかっている電灯が僕の心を不安にさせたのかもしれない。とにかく、僕は疲れていた。夏休みを開けたらどうしようか。就活はうまくいくのだろうか。今の僕がとても惨めで、どうすればこの疲れから解放されるのか。
白井は夜遅くだというのに、家へ入れてくれた。女女しくも、僕は彼女に抱きついて心を落ち着かせた。白井は、黙って僕の話を聞いてくれた。それから、僕らは初めて愛し合った。
「舘町くんって、私がいないと駄目なのね」
ついにそんな言葉を聞いてしまったのは、八月の半ばだった。僕はアルバイトもバックレて、ずっと白井の家にいる。もはや同棲しているようなものだ。あれだけ地味で魅力のない女だった白井も、このときの僕からしたらとても可愛く思えた。僕らはお互いを必要としている。得体も知れない「疲れ」から身を守る手段はただ一つ、お互いに身を寄せあうことだけだった。
「疲れてるんだよ、僕は。君がいないと駄目だ。だけど、白井だって僕がいないと駄目だろう?」
「そうだね。私は舘町くんがいないと、今にも崩れそうだよ」
白井はうつ伏せに寝転んでいる僕に抱きついてくる。ぐっちょりとした汗が混ざり合う。この部屋にはエアコンがない。少し離れたところで扇風機が回っているが、汗まみれの僕らの服を乾かすことはないだろう。とても蒸し暑かった。
「……なんで疲れるんだろうな」
「未来が、見えないからじゃない?」
耳元で囁く。官能的で、少しだけ恐ろしい。
「……そうだな。なんのために生きているか、わかんない。白井が昔、云ったよな」
「そうだね」
「僕は、ずっと今を未来のために使ってきたんだ」
「未来のために?」
「中学の時は、良い高校に受かるために生きていた。遊びも断って必死で勉強してたんだ。高校も同じ。それで大学生になって初めてわかったよ。未来のために生きていても意味がないって」
「大学ではいい会社を目指そうとしてないの?」
「そりゃいい会社を目指すべきさ。でも、今を今の楽しみのために使わないと、いけないって思い始めた。大学に入ってからね」
「舘町くんの云うこと、よくわかるかも」
「そう。だけどね、僕はそれに気づいてから絶望したんだ」
強い後悔の念がよぎる。僕は青春を潰してしまったのだ。
「大学生になった今、僕は遊び方を知らないんだ。みんなとは違う。僕だけが、中学校も高校もすっからかんになった、中身のない奴なんだ。僕にはなにもない! ただ、今を生きているだけなんだ!」
「舘町くん……」
うつ伏せの僕に重なるように抱きついている白井。彼女は僕の頭を抱え、何度も撫でてくれた。
「私も、なにもないよ。私たち、なにもないの。ただ、こうしているだけでいいと思う……」
「白井……」
「ずっと、こうしていたいの。舘町くんと、ずっと抱き合っていたい……」
白井の生ぬるい汗に温もりを感じた。Tシャツ一枚の躰を僕に擦りつける。背中には控えめな胸、乳首の感覚。彼女の吐息が僕を火照らせた。
「こうするのが、今を生きるってことなんじゃない?」
久しぶりに家に帰ったときだった。僕は夏休みの間ずっと使っていなかったスマートフォンを充電したのだが、そこには驚愕させるものがあった。
「うわっ! な、なんだこれはっ!」
僕はスマートフォンを放り投げ、部屋の隅まで退いた。
スマートフォンには、おびただしいほどの着信が入っていたのだ。それも、その主は……
「先、輩……?」
宗教に誘ったあの先輩だった。
僕はきっと、宗教の団体から狙われているのかもしれない。もしや、白井を説得したからだろうか。
「きっと、そうに違いない!」
明日の朝、携帯番号を変更しないと! 宗教団体の人間はなにをするかわからない。僕は狙われているんだ。
心臓がばくばくした。興奮してどうにかなりそうだった。白井が欲しかった。白井が傍にいてくれたら、どんなに安心しただろうか。
「うわああああ! ちくしょうっ! ちくしょうっ!」
僕はスマートフォンに向け、何度も枕を叩いた。半分イカれていた。この恐ろしい機械を、どこか遠くへぶん投げてやりたかった。
そのときだった。
ヒロヒロヒロヒロ、ヒロヒロヒロヒロ。
着信だ。
先輩からだった。
背筋が凍り、着信音がただただ恐怖だった。
出るべきか、出ないべきか。僕は――出ることにした。
「……はい、もしもし」
『た、舘町か……! 舘町、舘町なんだな!』
先輩は必死な声で僕を呼びかけた。泣いているらしい。
「なんですか……僕のこと、また宗教に誘おうとしているんでしょう! それならもうお断りだ! 僕は――」
『違う、舘町、違うんだ……。とにかく、お前は今家なんだな?』
「答える義理はない! 先輩たち、白井を説得されて、僕を恨んでいるんでしょ!」
『白井……? なんのことだよ、舘町』
「とぼけないでください! あの講話のときに居た、女の子ですよ!」
『お前は女の子に会ったのか……そうか、本当だったのか』
「本当? 意味の分からないことを云うな!」
『舘町、ちょっと待ってろ』
電話の向こうでなにやら相談している。きっと、宗教団体の仲間だ。
「もういい! 僕は電話を切らせてもらいます!」
『待て! 今すぐお前の家に行く! だから待って――』
僕は電話を切った。まずい、追手がここに来る。
僕はすぐに荷物をまとめて、白井の家へ向かうことにした。あそこはばれていないだろう。あそこならば、僕の不安もなくなるはず――
「白井……怖い目に遭ったんだよ」
「舘町くん、大丈夫……?」
冷や汗でびっしょりだったのに、白井は嫌がろうとしなかった。むしろ、彼女は僕の汗を愛おしむかのように、自分の躰を擦りつけてくるのだ。
「白井……白井……」
「舘町くん……」
こんなことをするのも、動物の本能か。生命の危機に身を置いたとき、子孫を残そうと必死になる。そんなことを昔ネットで知った。
「白井、追手が来るんだ」
「なんの……?」
「宗教の、だよ」
「それは、あの人のこと?」
白井は僕と目線を外した。というよりも正確には、僕の向こう側を見ていた。
「え……」
僕は後ろを振り向くのが怖かった。どうしてだ。ドアには鍵がかかっているはずなのに。なぜ、ここにいることがわかるのだ。なぜ……なぜ!
「ちくしょうっ!」
思い切り振り向いてやった。
だが、誰もそこには居なかった。散らかった部屋の、なにもない暗闇があるだけだった。
なんだ、冗談か。
「……ったく、驚かすなよ。びっくりしただろ」
僕は白井の方に振り返った。
そのとき。
「グギュッグギギギギュギュッ!」
排水管が詰まったような、恐ろしい音。白井の顔がぐちゃぐちゃによじれていた。パン、と破裂した脳の一部が僕の顔に降りかかる。生臭い血の匂い。僕の抱いていた白井の躰も、何度も愛したその美しい躰も、内側から破裂して多量の血液が噴出した。地獄絵図だ。僕は白井の名を呼んでいたが、彼女の血が口の中に入ったので喉を詰まらせてしまった。すべてが真っ赤だった。白井の躰も、部屋も、なにもかも真っ赤に染まった。次第に僕の感覚も赤く染まっていき、真っ赤な夢の中へ沈んでいった。
やがて色は失せ、僕は真黒な空間に居た。
どこまでも深い闇。上も下も、左右もない。僕がいるだけだ。
ずっとその孤独を耐えてきた。やがて、僕は灯りが近づいているのを見る。暗闇の中、うっすらと光るもの。
ゆらり、ゆらり。
チョウチンアンコウだ。そう思った。発光体を光らせて、僕の方へ泳いでくる。その躰は僕よりも遥かに大きかった。チョウチンアンコウが近づくにつれ、眩しく輝いているものの形がはっきりしてきた。発光体の正体は白井だ。白井はるかが光っているのだ。
僕はとても救われた気がした。この果てしない深海で、ようやく希望に出会えたのだ。彼女くっついていれば安らぎがある。白井は母親の子宮と同じなのかもしれない。白井と一つになれば、もう「疲れる」ことはなくなるんだ。
チョウチンアンコウの躰が僕と触れる。すると躰が完全に癒着してしまった。けれど、そこに悲壮感はない。なぜなら、僕は白井と一つになれたのだから。
――もう、ずっと離れない。
僕が目覚めたのは、ジャズの掛かった喫茶店の中だった。窓からは朝の光が差し込んで心地よい。
だが、僕は喫茶店に来た覚えはない。にも関わらず、今僕は喫茶店のソファに身を沈めていた。情報整理が追いつかない。眠る前はなにをしていたっけ……?
そうだ。白井の家に居たのだ。だが、その先が思い出せない。
頭が痛い。
「おはよう、舘町くん。目覚めの珈琲はいかがかな?」
遠くの方から声が聞こえた。その声の方角を向いてみると、カウンターの向こう側に男が一人。まったく面識のない男だった。
「あなたは……だれですか……?」
その問いに答えず、彼は熱い珈琲を淹れて持ってきた。
年齢は二十代だろうか。躰は細いが、凛凛しく知性を感じる不思議な男だ。彼はテーブルに珈琲を置くと、向かい側のソファに座った。
「君は厄介なモノに憑りつかれていたんだ」
「厄介な、モノ……?」
「僕は安曇。人助けの仕事をしている。まあ、警戒しなくていい」
僕は珈琲を勧められたので、口をつけた。旨い。今までに飲んだことのないほど、安曇という青年の淹れた珈琲は旨かった。
そこで思い出した。僕の意識がなくなる前のことを。
「そ、そうだ! 白井、白井は……!」
「白井か。白井ねえ……」
どうやら、この男は白井のことを知っているようだ。もしや、白井が見たという人物は安曇だったのだろうか。
駄目だ。夢と現実の区別がついていない。
白井は、死んでしまったのか。
「舘町くん、大丈夫?」
「いや、ちょっと頭が混乱してて」
……この男も宗教の関係者なのか?
「舘町くん。この話は順を追わなければならない。……事態は少しややこしいんだ」
安曇に連れてこられたのは、宗教の勧誘を受けていたあのビルだった。あの部屋には、先輩も含めた前と同じメンバーが揃っていた。そして、もう一人――見知らぬ老人だった。
「紹介しようか。彼らは希望の灯会のメンバー。舘町くんが推理したように、宗教団体だよ」
希望の灯会の五人はどことなくうな垂れている。安曇という男には、それほどの影響力があるのだろうか。
「そしてこのご老人は仁科哲夫さん。チョウチンカシラを守ってこられた一族の現当主だ」
立派な髭を蓄えた、和装の老人だ。躰は縮こまっているが、額には青筋が浮き出るくらいに激怒している様子だった。
「安曇殿、こやつらをいかがしようか! この――汚らわしい盗人らを!」
「仁科さん、お気持ちはわかりますが……まず、解決しなくてはいけません。チョウチンカシラの呪いを」
「呪い……だって?」
そんな、非現実な。
「少年、安曇殿はな」仁科老人が喋った。「呪いを解く仕事人なのだ」
「呪いを解く、仕事人……」
「この数カ月、君は呪われていたんだ、舘町くん。この――チョウチンカシラから」
安曇は机の上にある木箱を指さした。
「舘町くん。あの箱を開けるんだ」
「そうすると、どうなるんですか?」
「この呪いに、決着が着く」
呪い……一体、僕はどんな呪いにかかっていたのか。すべてがわからなかった。
木箱の蓋に手を掛け、中を覗く。
チョウチンカシラだ。数カ月前に見たときと同じ、グロテスクなミイラ。
「これが僕を呪ったのか……?」
振り向いた。
誰もいなかった。
希望の灯会も、仁科老人も、安曇もいなかった。
そして、電灯が切れていた。窓から射す、自然光だけが部屋を照らしていた。
「あれ……僕、なにをしていたんだっけ」
「舘町くん、寂しくなって私のとこに来たんでしょう?」
はっとして振り向くと、白井がいた。
場所も時間も、あの夜に戻っていた。白井の家だ。
白井の、あの散らかった部屋にいた。
「一体どうしちゃったの? 舘町くん」
裸の白井が僕に歩み寄って、抱きしめた。夢なんかじゃない。白井の体温も匂いも、甘い吐息の感触もわかる。
「なんか、変な夢を見たんだ」
「変な夢……?」
「そう。白井が死んじゃって、安曇っていう人が珈琲飲ませてくれる夢。……意味わかんないよね」
「きっと舘町くん、あれだよ……」
僕らは同時に云った。
「――疲れているんだ」
僕と白井は腹を抱えて笑った。やっぱり、白井は僕にとって欠かせない存在なんだ。そして、白井も僕のことを欠かせない。
二人で一つ。僕たちは一つの生命なんだ。
「……ん?」
僕は白井の肩越しに、白い靄を見た。
なにか、まずい予感がする。
白井も気づいたらしく、僕から離れて、霧に対し身構えた。
「舘町くん、下がってて!」
大人しい彼女に似合わない、鋭い声。僕が見たことない、怒りの表情。白井は歯を剥き出して威嚇した。
「白井、あれはなんだ……? 一体、なにが起きているんだ」
「舘町くんは気にしないで! 目を閉じて耳を塞いでいればいいから!」
「白井が見るなら、僕も見る!」
「舘町くん、ダメ! このままでは――」
「――幻が解けちまうってかい?」
靄の中から、男の声が聞こえた。そして、白銀の一閃が白井を突き刺した。
「白井!」
白井は日本刀に貫かれていた。それが引き抜かれると、おびただしい量の血液がまき散らされる。
――安曇だ。あの喫茶店の男だ。
ただし、その容姿は化け物じみている。右頭部には羊の角のようなものが生えている。同じく右目も、羊から移植してきたような目をしていた。
「お前……何者だよ!」
「僕は安曇。それ以上は知る必要がないよ。チョウチンカシラさん」
「その名で呼ぶなっ!」
白井は乱暴に叫んだ。まさか、白井がチョウチンカシラだって? あの、グロテスクなミイラが、白井の正体――
「舘町くん、この男の云うことは嘘なの! 全部全部、でたらめなのっ!」
「白井……」
「なに? どうしちゃったの、舘町くん!」
「僕、白井の言葉、信じられねえよ」
「なんで!」
「だってさ」
僕は白井の腹を指さして云った。
「そんな重傷を負っている人間が、どうしてそこまで威勢がいいんだよ?」
「舘町くんっ!」
白井は僕に悲痛な叫びを向けた。
「その辺にしておきな、チョウチンカシラ」
白井の喉に、切っ先が突きつけられた。
「もう、お終いなんだよ」
「安曇さん……」
安曇だって異形の姿だった。羊が混じったような姿をしていて、悪魔のようだった。
このまま、彼を信じていいのだろうか。
「安曇さん……僕、白井に呪われていたんですか? 白井……チョウチンカシラってミイラに」
「そうだよ。君の見ているのは現実ではない」
現実ではない? ならば、これは夢なのか。
「夢だということを、今証明してあげるよ」
安曇は刀を振りかぶり、白井に斬りつけた。
白井は叫び声をあげ、崩れ落ちる。血が噴出し、前に見た光景を思い出した。
僕は興奮して乱れた呼吸を整え、安曇と向き合う。
「チョウチンカシラって、一体なんなんですか……?」
「チョウチンカシラ仁科老人の家に伝わる、禁忌のミイラ。出自はわからないが、その顔を覗いた者に幻覚を見せ、心を奪うと伝えられている」
「心を奪う?」
「チョウチンカシラの作り出す幻覚は、理想像なんだ。白井は君にとって、なくてはならない存在になっていただろう?」
たしかに、白井は僕にとって躰の一部のようなものだ。白井と一緒に過ごす「今」という瞬間のために、僕は生きていけた。白井と居ることが、人生だと感じられた。それは、白井に人生の意味を依存させていたのかもしれない。
「白井は……僕の心の一部に癒着しているんです。僕は、白井がいないと生きていけないんです!」
「……そうか」
安曇は物悲しそうに溜息をついた。
「舘町くん、それではあとは君の問題だよ。君がチョウチンカシラに依存している限り、チョウチンカシラは何度でも復活する。ほら」
安曇が見やる方向には、躰の傷を再生させていく白井がいた。飛び散った血液が逆再生のように白井に戻り、深々と傷つけられた躰が治っていく。
「僕は他人の夢に入り込む力しかない。決着をつけるのは舘町くん自身だ」
安曇はメタリックブルーの水筒を僕に放り投げた。
「そいつは夢から目覚める特殊なブレンドの珈琲だ。白井と決別する意志を持って飲めば夢から覚める。白井に未練があるならば――」
「永遠に目覚めない、ですか」
蓋を開けると、黒い水面が覗いた。僕は、白井から離れることができるのか。
「た、たた舘、舘町くん……!」
「白井……」
血まみれの白井が、僕の方へ這い寄ってくる。
……白井。白井は、僕の願望が生み出した。少し地味で大人しかったのは、僕が白井に優越感を得るため。境遇が似ていたのも、心を開きやすくするため。相談に乗るはずなのに立場が逆転したのも、最初から計算されていたということか。
依存することは、とても心地よかった。
母親の子宮にいるような気がして。
――白井。
「白井、もう僕は大丈夫だよ」
「嘘……嘘よ……!」
「怠惰でいるのは、死んでいるのと同じだ」
僕は、もう支えなしで歩いていくしかない。
「さよなら白井。僕は、目を覚ます」
「舘、町くん――」
珈琲の苦い味わいが舌を刺激し、五臓六腑に染み渡る。視界がぼやけ始め、脳のどこか奥が覚醒へと働き始めた。
そして、僕は目覚める。
「おはよう、舘町くん。目覚めの珈琲はいかがかな?」
なんて爽やかな声。聞こえるのは安曇の言葉。見えるのはビルの無機質な天井。
「あれ……僕は……」
床で寝ていたらしい。少し躰が痛くなった。
「安曇さん、チョウチンカシラは……」
「仁科さんに持って帰ってもらった。あれは封ぜられるべきモノだからね」
僕と安曇さん以外、帰ったようだった。
「安曇さん、一体、あなたは何者なんですか」
「僕? 僕は喫茶店のマスターだよ」
「喫茶店の?」
「うん。夜にはバーになるんだ」
つかみどころのない人だ。僕は少し笑った。
「『夢を醒ますブレンド珈琲』がメインのメニューでね」
「バーの方は?」
「『夢に入る美酒』だね。まあ、こっちは非売品だけど」
彼は腰にぶら下げた、銀色のスキットルを軽く振った。
「いつでも来なよ。うち、評判いいからさ」
宗教勧誘を体験しようと思ったら、とんでもない体験をしてしまった。
なにせ、悪霊に憑りつかれたり、悪魔祓いのマスターに救われたりしたのだから。
安曇さんは、結局何者なのか。なぜ、白井と対峙したときに日本刀を持っていたのか。なぜ、羊の角と目をしていたのか。
チョウチンカシラよりも、謎が多い。
そして、後日とんでもないオチが僕を待っていた。
それは安曇の店に行ったときだ。
「ところで、安曇さんは誰から依頼を受けたんですか?」
ショートケーキと珈琲をオーダーして、僕は訊ねた。
「君の先輩さ。舘町くんの様子がおかしいから、チョウチンカシラの呪いだと思ったんだろうね」
案外、根はいい先輩だったのかもしれない。
「あ、そうだ。いいものがあるから、見せてあげるよ」
と、カウンターの奥へ消えていった。僕はショートケーキの欠片を口に入れ、彼を待った。
「これこれ」
彼はスマートフォンを取りに行っていたらしい。
「あのときの様子、動画撮影していたんだよね。仁科さんに頼んで」
「まさか、僕が幻覚を見ていたところですか!」
「そうそう。これ見れば、一切の後悔はなくなると思うよ」
僕は恐る恐る、動画を再生させた。
『――それじゃ、仁科さん、よろしくお願いします。もう録画始まっているんで、終わるまで持っていてください。……うわあ、それにしても舘町くん、こりゃ相当イカレてるぞ。ちょっと手強いかもな――』
動画に映っていたのは、放心状態の僕だ。虚ろな目をしながら、白井、白井とぼやいている。
『あ、希望の灯会の人たちは帰っていいよ。処理手続きが面倒だから今回は目を瞑るけど。あんまりお痛が過ぎると、僕の同業者に消されちゃうかもね』
蜘蛛の子が散るように、彼らは逃げ去って行った。僕は相変わらずフラフラと幻覚を見ている。
『それじゃあ、僕は彼を救ってきます』
仁科老人は低く唸った。
安曇はスキットルを口に当て、一口飲んだ。彼は放心している僕のところへ近寄って、黙り込んだ。
「このとき、僕らはチョウチンカシラと対峙しているんだ。舘町くんの夢の中でね」
「ってことは、白井は僕の頭の中だけに居たってことですか」
「そう。チョウチンカシラは君の心に寄生していたんだ。そして、最終的には立場を逆転させたかったんだよ。チョウチンカシラの目的は、人を依存させること。心を吸い取ったあと、君は廃人になる予定だったわけだよ」
僕には、白井が暗闇の中で光る希望に見えた。絶望しきった世界で、唯一の――光。
「チョウチンアンコウ」
「え?」
「知っている? チョウチンアンコウの生態」
チョウチンアンコウといったら、深海魚だ。でも、それしか知らない。
「チョウチンアンコウのオスはとても小さくってね。大きなメスの躰にかじりついて、寄生するんだ。すると、だんだんオスは器官を退化させていき、精巣だけになってしまう。メスと完全に同化してちゃうんだ。恐ろしいだろう」
「……似ていますね」
僕も、白井に依存し続けていれば、彼女の中に同化していたのだろう。案外その方が幸せだったかもしれないが。
「そんな難しい顔をするなよ。こうして助かったわけだし」
「そう、ですね……」
今までの幻覚は幸せだったか。そうだ、きっと幸せだった。幻想だとしても、この数カ月は――
「あれ?」
「どうしたんだい?」
「僕はこの数カ月、本当はなにをやっていたんだろ?」
安曇はとても申し訳なさそうな顔をしていた。
「それには僕の行動を説明した方がいいかな。さっきも云った通り、僕は君の先輩から依頼を受けた。チョウチンカシラに呪われて失踪した君を助けて欲しいってね」
「失踪? 僕は失踪していたんですか?」
「そう。こればっかしは僕にどうしようもない。携帯のGPSから追跡しようと思ったけれど、充電が切れているようだったし」
そうか。僕はずっとスマートフォンを使っていなかった。電話の着信がたくさん入っていたのは、先輩が心配していてくれたからだったのか。
「君が家に帰ったって聞いたからね、僕はすぐに携帯会社に連絡をとってGPSで追跡したのさ。それが、あの晩の出来事だよ」
「携帯会社もそんな簡単に情報を渡しちゃうなんて……」
「僕はいろいろと繋がりがあるからね」
なかなか謎が多い。
「それで、白井の家はどこだったんですか?」
「森の中さ」
森の中――!
「僕が『白井の家』についたとき、君は樹と抱き合っていたよ。『白井、白井、愛してる』ってね。残念な話だけど……」
その話は近所で噂になっていたようだ。
僕は夏休み明けに、不動産会社へと向かった。
了